「番記者」から編集者に 政治経済の本を量産、大震災10年に『原子力と政治』を手がける
記事:じんぶん堂企画室
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「本の街」東京・神田の一角に、フランス語など語学と海外文学で知られる白水社がある。1915年に創業、100年以上の歴史ある出版社だ。
その白水社の中で「異色の編集者」と言われているのが、竹園公一朗さんだ。前職は時事通信の政治部記者。異業種からの転職はおそらく社内で初めてだという。
編集者の机は雑然としているのが相場だが、壁際にひときわ資料であふれた机があった。砦のように本や資料が山積みされている。「少し片付けておくんでしたね」と笑った。
竹園さんは早稲田大学の出身。政治学者の丸山眞男に憧れ、東京都立大大学院に進み、丸山直系の宮村治雄教授(当時)について政治思想史を学んだ。
だが、当時は石原慎太郎都知事のもと、都立大など都立の4大学短大を統合再編して首都大学東京にする都立大改革が進められていた。それを機に宮村教授ら法学部教員の半数ほどが都立大を去ることになり、竹園さんも2年で修士論文を書いて大学院を辞めた。
その後、就職活動を経て入社したのが時事通信社だった。政治部に配属され、小泉純一郎首相の番記者を務めた後、京都総局を経て、再び政治部で福田康夫首相の番記者などを務めた。福田政権では、社会運動を巻き込む形で消費者庁を作るなど、包括政党である自民党の力を見た思いがした。だが、福田首相はあっけなく辞任。そして麻生政権を経て、民主党へ政権交代が起きる。竹園さんは福田首相の辞任に失望し「築きあげてきた戦後政治が終わった」と感じたという。
このままでは自分も摩滅して終わりそうな気がしていた。そんな時、取材先のテレビ局で、空き時間に開いた新聞に、白水社の求人広告を見つけた。小説や語学に強い出版社だが、人文書の編集者を募集していた。
もともと就職活動をした時は出版志望だったが、当時はそもそも募集がほぼなかった。戦後の日本社会がどう変容してきたのか、近代社会についての本を作りたいという思いが募った。2010年2月、29歳で白水社に移った。
入社して半年ほどは印刷会社に通い、組み版について勉強した。先輩編集者を手伝って編集の仕事を覚えた。毎日何本も記事を書く生活から、1年2年かけて本を作る生活に。大学院時代に戻ったような気がしたという。
入社して2年目、編集者として『トクヴィルの憂鬱 フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生』を手がけた。著者の高山裕二さんは大学時代からの友人。この本がサントリー学芸賞と渋沢・クローデル賞を受賞した。
「これほど嬉しかったことはないですね」。竹園さんはこれで自信をつけ、その後も大学や記者時代の友人知人のネットワークを生かして仕事の幅を広げた。それまで白水社では政治経済の本を出した実績はほぼなかったが、竹園さんはその分野で次々と本を出し続けた。
書き下ろし、翻訳を合わせて「毎月1冊、1年で12冊出すことが目標」だという。そのため、コンセプトや構成案、体裁、価格などをびっしり書き込んだ企画書を1年に20件は編集会議に出す。
書き下ろしの場合、最初に目次を考えるが、企画通りに進むことはほぼない。初稿が仕上がるとゲラにして、赤字を入れる。章を差し替えたり、図版を入れたり、原型をとどめなくなることもある。著者と話し合い、2カ月ほどかけて校了させる。
東日本大震災から10年になる今年2月、『原子力と政治 ポスト三一一の政策過程』を出版した。福島原発事故と政権交代を経て、日本の原子力政策がいかに変容したのかを記録した本だ。この10年間の原子力政策の形成過程を丁寧にたどり検証している。
著者の塙和也さんは、かつて一緒に首相番をしていた元毎日新聞政治部記者(現日本経済新聞編集局専門エディター)。2013年に『自民党と公務員制度改革』を出しており、白水社から2冊目の本となる。「何年かに一度、一緒に本を出そう」と話していた間柄で、震災10年に合わせて実現した。
竹園さんは「多くの人は10年前のことをすぐ忘れてしまうが、この10年で進んだことは大きい。簡単に結論を出せる問題はないが、複雑な利害関係の中で形成されてきた原子力政策を解きほぐすことを試みた」という。
インターネットが普及し、断片的な情報ばかりが消費される現代。「近代化、民主主義など長く蓄積されてきた知的資源を掘り起こし、伝えていくのが編集者としての仕事。人文書を読み、問題を理解するのは骨の折れることだが、その大切さを知ってほしい」と仕事の意義を語る。
編集者になり10年がたとうとする頃、恩師である宮村さんに近況報告をしたことがある。恩師からは「白い水が、だんだん竹園色に染まっていっているようだね」とメールで返事をもらったという。
(じんぶん堂企画室 山田裕紀)