震災後の陸前高田を生きる 「さみしさ」と「当事者性」について
記事:晶文社
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二〇一一年。東京と東北を往復しながら過ごしたこの一年は、さみしさというひとつの媒介を見つけていく時間だったと思う。それからずっと私は、このやっかいな感覚を相棒にして、人に会いに行って話を聞いたり、絵や文章をつくったりする旅を続けている。そしてきっと、これから先もそれはあまり変わらないという予感があるから、東日本大震災が起きて、津波に洗われてしまった土地土地を歩いていくなかでどのようにそれと出会ったか、ここに記しておきたいと思う。
三月十一日に震災があったとき、私は東京の美大生だった。同級生とシェアしていた家も地震で揺れて、とりあえず外に出てみようと友人と連れ立ってコンビニに買い物に行ったら、駅前のジムのプールから水がじゃんじゃんと噴き出していて、ああこれは大変だと思った。夕方ごろには近所でひとり暮らしをしている友人らも集まってきて、それから数日は、ひたすらに居間のテレビを囲んだ。SNSのタイムラインには、流されていくまちや、煙の上がる原発に上空のヘリコプターからちょろちょろと水がかけられる映像などが繰り返され、その隙間に「私は何をするのか」「どんな態度をとるのか」などという、急に本質を突くような問いが現れては消えていった。ざわざわとする気持ちを分けあうような居間の会話から時おり離脱して、私は自室で、とりあえず何かを描こうと思ってスケッチブックを開いてみる。しかし、そこに手癖みたいないつものが現れるたびに、こんなことをしている場合なのだろうかと辟易した。このまま絵を描くのが嫌いになったら嫌だなあと思いながら、この時私は、絵を描くことや何かを表現することが、社会と繋がっているのだということを、まるで初めて知るみたいに驚きながら実感していた。地続きの場所で何か大変なことが起きているらしいとき、私は一体何を描けばいいのだろう。
それから三週間。私はともかく何が起きているのか、起きたのかということをまずは体感的にわかりたい、すべてはそれからだと思い込んで、大学の同級生で、その後作品制作をともにする映像作家の小森はるかとともに、レンタカーを借りて被災した沿岸へと旅に出る。
風景は想像したこともないような力でねじ曲がり、色を失っていた。想像力とは、この世にはありえないものを思い描く力のことだと思っていたけれど、目の前にあるそれは、誰かが想像したどのフィクショナルな世界よりも、よっぽど遠いものに見えた。でも、それは手で触れられるほど近くにあって、想像では追いつけないことが現実に起きるのだということを、なかなか腑に落ちないながらも呑んでいくしかなかった。
一方で、“未曾有の”出来事の渦中で出会ったのは、紛れもない“ふつうの”人たちだった。ボランティアとして私たちが出向けば、「わざわざ遠いところまでありがとうね」と労われ、レンタカーに乗って冷えたおにぎりをかじっていると知れば、「かわいそうだ」とあたたかい豚汁が差し出される。親切であるといえばもちろんそうで、感謝しきりだったけれども、彼らは非常時だからと言って特別な対応をしているのではなく、ごく当たり前のことをしているだけのようだった。
彼らは同様に、被災してねじ曲がったまちを歩き、気になったものを見つければ、ごく自然な手つきでそのまわりを片付け、倒れたそれを立たせた。そして、必要な時には花を添えた。灰色の風景の中にひしゃげたぬいぐるみがちょこんと座っていたり、欠けた食器が大きさ順に整然と重ねてあったりするのを見つけると、私はどこかほっとするような気持ちになった。倒れたものを見つけたら立てるという所作自体はどこにでもあるもので、だから、ここにもある。ここに確かに、“人”がいる。私は、一つひとつの丁寧な手つきによって生まれる秩序と、それが平然と現れることの当たり前さに、なんだか憧れのような気持ちを抱いていた。
たった十日間の旅で、幾人もの大切な人に出会った。北茨城では被災したまちの案内を買って出てくれたお坊さんに、石巻では複数の家族が集まってつくる非常時なりのあたたかい食卓や、使えなくなった家を丁寧に片付けるおじいさんに。宮古ではふるさとの壊れた姿を代わりに見てきてと請うおばあさんに、盛岡ではふるさとを案じて目を腫らすおばちゃんに出会った。一度限りの人もいれば、いまでも付き合っている人もいる。
その後、深い付き合いになったひとりに、友人のつてで出会った、陸前高田に暮らすKさんというおばあさんがいる。彼女の家は高台にあって難を逃れたけれど、たくさんのご近所さんや親戚が被災したのだという。彼女は、「何もない」と言って、津波に洗われた広い地面とその先にある海を指さした。曇り空の下、夕暮れに向かって重い青色に染まっていく風景は、私には少し怖いものにも見えた。Kさんは、自身の体験や近しい人たちの境遇について早口で訴えながら、同時に、ここにあったものたちがいかにうつくしかったかを断片的に語っているように思われた。私は、それが見てみたかったなあと思いながら、決して叶わないのだということを感じていた。
彼女はそのまま日が暮れるまでしゃべり続けて、別れ際に、「ありがとうね、復興したらまたきてくださいね」と言って手を振ってくれた。私はその何気ない一言に、身体の芯がしんと冷えるようなさみしい気持ちになった。復興は遥か遠くだと感じている彼女に、「復興したら」と言われると、もうなかなか会えない(と彼女が思っている)ということや、私はその過程に触れられないのだということを想像させられてしまう。彼女はこうしてたくさんの話を聞かせてくれたけれど、同時に、遠方からやってきた旅の者には、いくら言葉を尽くしてもわからない、伝わっていないと感じたのかもしれない。そしてそれは、私が彼女の話を聞きながら、どこかで感じていた諦めでもあったことに気がつく。わからない、伝わらないだろうという前提をつくる境界線は、普段の生活の中にもあるけれど、あまりにも大きな出来事や体験の前に立つと、それはとてつもなく高く、揺るぎようのない壁として眼前に現れてしまう。
Kさんと別れたあとの車中で、ふと、先ほどの会話を振り返ってみる。彼女は、自分が体験してしまったことの辛さを話しながら、一方で、それを誰にも話せないのだとも言っていた。そして、内陸の親戚から送られてくる物資のことも、自分よりもっと大変な人もいるから、却って申し訳ないくらいだとつぶやいた。東京にいた私から見た大雑把な視点では、沿岸のまちに住む人たちがみんな“当事者”のように見えてしまっていたけれど、彼ら同士の間にも、いやむしろ強く、細かに、複雑に、その境遇に対する境界線は引かれ、身動きの取れないほどにかっちりとした“語れなさ”が生まれていた。近しい人、たとえ家族であっても語れないことが、彼女の身体を内側から圧迫しているように思えた。それはいかにも苦しい。語ってみたいこと、語らねばならないことが確かにあるのに、でもそれを大切な相手にさえ発することができない。身体は隣にあるのに、とてつもなく遠い。
彼女の庭先に広がる薄暗い平らな風景を思い浮かべなら、私は、ここにあるものはもしかすると、巨大なさみしさなのではないかと思った。ある出来事を目撃してしまった人たちの間に生まれた無数のさみしさ。それらが結合して膨れあがり、この土地に残されたものたちを吞み込んでしまっている。
私はいま、巨大なさみしさを目撃した。触れ方がわからないから、戸惑いはある。でも怖くはないのは、さみしさなら私の中にもあるからだ。日々の生活のなかでも、先ほどのようにKさんとの間にも、おもには他者のことを思い浮かべる時に、身体の芯にあるそれが、さまざまな形や強さを持って膨れていく。さみしいという感覚自体は、私だけではなくてきっと誰しもにあるのではないか。なにかが腑に落ちたような心持ちになりながら、私は、“未曾有の災害”で生まれた巨大なさみしさに対して、不思議な親しみのようなものを感じていた。
ただそれをさみしさと呼ぶまでには、すこし時間がかかった。たくさんの人が亡くなって、無数の人びとが土地を追われた巨大な出来事を、さみしさというある意味で凡庸な、身近な感覚を切り口に捉えていくのは、あまりに乱暴なのではないかとも感じていた。でも、そこに巨大なさみしさがあるのなら、ともかくここにはもうすこし、人が必要だ。そして、分けてもらえないとしても、そこにあるものを何とかして、分かち持てたらいいのにと思う。道ですれ違った人が抱えきれない荷物を引きずっているのを見かけたら、思わず手を差し伸べたくなるように、巨大なさみしさが偏ってそこにあるのだとしたら、多くの人がそこに足を運んで、ともに支えることができないか。かなりのお節介だし、おこがましいことだけれど、もしそれを分かち持つことができたら、メディアなどを通じて間接的にでも出来事を目撃した人たち、遠い出来事だと思ってその場にとどまらざるを得なくなっている人たちも、すこし救われるような気がした。何よりも私がそうであった。
東京に戻った私たちは、見聞きしたことをなるべくそのまま伝える「報告会」を東京や関西の都市部で開催するようになる。沿岸で聞いたことや見た風景について、何かを象徴しないように弱い言葉で話す。頼りない身体でかろうじて受け取ったものを誰かに手渡すことで、その場所を訪れる人が増えたらいいのに、と思っていた。そこから、私と小森は約一年間、一、二ヶ月に一度沿岸を訪問し、報告会を開いていくことになる。
五月にも友人を連れて沿岸を訪れた。同じ人に二度目に会いに行くことは、あれがその場限りの出会いではなく、この先も関わり続けるのだ、という約束をしてしまうように思えて、すこしだけ勇気が必要だった。いま思えばおかしな話なのだが、知り合った年配の人たちがいつか亡くなるのを経験していくのだと想像し、先回りして滅入ってしまうのだ。なんとも一方的だけれど、でも、えいやと二度目の訪問を繰り返す。小さくとも、互いに共有している何かがあるからか、二度目の会話は一度目のそれとは違って、ずっと親密なものに感じられた。Kさんの所へも立ち寄る。彼女は驚いた顔をしながら、またたくさん話をしてくれた。「何が起こるかわからないから」と、どこにも出かけなくなったと言う。ひと月経って、悲しみはより深く、彼女に染み込んでいるように感じられた。その一方で彼女は、丁寧に手をかけている庭先の水仙を指さして「塩水かぶっても季節になると花咲くから偉いよねえ」とほがらかに笑う。
特に夏になると、被災したまちには植物が茂り始める。ひしゃげた車のシートから青い芽が伸びて、時には花まで咲かせていた。土台だけになった家屋跡を高い草が覆い隠す。塩害に効くというひまわりが咲き、人びとの気持ちをほぐす。
巨大な災厄に見舞われたあの日から、風景も人も日々変化し続けている。訪れるたびにそのあり様に驚かされ、憧れるような気持ちになる。私はここで起きていることの細部をもっとよく見て、できることなら書き留めておきたい。いっそこの土地のどこかに暮らすのもいいかもしれないと思って、いつかの移住の前段として、九月には一ヶ月間の移動滞在を試みることにした。
九月の滞在で印象に残ったことがある。それは、福島沿岸の最北のまち、新地町のある夕暮れのこと。津波に洗われ、下がった地面には広く水が溜まっていた。海から数百メートルは離れた草地に、小型の船がころりと倒れている。海沿いの流された集落。どこからか家族連れがやって来て、小さな子どもが壊れた家屋の白い土台のうえを、両手を広げて慎重に歩く。転げそうになれば、父親が手を引いて助ける。弾むような高い声が響く。薄桃色に染まる空とそれを映す広大な水たまり。その間にいくつかの家族連れの姿。私はその光景をただうつくしいと思った。
その夜私は、夕方の出来事を思い出していた。いいものを見たなあと確かに思いながら、同時に、あの光景をうつくしいと感じるとき、私はあの場所に起きた出来事を忘れてしまっていることに気がついた。たった半年前、集落が津波に呑まれ、多くの人びとが暮らせなくなった場所。それを手放しでうつくしいと感じてしまってよかったのだろうか。うつくしい光景を目の当たりにした時間は、じんわりと、とてもよい気持ちであった。いまとなっては別によかったのだと思えるし、言えてしまうだろう。けれど当時の私は、瞬間的にも大切な何かを忘れてしまっていたことを、怖いと感じていた。
忘れるということ、気づけなくなるということに対する恐れのようなものは、時間が経つにつれて増していった。波に呑まれ、壊れたまちから必要なものを拾い集めたあと、残ったものは瓦礫として除けられ、家屋の土台だけがそこに張り付いていた。やがて草花が茂りあたりを覆い隠し、順繰りに小さな重機が現れて、一つひとつそれを剥がしていく。平らに均された地面は、そこに人の営みがあったことをもう伝えてはくれない。元もとの街並みを知らない私は、何も気づかずにずかずかとその場所を歩けてしまう。
冬になると、都市では、震災に対する個人それぞれの態度やポジションのようなものがほぼ固まりつつあり、「忘れない」ということが盛んに議論されはじめ、アーカイブへの関心も高まっていたと思う。また、特に原発事故を受けて、政治的な大きなうねりも起きはじめていた。一方現場では、痕跡が剥がされ、かつてあった街並みの細部が思い出しにくくなるなどの具体的な事象は起きていたものの、出来事自体を忘れるという時期では到底なかった。やっとの思いで仮設住宅に入って数ヶ月。仮住まいと言えど、あたらしい暮らしに慣れていくための時間を必死にこなしていくよりほかない。
私はといえば、東京とその場所との往復の間で、気持ちも行動も中途半端に引き裂かれていた。ただ、被災した土地で日々起きていること、そこで変化していくものの存在を忘れたくないし、できれば東京や関西の友人や、その他の人にも忘れてほしくはないと思ってしまう。あの土地で出会った人たちの言葉や表情、路傍に手向けられた花の姿、広い風景、そしてそれらに抱く憧れのような感触が浮かんでくる。忘れないでいようとするのは何のためかという問いは、いつか同じことが起きたときに人が亡くならないように、という答えを引き出すためにあるとも思われたけれど、私としてはそれよりも、いま、同時代をともに生きる人たちが抱えた痛みや感情をないがしろにしたくない、という気持ちの方が強かった。私には、多くはないけれど受け取ったものがあるのに、それを誰かに手渡す術を持っていないことが悔やまれる。忘れられるという感覚は、たとえば幼い頃に母親とはぐれて置いてけぼりになったときの強い不安を想起させた。ああそうだ、そういう時はとてもさみしいんだ。いままさにしんどい思いをしているのに、立ち上がってみようとしているのに、そういう自分らの存在を忘れられてしまっていたら、さみしい。まして、亡くなった人は、忘れないでと声をかけることもできない。別にそこまで期待していないし、頼んでもいないよという声も聞こえてきそうだけれど、意外なほどにマスメディアの報道や大きな“復興”の物語の陰になってしまうささやかな感覚に、下手なりにもこだわってみるひとりとして、私は存在してみたいと思った。こうして私は、さみしさに出会い直す。
四月に感じたように、一人ひとりが身体の中に抱えるさみしさが、あの出来事によって生まれた巨大なさみしさとどこかで結ばれているとしたら。さみしさという感覚をひとつの媒介にして、互いの存在をふたたび認知しあうこともできるかもしれない。出来事に対してそれはあまりに弱い媒介かもしれないけれど、それがあるということ自体に救われるような気持ちもある。
そうして、小さな相棒を得た私は、起きていることをもっと細やかに見聞きするための旅として、次の春から陸前高田というまちにしばらく暮らしてみることにした。
(瀬尾夏美著『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』より抜粋)