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スピノザの自然主義プログラムとは何か?(後編):決定論的行為者因果説・現実的本質・目的的偶然・現動的な力

記事:春秋社

Portrait of a man, thought to be Baruch de Spinoza, attributed to Barend Graat
Portrait of a man, thought to be Baruch de Spinoza, attributed to Barend Graat

前編:必然主義と目的論批判 はこちら

自由意志も目的論もない行為者性――第I部「スピノザの決定論的行為者因果説」

 この自然すべてが普遍的な因果的必然性によって決定されている、というのがスピノザの立場だ。ではこのとき、人間の欲求、意志、行為はどこに位置づけられるだろう。それらもまた普遍的な因果の連鎖の中に位置づけられねばならないというのが、スピノザの見方である。ここから僕は、「決定論的行為者因果説」という因果概念をスピノザに認め、それによって、普遍的な因果系列の外部の余地を一切与えない思想をスピノザの中に見いだした。一方で注意すべきは、この解釈に照らせば、スピノザの決定論あるいは必然主義は人間に「行為者性」の余地を与える、ということである。但しその「行為者性」は、目的論とも自由意志とも無関係な「行為者性」なのである。

 「行為者因果説」というと、現代では自由意志肯定論者の専有物だと考えられがちだが、「決定論的行為者因果説」は、現代の行為論において近年、一定の支持者を集めている立場であり、スピノザもまたこの立場に含められる思想を提起していたのだと僕は考えている。

プラトン的な「二世界説」の否定――第II部「コナトゥスの形而上学」

 前編で述べたように、万物が因果的必然性によって「他ではありえようがない」ように決定されているというスピノザの必然主義は、「この現実以外の現実は不可能だった」という「唯現実論(アクチュアリズム)」を帰結する。このような唯現実論は、この現実を超えた実在を一切認めないはずである。僕はこうしたスピノザ理解にもとづき、スピノザ思想をプラトン主義あるいは「二世界説」に引き寄せる解釈(スピノザの因果性概念を「形相因」と見なす解釈には、この傾向が濃厚である)に異議を唱えた。

 ここで「プラトン主義」や「二世界説」ということで意味しているのは、大まかに言うと、この移ろいゆく現実世界の背後に永遠不変の理想世界(イデア界)を想定し、その世界こそが「真実在」であって、現実世界はその不完全な写しに過ぎない、と見るような思想である。数学的対象のような「無時間的」な存在こそが、この世界の背後にある真実在だ、という考え方がそこには結びつく。だが僕の理解では、スピノザにおける「真実在」とは、時間の中で持続する事物のただ中で働く「現実的本質=コナトゥス」(個物がそれによって存続し行為する力=神の力)にこそ見いだされるものであって、「無時間的本質」と呼ばれるものは、たしかに認識上有益な対象ではあっても、本来の真実在たる持続存在からの抽象に過ぎず、いわば真実在の色あせた影でしかないのだ。

偶然的=没目的的な必然――第III部「コナトゥスの自然学への基礎論」

 僕はこのような個物の現実的本質=コナトゥスを、「慣性」に類似する、個物の没目的的な有機的組織化の原理として位置づけた(この規定に語義矛盾めいたものを見いだす人は少なくないと思うが、ここは是非とも僕の本に当たってほしい)。そしてそこから、そのような原理がこの自然の中でどのように働くのかを明らかにしていった。

 中でも重要なのは、このような原理としてのコナトゥスが、スピノザの必然主義と相容れないわけではないような「偶然」に積極的な余地を開く、という考察だ。ここで言う「偶然」とは、ライプニッツがスピノザの必然性概念を「幾何学的で闇雲な必然性」とか「むき出しの必然性」とか呼んで批判したときに適切に捉えていた性格であり、プラトンが古代原子論者の「でたらめな必然=アナンケー」を批判的に考察したとき、そこで捉えられていた自然のあり方にも一致する。

 彼らが忌み嫌ったのは、一言で言えば「没目的性」という意味での「偶然」、九鬼周造が言う「目的的偶然」である――ちなみに言えば、ダーウィン的な進化において自然淘汰(自然選択)と並ぶ重要な要素である突然変異が「ランダム」と言われるときの意味もこれである。このような「没目的性」は、まさにスピノザの自然主義プログラムの核心に位置する自然観だった。但しスピノザはそれを決して「偶然」とか「でたらめ」とかいうネガティブな用語では名指さず、むしろ自然=神が「無限に多くのものを無限に多くの仕方で産出する」という、ポジティブな言葉で語るのだ。

「力」を「可能態」と「完成態」から解放する――第IV部「スピノザ主義的な力の形而上学

 最後の部では、サブタイトルに掲げた「自由意志も目的論もない力の形而上学」を主題的に取りあげた。スピノザは、自己の哲学思想の核心に「力」の概念を据えるが、しかしそこでの「力」とは、アリストテレス以来「力」に結びつけられてきた「可能態」と「目的論」の要素を共に排除するような「力」である。つまり、アリストテレスの「デュナミス=力」は、この現実が異なるものでもありえた、という思想を保証する「可能態」であり、かつまた「エンテレケイア=完成態」を実現しようと目指す働きであったが(「エンテレケイア」の「テレ」は「テロス=目的」を意味する)、これらの要素を払拭したスピノザの「力」の概念は、唯現実論的で没目的論的な「現動的な力」だということである。

 以上、親切で分かりやすい解題とは言えないかもしれないが、僕の本の要点を見てきた。興味をもたれた方は是非手にとって頂ければと思う。

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