アイヌゆかりの地に駐屯した「第七師団」とは何だったのか?
記事:白水社
記事:白水社
この本は近代日本における北方の物語である。
日本が近世から近代へと向かう過程で、北からの脅威が大きな課題だった。それは、江戸幕府にとっても、また、明治政府にとっても、共通するものだった。北とは言うまでもなく、ロシアである。
そこから「北鎮」という言葉が生まれる。北鎮とは、北方の脅威から自らを護る、という意味だ。北鎮の前線基地は北海道であった。
この地が「北方の鎮護」にあるとする考えは、江戸時代に醸成され、明治政府が蝦夷地を北海道とあらため、開拓使、その後、屯田兵をおいた理由もそこにあった。屯田兵はのちに第七師団となり、北鎮の役割をになった。それは1945(昭和20)年の敗戦までつづくこととなる。
本書は「北鎮部隊」たる第七師団と、その下にあった歩兵第二十五聯隊を「主人公」とする。第七師団は北鎮部隊と呼ばれていた。
唐突に、「師団」とか「聯隊」と言われても、面食らう読者も少なくないだろう。師団とは平時でおおよそ1万余りの兵力をもつ部隊だ。その下に歩兵聯隊をはじめとするいくつかの聯隊が属する。歩兵聯隊には平時で2000人ほどの将兵がいた。
「第七師団歩兵第二十五聯隊」は、屯田兵を母体とし、1986(明治29)年に札幌の東の月寒の地に誕生した。第二十五聯隊がその歴史を終えるのは、半世紀後の1945(昭和20)年8月17日のことである。樺太の逢坂で聯隊旗は焼かれた。
この本の目的は、月寒にあった歩兵聯隊と、その上部組織である第七師団の、その誕生から終焉までの歴史を追いながら、「帝国日本の北の記憶」をたどることにある。
では、今なぜ、北方の物語を世に問わねばならないのか。それは、近代日本の発展とその蹉跌を考えるにあたって、北鎮が極めて重要な概念と考えるからである。そしてそれは、私たちの「戦後」を形づくる大きな要因ともなっている。
この問題については、これから縷々述べていくこととなるが、ここではごく簡単に北鎮がなぜ日本の近代と戦後を語る上で欠かせないのか、おおよその輪郭を記しておくこととする。
そもそも私たちは「北鎮」という語になじみがうすい。「北進」であれば眼にしたことがある、そのような方が多いだろう。言うまでもなく「鎮」は「護り」であり、「進」は「攻め」だ。北鎮と北進、それは北への「守攻」の違いとなる。
近代日本の大きな流れは、まず北鎮があり、その後に北進に転じていった、と言える。司馬遼太郎は、「鎮」から「進」への分岐点を日露戦後とする。日露戦争までは自衛の戦いであり、シベリア出兵以後の外征は、「瀆武」とするのである。日露戦後に日本は、「武をけがした」のだ。そのような歴史観のもとに『坂の上の雲』は書かれている。
北進とならぶ言葉に「南進」がある。しかし「南鎮」という言葉はない。日本は南方を大きな脅威とは感じていなかった。だが、北からは威喝をうけている、帝国日本の指導層も、また民衆も、そのような不安、否、恐怖をいだいていたのである。それゆえに、国家の防衛線はできるだけ遠くにおかねばならない。そのように考えたのだ。つまり、北鎮と北進は分かちがたいものとして認識されていたのである。
その北鎮をになったのが第七師団だった。第七師団の衛戍地は旭川だった。旭川もまた月寒もかつては軍の街であった。では、2つの街はいかなる関係にあったのか。
日清戦争の折に屯田兵から編成された臨時第七師団の兵営は、もともと月寒にあった。その後、北海道の中央に新たな「軍都」がつくられた。それが旭川である。そこに、第七師団の司令部と3個の歩兵聯隊がうつった。しかし、師団に所属する4個聯隊のうちの一つ、歩兵第二十五聯隊のみが月寒にのこったのである。旭川に移駐した3個聯隊とは、歩兵第二十六聯隊、歩兵第二十七聯隊、歩兵第二十八聯隊の三つである。
第七師団は日露戦争からはじまり、シベリア出兵、満洲事変、日中戦争と対外戦へと出征する。真珠湾攻撃後に、一部の部隊が南方へと転用されるが、第七師団の任務は一貫して北方の護りだった。1940(昭和15)年末に、歩兵第二十五聯隊は樺太にうつる。昭和15年という年は、複雑な時代背景をもつ時期である。前年にドイツはポーランドに侵攻、欧州を舞台に世界大戦がはじまっていた。翌年、つまり昭和15年に日本は日独伊三国同盟を締結し、英仏と対抗する勢力となった。北進にくわえて、南進が選択肢として立ち現れてくることとなる。
しかし、樺太にあった歩兵第二十五聯隊の使命は、なによりも北鎮だった。旭川にのこった他の3個聯隊も同様である。歩兵第二十五聯隊が去ったのちに月寒につくられたのが北部軍司令部だ。その北部軍司令部が、その後の北方作戦の指揮をとることとなる。北部軍司令部の指揮下に、第二十五聯隊も、旭川の3個聯隊も属することとなるのである。
歩兵第二十五聯隊は樺太でソ連軍の侵攻に遭い、終戦後に解隊される。他の3個聯隊は北海道にのこり敗戦を迎える。
戦後の占領軍の北海道進駐にあっては、第五方面軍(北部軍の後身)が軍備の移管作業をおこなった。占領軍は旭川の第七師団司令部に進駐し、歩兵第二十五聯隊の兵舎にも駐屯した。どちらにも星条旗があがった。それをもって北鎮の歴史は終わるのである。
[中略]
札幌には地下鉄が3線ある。3番目にできた地下鉄東豊線の南の終点が福住だ。月寒中央駅はその一つ手前の駅である。札幌の中心部・大通から五つ目の駅だ。
月寒中央駅のまわりには集合住宅が立ち並び、となり駅の福住までつづいている。福住には、現在、「日本ハムファイターズ」がホームグラウンドとする札幌ドームがある。「コンサドーレ札幌」の試合も、アイドルのコンサートもここでおこなわれる。月寒も福住も、札幌市内のごく普通の住宅地である。
月寒中央駅の東側は、かつて歩兵第二十五聯隊があった場所だ。だが、聯隊の記憶をとどめる建物はほとんどない。唯一のこっているのが北部軍司令部の司令官官邸で、それは郷土の歴史を伝える資料館として使用されている。
聯隊跡地とは逆、西南にすこし歩いたところに、「平和」という名が付けられた公園がある。平和公園には遊具があり、ボール遊びができるグラウンドがひろがる。どこにでもある普通の公園だ。
父と子がサッカーをするその先に、五芒星をかかげる建築物が見える。高さ六、七メートルほどの八角形、石造りの塔である。五芒星とは、五つの角を持つ星マークで、かつて陸軍の徽章に使われていたものである。
建物の正面には「忠魂納骨塔」と書かれている。背後にまわると、黒い鉄の扉に鍵がかかっている。塔の背後には以下の文が刻まれている。読みにくいが、時代の空気が感じられるものなので、全文を引く。
惟フニ我ガ聯隊ハ剏設以来既ニ三十有四年ノ星霜ヲ経タリ、此ノ間精忠雄節ノ将兵ニシテ身ヲ以テ国難ニ赴キ戦傷病没セシモノ其ノ芳骨今ヤ実ニ一千余体ノ多キニ上ル、是レ皆生キテハ国家ノ干城死シテハ護国ノ神霊トシテ軍旗ノ光彩ト共ニ永ク後人ノ敬仰スルトコロナリ、是ヲ以テ其ノ偉績ヲ偲ビ其ノ神霊ヲ慰メンガ為ニ忠魂納骨塔ノ建設ヲ企テ広ク官庶ニ計ルニ賛ヲ得ルコト十数萬ニ達シ国民銃後ノ赤誠溢レテ茲ニ其ノ実現ヲ見ルニ至レリ。/嗚呼忠勇ナル我ガ先輩将兵ノ義烈ハ是レ即チ軍人精神ノ亀鑑ナリ、其ノ勲績敬慕スルノ士ハ須ラク塔前ニ額キテ先人ノ偉功ヲ壮トシ礼ヲ以テ忠励ノ誠ヲ誓フベシ。
碑文の最後には「昭和九年二月三日/歩兵第二十五聯隊長永見俊徳」と書かれている。昭和9(1934)年2月とは、関東軍が奉天郊外の柳条湖で、南満洲鉄道を爆破した2年半後のことだ。これを中国軍の謀略として、関東軍は満洲全域に兵をすすめた。翌年「満洲国」を建国するも、国際連盟は調査団を派遣し、事変を自衛とは認めなかった。対して日本が連盟を脱退したのが1933(昭和8)年、この忠魂納骨塔が建てられた前年のことである。
時代は、次なる大きな戦いへと向かっていた。この納骨塔建立の目的は、「生きては国家の干城、死しては護国の神霊」となった将兵を、敬仰することにあった。歩兵第二十五聯隊は、この地から日露戦争にはじまる対外戦へと出征していったのだ。その「忠魂」の慰霊のために、この納骨塔は建てられたのである。
忠魂納骨塔の表面は一見するときれいだが、すでに80年の歳月をへた建築物だ。かなり老朽化しているようにも見える。また、塔の由来は、その背面にある碑文だけで、現代文で書かれたものはない。納骨塔がここにあることを示す「月寒忠霊塔」という碑(それは戦後の1963年に建立されたもの)は公園の外におかれており、あたかも、「忠魂」「忠霊」の記憶は、「平和」の外に追いやられているようにも見える。
平和公園には、円形の回転式ジャングルジムやすべり台などの遊具がある。それらの遊具そのものも古めかしいものだが、そこに五芒星をいただく納骨塔があることが、なんとも奇異に感じられたのである。
実はここは、歩兵第二十五聯隊の陸軍墓地だった。戦後、占領軍に接収され、墓は移転されて平和公園と名をかえ、忠魂納骨塔のみのこったのである。
戦後、軍に関わりの深い場所の多くに、「平和」の文字がつけられた。旭川駅から第七師団へ至るかつての「師団通」も、戦後まもなく「平和通」と名をあらためている。
この「忠魂」と「平和」という言葉の混在に触れると、私たちの戦前と戦後の非連続性、さらに、そこに体現された屈折した心性を感じてしまうのである。
もとより私は、戦死した将卒の「塔前に額きて先人の偉功を壮とし礼を以って忠励の誠を」誓うことが、戦後を生きる日本人にとって必要欠くべからざる礼節である、と考えているものではない。ただ、かつて「身を以って国難に赴き戦傷病没」した将兵がいたということ、彼らが過去に「生きては国家の干城、死しては護国の神霊」とされ、尊崇されていたという事実は知っておくべきであり、その問題を、戦後の「平和」と接続させて考える必要がある、と思っているにすぎない。
平和公園の納骨塔を目にしてから、月寒と歩兵聯隊の歴史に興味をいだくようになった。自分が20年住んだ札幌の街に、このような場所があることを寡聞にして知らなかった。この街とそのまわりの歴史を調べていくと、北方の護りとしての北海道の役割、日清戦争後、対外戦へと向かう一歩兵聯隊のありよう、くわえて、歩兵聯隊とそれを支える街との関係など、日本の近代を考える上で、軽視できないいくつかの側面が浮かび上がってくるのではないかと思えたのだ。
戦後、月寒には、満洲や樺太から引き揚げて来た人々が住んだ。聯隊の歴史は戦後に引き継がれていくのである。もしかしたらこの街は、20世紀前半の世界史と深く関わっていたのではないか、そのような直感が身内にわいてきたのである。
現在の月寒には、旧軍の痕跡は多くない。かつて兵士の空腹を満たすために売られていたアンパンが名物としてのこっているぐらいだ。歩兵聯隊の街としての月寒の記憶も、この忠魂納骨塔と同様に、忘れ去られていくのだろうか。第七師団歩兵第二十五聯隊と月寒の歴史を調べ、北鎮をめぐる北の記憶を書きとどめておこうと思った理由は以上の通りである。
ではなぜ第七師団の兵営が、札幌の東郊・月寒の地に生まれたのか。
札幌は豊平川の扇状地にできた街である。豊平川は札幌の南西を水源として、市の東を流れ、東北に抜けて石狩川に合流する。中流部にはダムがあり、札幌市民はその水や電気を利用している。札幌にとってなくてはならない川である。
現在、月寒がある札幌豊平区は、豊平川の東に広がる行政区である。その地区が札幌市に編入されたのは戦後のことだ。かつては豊平村だった。豊平村の月寒に開拓民が入植したのは1872(明治5)年、開拓使が誕生して間もない頃だった。琴似屯田兵村ができる前のことである。
岩手の士族40戸あまりが、千歳道に入植したのである。千歳道とはケプロンが建策しできた札幌本道の一部である。現在の国道36号線のことで、札幌駅を起点とすると、すすきのまで南へすすみ、そこで進路を東にかえて、千歳を経て室蘭へと至る道路だ。
つきさっぷ(月寒)という地名は、それがアイヌ語であることはわかっているが、原義には諸説がある。ひとつは、「チ・キ・サ・プ」というもの。「われらが木をこするもの」という意味で、月寒には、ハルニレが密生しており、その木片で火をとることができた、その語が由来だという。
もう一つ「チ・ケシ・サプ」は「丘のはずれの下り坂」という意味という。月寒は高台になっている。軍の施設の多くは高台にある。水害などの自然災害を避けるためである。私の体感では、「丘のはずれの下り坂」のほうが近いように思うのだが、どちらが正しいのかはわからない。
アイヌ語の名前を付したということは、その地に先住民がいた、ということだ。豊平町の歴史をひもとくと、1878(明治11)年に教育所が誕生、1882(明治15)年にはレンガ工場もでき、その2年後に神社が剏建され、1885(明治18)年には戸町役場もできる。小さな町として、都市機能がそなわっていく。
月寒に兵営が誕生したのは、その地にいた開拓民・吉田善太郎が低廉で土地を提供したから、と伝えられている。当時編成されたのは、歩、工、砲からなる、野戦独立隊だった。野戦独立隊は、日清戦争にあわせてつくられたものだ。日清戦後の1899(明治32)年に野戦隊が解体され歩兵聯隊として生まれ変わるのである。それが、二十五、二十六、二十七、二十八の4聯隊だった。
【渡辺浩平『第七師団と戦争の時代──帝国日本の北の記憶』(白水社)「はしがき」および「第三章 北に向けて葬れ」より抜粋】