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天才の「思想」の真髄がわかる!『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』

記事:白水社

フランスのラジオ番組から生まれ、本国で23万部のベストセラーとなった『寝るまえ5分のモンテーニュ「エセー」入門』(原題:Un été avec Montaigne)。その待望の続巻『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』が、白水社から邦訳刊行されました。
フランスのラジオ番組から生まれ、本国で23万部のベストセラーとなった『寝るまえ5分のモンテーニュ「エセー」入門』(原題:Un été avec Montaigne)。その待望の続巻『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』が、白水社から邦訳刊行されました。

🤔アントワーヌ・コンパニョンさんのラジオ番組「Un été avec Pascal」はこちらで聴くことができます。

ブレーズ・パスカル Blaise Pascal (1623─62) フランスの数学者、物理学者、哲学者にして神学者。フランス屈指の名文家。断章形式で残された草稿は死後まとめられ、1670年に『パンセ』として刊行。
ブレーズ・パスカル Blaise Pascal (1623─62) フランスの数学者、物理学者、哲学者にして神学者。フランス屈指の名文家。断章形式で残された草稿は死後まとめられ、1670年に『パンセ』として刊行。

🤔『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』では、『パンセ』からの引用には、ブランシュヴィック版(ブ)、セリエ版(セ)それぞれの断章番号が付されています。

 

1 「著者まえがき」より

 フランス・アンテル放送とエカテール出版の〈~と過ごすひと夏〉シリーズ第1弾は、モンテーニュによって始まったのだから、モンテーニュの最良の読者であった、この人物の番がいずれ回ってきて当然ではないか?

 そう、パスカルこそは、モンテーニュをもっとも熱心に読んだ弟子でありながら、もっとも強固なライバルでもあった。

 プルーストの『失われた時を求めて』が『サント=ブーヴに反駁する』のようなテクストから生まれ、小説内にそのテクストを潜ませているように、『パンセ』も、いわば『モンテーニュに反駁する』とでも言えるテクストから生まれた。

 「モンテーニュは間違っている」(ブ325/セ454)と、パスカルは『パンセ』のなかで扱うほとんどすべてのテーマにおいて声高に主張している。「モンテーニュは自分について語りすぎる」(ブ65/セ534)「彼は自分の書物全体を通して、なげやりで無気力な態度で死ぬことしか考えていない」(ブ63/セ559)、モンテーニュの欠点はいずれも「大きな」ものであり、とりわけ「自分を描こうという愚かな企て」(ブ62/セ644)がそうだ。

 モンテーニュの存在は『パンセ』のなかのいたるところに透けて見えるが、それというのもモンテーニュこそ、パスカルが回心させようとする「完成された紳士オネットム」の手本にほかならなかったからだ。

 パスカルほどモンテーニュに対抗した思想家はいないとしても、『パンセ』は『エセー』なくしては着想されなかったかもしれない。フランス文学は、引き離しがたい作家同士の組み合わせの数々によって威光を放っているが、パスカルとモンテーニュは、そうした作家たちの一組ペアをなしているのである。

 

【著者コンパニョンが語る「パスカル、幸福の探求」"Pascal, c'est la recherche du bonheur"】

 

2 「あの恐るべき天才」より

 エリック・ロメール監督の〈教訓物語〉シリーズ中の一作『モード家の一夜』は、クレルモン=フェランを舞台にしている。作中では、クレルモン生まれのパスカルが大きく取り上げられる。

 今から50年前、1969年に撮影されたこの映画の冒頭、ジャン=ルイ・トランティニャンは、欲望に心乱れるカトリックの若い技師として、書店でパスカル全集をめくっている。

 その後、モードという若い女性の傍らで一夜を過ごすことになるが、このモードの家で、『パンセ』の著者についての会話が交わされるのだ。

 モードがパスカルについて知っていることを2つ、3つ挙げるとき、それは人が学校を卒業してずっと経ってから思い出す類のものである。

 引用されるのは、考える葦(ブ348/セ145)二つの無限(ブ72/セ230)。もしこれに加えるならば、賭け(ブ233/セ680)クレオパトラの鼻(ブ162/セ32、ブ163/セ79)クロムウェルの尿管(ブ176/セ622)、あるいは村の女王たち(ブ33、34/セ586)もありえただろう。

 『パンセ』には、数多くの忘れがたい名言やイメージが含まれている。

 パスカルは、フランス語にもっとも熟達した偉大な文人の一人であったが、その前に比類なき数学者にして物理学者であり、なおまた並外れた哲学者にして神学者でもあった。

 

【エリック・ロメール『モード家の一夜』予告編】

 

 『キリスト教精髄』におけるシャトーブリアンほど、パスカルが私たちに呼び覚ます賛美の念や、そのもととなる伝説を巧みに表現した者はいない。「このような人間がいたのだ。12歳で〈棒〉と〈まる〉を用いて数学理論を考え出し、16歳で円錐曲線について古代以降の世におけるもっとも博識な試論を書きあげ、19歳で自分の頭にのみ存在する技術によって計算機械を考案、23歳で空気の重さの諸現象を証明し、かつての自然学の大きな間違いのうちの1つ〔自然が真空を嫌悪するという真空論〕を打ち砕いた。他の人々がようやく目覚め始める年ごろには、すでに人文科学の領域をめぐり終えてしまい、その虚無に気が付くと、宗教の方へ思考を転回させた。その瞬間から、39歳で訪れる死の瞬間まで、つねに病をかかえ苦しみながら、確立した文体はボシュエやラシーヌがまねることになり、この上なく見事なからかい表現の手本ばかりか、この上なく強固な論証の手本も示したのである。ついには、病苦に襲われる合間を縫って幾何学の最高難度の問題〔サイクロイド(円が直線上を滑らずに転がるときの、円周上の定点の軌跡)の問題〕を抽象化によって解決し、紙面には人間についてと同じだけ神についての考えを書きつけた。この恐るべき天才の名は、ブレーズ・パスカルといった」

パスカルが発明した世界初の計算機「パスカリーヌ」。のちのコンピュータ(電子計算機)へとつながる。
パスカルが発明した世界初の計算機「パスカリーヌ」。のちのコンピュータ(電子計算機)へとつながる。

 

3 「その者は天使でも、獣でもなく、人間である」より

人間は、自分が獣に等しいとも天使に等しいとも考えてはならない。しかし、その双方に無知であってはならず、その双方を知らねばならぬ。(ブ418/セ154)

 パスカルは、人間をへりくだらせ、おとしめ、みずからの悲惨に突き落とすことによって、護教論の口火を切る。しかし、それは結論ではない。人間は、悲惨と偉大のあいだに引き裂かれた中間的な存在なのだ。人間に対してみずからの悲惨をあからさまに突き付けた後で、今度はみずからの偉大さの名残について自覚させねばならない。そうすれば、人間は自分の条件全体を知ることになろう。

 ここでもまた、パスカルは聖アウグスティヌスに従っている。聖アウグスティヌスにとって、〈普通ノ人間ハ天使ニ劣リ、家畜ニ勝ル〉、すなわち「人間は獣と天使の中間にいる」(『神の国』第9巻13章)のであって、その天使自身も神と人のあいだの中間的存在である。

 パスカルが熟知しているモンテーニュは、『エセー』の最終章「経験について」のなかで次のように書いていた。「彼らは、自分自身を抜け出したい、人であることから逃れたいと願う。狂気の沙汰だ。天使に身を変えようとして、獣に身を変えてしまう。自分を高めようとして墜落するのだ」(第3巻、第13章「経験について」)

 人間は、同時に天使にして獣ではありえない。そのいずれでもないが、一方あるいは他方に等しい身となり、自分がそのいずれかであると思うことならできる。

 ここに、パスカルの論証の基盤となる、2つの哲学の流派あるいは学派が認められる。エピクテートスに代表されるストア派と、モンテーニュに代表されるピュロン派あるいは懐疑派だ。『エピクテートスとモンテーニュについてのサシ氏との対話』において引用されているこの論争は1658年になされたとみられ、それはちょうどパスカルがポール・ロワイヤルの友人たちに護教論の計画を明かしたとされる頃だが、その論争こそが『パンセ』の真の前提であった。

 自分を天使に等しい存在にさせうると考えるストア派の特色は、高慢さである。獣と等しい身になりさがるピュロン派、そしてエピクロス派とおそらく自由思想家リベルタンの特色は、怠惰あるいは下劣さである。

一方の人々は情念を捨てて神になろうと欲し、他の人々は理性を捨ててけだものになろうと欲した。(ブ413/セ29)

 しかし、どちらの人々も、情念にしろ理性にしろ、完全に捨て去るには至らなかった。なぜなら、人間は決定的に中間的な存在だからである。

Antoine Compagnon『Un été avec Pascal』原書
Antoine Compagnon『Un été avec Pascal』原書

 パスカルはこうも言う。妻と一人息子を亡くしたばかりのこの男が、賭けや狩りで気晴らしをし、「1羽の兎をとらえようと気もそぞろで、頭が一杯になっている」のを見て驚いてはならない。なぜなら「彼は結局のところひとりの人間にすぎない。すなわちごくわずかなことしかできなかったり、たくさんのことができたり、何でもできたり、何もできなかったりする人間にすぎない。天使でもなければ獣でもなく、人間である」(ブ140/セ453)

 ここで重要な語は「できる」だ。ごくわずかなことしかできないが、たくさんのこともできる、何もできないが、何でもできる。

 パスカルは人間を打ちのめすが、持ち上げもする。なぜなら、人間には〔原罪以前の〕原初の性質の痕跡が残されているからだ。

人間の偉大さは、惨めであると自覚していることにおいて偉大なのだ。/樹木は自分が惨めであるとは思っていない。/したがって、惨めな自分を知るのは惨めであるが、自分が惨めであると知ることは偉大なのだ。(ブ397/セ146)

 さらにその先へ行こう。矛盾する二つの選択肢、天使と獣、ストイシスムとピュロニスムは、結局同じところに戻る。パスカルは抜け目なく弁証法的手法を用い、またしても正と反の逆転、その止揚をおこなう。

人間は天使でも獣でもない。そして不幸にも、天使のふるまいをしようとすれば獣のふるまいをすることになるのだ。(ブ358/セ557)

 この断章(パンセ)は道徳的格言として忘れがたい印象を刻むものであり、次のような内容として受け取られた。すなわち、高慢な人々はおとしめられよう、失墜はまさに高慢の報いなのだからと。

なぜこれほどまでに彼の言葉は刺さるのか! 天才の思想の真髄に迫る刺激的な41章 アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』目次より
なぜこれほどまでに彼の言葉は刺さるのか! 天才の思想の真髄に迫る刺激的な41章 アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』目次より

 しかし、この命題は『パンセ』においては、とりわけ神学的な意味を持っている。天使にならんとするとはつまり、諸存在のヒエラルキーのなかでより上位の性質を得たがるということだ。原罪を気にかけない人間は、そのうぬぼれによってさらに神から離れ、それによっていっそう格下げされ、獣に近づく。人間が自分の悲惨に目をつぶり、自分の二重性の矛盾を無視して自分の偉大さしか認めないのであれば、さらに惨めな存在となってしまう。このようなわけで、神の支配を逃れんとして、「今日では、人間は獣と似たものとなってしまった」(ブ430/セ182)

 選択肢のもう一方もましとは言えない。なぜなら、ピュロン派とエピキュリアンたちは、

このような思い上がりの空虚さをみてとって、きみたちの本性は獣たちの本性と同じであるときみたちに理解させることによって、きみたちをもう一つの断崖へと突き落とし、動物たちに割り当てられた邪欲のうちにみずからの幸福を求めるようにさせたのである。(同上)

 人間にとって唯一の活路は、自分の悲惨と偉大とを同時に知ることであり、自分の本性を定める矛盾を、ニコラウス・クザーヌス〔15世紀ドイツの神学者・哲学者。神を矛盾的統一と捉えた〕による〈対立スル物ノ一致〉の伝統に沿って、知ることである。パスカルがこう想起させるように。

[…]それぞれの真理を認めたあとに、それとは相反する真理が想起されると付言せねばならぬ。(ブ567/セ479)

 

【アントワーヌ・コンパニョン著『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』(白水社刊)より】

 

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