京都への憧憬とAIの未来との融合――現役京大生・丸岡さくら氏が力説する小説『四季のない京都 1978』の面白さ
記事:明石書店
記事:明石書店
「衝撃の小説」を宣伝文句にした小説は世の中にごまんとある。
私は小学校3年生にして宮沢賢治に傾倒し、小学校5年生でドストエフスキーの『罪と罰』を読破し、小学校6年生では漱石の『草枕』を暗唱していた“筋金入り”の本の虫で、「衝撃の」とうたう小説を何冊も読んできた。
でもそのどれも、背筋が凍るような衝撃を与えてくれはしなかった――。
ところが、である。
出会ってしまった。本物の「衝撃の小説」に。
最後まで読み終わった直後、不覚にも「えっ」と声を漏らし、少しページを繰ってもう一度終わりの数ページを読み、震撼した。「震撼」という言葉がここまでしっくりくる読書体験を、私は未だかつてしたことがなかった。
その小説こそ、今回紹介する『四季のない京都 1978』である。
主人公はIT(AI)関連企業の社長である島岡恭一。
彼はひょんなことからメッセージアプリ“F”上でつながった女性、大道寺洋子と関わりを持つことになる。ところがこの女性、会ってみると、なんと恭一が人生で愛した唯一の女性に瓜二つなのだ。
正体の読めない彼女であるが、徐々に秘密が明かされ、気がつけば恭一と彼女のやり取りから目が離せなくなってしまう。その過程で時々生じるメッセージアプリ“F”への疑問はすべてラストへの伏線で、最終章では読者の予想をある意味で鮮やかに裏切る――。
1978年と2015年の京都を舞台にした、美しくも衝撃的な作品である。
そんな『四季のない京都 1978』であるが、どうしても伝えたいことが2つある。
それは、京都の情景描写の素晴らしさと、どこか違和感を覚えざるを得ない不思議な文体についてだ。
◇ ◇ ◇
古都・京都。タイトルにも入っている地名であるが、本作はこの京都の描写が非常に印象的だ。
主人公恭一と大道寺洋子は、「失われた四季」を取り戻すため3泊4日の京都旅に出るのだが、読んでいるとまるで一緒に旅をしているかのように京都の情景がありありと目に浮かぶ。
中でも秀逸なのが、2人が旅行3日目に訪れる「鹿王院」というお寺の描写である。
小ぢんまりとした、知る人ぞ知る、といった雰囲気のお寺が描かれるが、「そんなに素晴らしい場所なのか」と思わずにはいられない恭一の台詞がある。
「……ここは、本当に心を癒してくれるいうか。いやなことあっても、ここ来ると、ぜーんぶ忘れさせてくれるようなスポットなんや。以前東京で知り合ったある女の人が言うてはったんやけど、毎週末に新幹線使って、日帰りでここきて、数時間黙って庭をみるだけで、また東京に帰るっていう生活を、2カ月くらい続けてはったって」
……そ、そんなスポットが京都に! それはぜひとも癒されたい。
鹿王院か、わが家からの行き方は……と調べていたのが、気が付けば嵐電鹿王院駅で降りていた。文章に突き動かされて訪れた「鹿王院」であるが、ほんとうに鳥のさえずりと嵐電がことりことりと動く音だけが聞こえるような、素晴らしい場所だった。
この他にも、情趣豊かに京都が描き出されている。
読めば、私のように、恭一たちが歩いた場所をいわば「聖地巡礼」する人も出てこよう。
京都をよく知っている方にも、一度も訪れたことのない方にも、ぜひお勧めしたい。
◇ ◇ ◇
そして、どうしても伝えたいことの2つ目であるが、この作品、読み進めるとどうも文体に違和感を覚える。不思議なのは、その「違和感」が、どこかで味わったことのある違和感であるような感覚に陥ることである。
そう感じている私は、実はもう作者の方の術中にはまっているわけなのだが――。
ぜひ、多くの人にその「違和感」を体験していただき、そこに秘められた謎が何であるのか、考えてみていただきたい。
さて、ここまで魅力を紹介してきた『四季のない京都 1978』であるが、最後に個人的に大変印象に残っているフレーズを紹介する。
「1000個のアイデアの中で、未来に成果を上げるものは、ほぼ一個しかない。999個のアイデアは、単なる“妄想”だ。しかし、妄想でない1個の、たった一つの素晴らしいアイデアを見つけ出すためには、この999個の“妄想を採用”しなければならない」
999分の1の妄想のつもりで採用されたアイデアが、現代に、そして未来にもたらす「世界変革の可能性」を鮮烈に描く本作。私は一度読んでその結末に衝撃を受け、2度目に読んだときにはいたるところに張られた伏線に気付いて舌を巻いた。
◇ ◇ ◇
読む人に京都への憧憬の念を抱かせ、私たちが歩みうる「AI時代のその先」を鮮やかに描いた、『四季のない京都 1978』。
AIという現代的なテーマに真っ向からぶつかっていったこのエンターテインメントを、あなたもぜひ読んでみてほしい。