インターセクショナル・フェミニズムの実践のために――『ホワイト・フェミニズムを解体する』監訳者・飯野由里子さんによる解説
記事:明石書店
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ホワイト・フェミニズムとは、字義通りには「白人の」フェミニズムのことを指す。だが、本書が解体の対象とするフェミニズムにおいて、「白人性」はそれを構成する要素のひとつでしかない。実際、本書を読み進めていけば、解体されるべきホワイト・フェミニズムの共通項が「白人性」にではなく、女性が経験する差別をジェンダーという単一軸で捉える視点、その上で、女性が男性と同じように個人的成功をおさめ、社会的に評価されることを第一義的な目標としている点にあることがわかる。
この意味で、ホワイト・フェミニズムとは、各時代において社会的に評価されやすい位置に置かれているマジョリティ女性を中心に進められるフェミニズムのことを指すと言える。こうしたフェミニズムは、マイノリティ女性が経験する不利を構造的に生み出す人種差別(白人至上主義)、優生思想、資本主義をフェミニズムのイシューとして扱い損ねるばかりか、自分たちの社会的評価や個人的成功を優先することで、それらの強化・再生産に時に積極的に加担してきた歴史をもつ。こうした反省のもと、マジョリティ女性を中心としたフェミニズム(あるいは、マイノリティ女性を犠牲にするフェミニズム)がもたらしてきた「害悪」への認識と批判を促し、フェミニズムを社会正義運動として意味あるものにつくりなおしていくことに、本書の狙いはある。
本書では、ホワイト・フェミニズムが19世紀の女性参政権運動の中から登場し、現在に至るまでの約200年間、さまざまな形でもたらしてきた「害悪」の歴史が読み解かれる。とはいえ、ホワイト・フェミニズムは、同じ主張を単純に繰り返してきたわけではなく、その時代のメインストリーム社会に合わせて異なる戦略を採用しながら、自身の社会的影響力を拡大していった側面をもつ。本書では、「文明化」「浄化」「最適化」という三つの戦略に沿って、ホワイト・フェミニズムがもたらした「害悪」が明らかにされる。
「文明化」は、19世紀~20世紀初頭(フェミニズム運動に関する一般的な理解では、第一波フェミニズムと呼ばれる時期)に登場したホワイト・フェミニズムが採用した戦略である。この時期のホワイト・フェミニズムは、白人女性の社会的な尊敬を高め、職業的な成功を獲得するためにこの戦略を積極的に活用した。だが、それは同時に、黒人や先住民に白人文化と資本主義への同化を強要し、彼ら/彼女らの尊厳を貶め、生活や土地や文化を奪うことを意味していた。
20世紀のホワイト・フェミニズムでは、「浄化」という戦略が採用される。20世紀初頭には、当時のアメリカ社会で非常に大きな力をもった優生学により「不適格者」としてカテゴリー化された人々(たとえば、心身に障害のある人、虚弱者、病者、クィア、アルコール依存症者、犯罪者)が、第二波フェミニズムの時代においては、フェミニズムがメインストリーム化していく上で不都合だとみなされた人々(黒人や労働者階級の女性、レズビアンの女性)と「女性として生まれた女性」の定義から外れるとされたトランス女性が、ホワイト・フェミニズムの運動により「浄化」(排除)の対象とされた歴史が描かれる。
現代のフェミニズムでは、「文明化」の戦略と「浄化」の戦略の時代を経て、「最適化」の戦略(とことん無駄をなくして効率を上げる戦略)が採用されている。こうした中、登場したのが、資本主義における搾取のシステムを無批判に踏襲し、「権力の中心に向かって踏み出す【リーン・イン】」型のホワイト・フェミニズムである。そこでは、マイノリティが背負わされている社会的損害の「もと」であるはずの資本主義への包摂こそが、ジェンダー平等をもたらすかのような嘘が拡散される。
もちろん、マイノリティ女性たちは、どの時代においても存在し、ホワイト・フェミニズムと闘ってきた。本書の魅力は、こうした女性たちのライフストーリーに大きなボリュームを割いている点にある。そこでは、「文明化」の戦略に抗した人物としてフランシス・E・W・ハーパー、ハリエット・ジェイコブズ、ジトカラ・サが、「浄化」の戦略に抗した人物としてドクター・ドロシー・フェレビー、パウリ・マレー、サンディ・ストーン、シルヴィア・リヴェラが紹介される。
たとえば第3章では、19世紀後半から20世紀にかけて、先住民の子どもを対象とし、白人によってつくられた全寮制学校の歴史が紐解かれる。白人女性に教師としてのキャリアを提供し、社会的地位の向上に一役買ったこうした学校は、先住民を白人文化と資本主義文化に同化させ、白人社会にとって役立つ人間へ規律化することを目的としていた。ジトカラ・サ(1876~1931)は、こうした支配の形態に反対し、先住民の自己決定の権利と、白人支配の論理によって分離された部族間の連携を訴えた先住民女性の一人である。こうした女性たちが、それぞれの時代において展開した異なる運動や主張が、現代の私たちが「インターセクショナル・フェミニズム」として捉える運動と連続線上にある可能性を示している点も本書の特徴のひとつである。
ただし、現代のホワイト・フェミニズムが採用する「最適化」の戦略への抵抗については、明確な道筋が示されているわけではない。これは、「最適化」が現代社会に広く浸透している規範であること、このため、この規範の影響を受けているのがホワイト・フェミニズムだけではないことを示唆している。たとえ、ジェンダー平等をもたらすものとしての資本主義という幻想から距離を置けたとしても、能力を個人が有するものと捉え、能力の高い特定個人によって社会変革がもたらされることを期待するような思考枠組みが更新されなければ、誰もが「最適化」フェミニズムの罠に陥る可能性がある、と本書は懸念する。
日本のフェミニズムもまた、ジェンダー平等を求める闘いを、その他の平等を求める闘い(人種・エスニシティ、国籍、性的指向・性自認、障害における平等を求める闘いなど)に優先させ、マイノリティ女性にとって重要なアジェンダを自覚的・無自覚的に後回しにしたり、「分断を招く」という常套句のもと、非難・抑圧したりしてきた歴史をもつ。
たとえば、かつて私は2000年代初頭のジェンダー・バックラッシュを振り返り、この時期にフェミニズムが作り出した対抗言説が、性別二元論を再生産し、性的マイノリティに対するフォビアを強化した可能性を指摘した(飯野由里子「フェミニズムはバックラッシュとの闘いの中で採用した自らの『戦略』を見直す時期にきている」『エトセトラ』Vol. 4 2020 pp. 85-88.)。これは、不当な攻撃からフェミニズムを守るという大義のもと、特定のマイノリティ女性の生存に深く関わる重大な問題がフェミニズムのアジェンダから切り離され、後回しにされてしまった事例として捉えられる。だが、本書の問題意識を重視するならば、日本においてもこうしたフェミニズムの政治を繰り返さない努力が要請される。それは、差別の撤廃や社会正義の実現に向け、平等や自由を求めるさまざまな闘いを切り離すことなく、連携の機会を粘り強く作り出していこうとする努力でもある。本書のいうインターセクショナル・フェミニズムとは、そうした努力が蓄積されていくプロセスの中で、時代の制約を受けながら、常に暫定的なものとして姿を見せるフェミニズムのことなのである。