憲法九条「戦争放棄」条項の発案者は、時の首相だった!
記事:平凡社
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日本国憲法が一九四六(昭和二一)年一一月三日(以下、西暦年は下二桁のみで表記)に公布されてからあと四半世紀で一世紀となるが、人類史上最初に戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めた日本国憲法第九条(本書では憲法九条と略称)の発案者が誰であったかをめぐっての論争にはまだ結着がつけられていない。「永遠の謎である」という論者もいるが、そのようなことはあり得ない。当時は大日本帝国憲法改正案といういいかたをしたが、憲法九条の構想を発案して提案した人は間違いなく存在したのである。そしてそれを憲法九条の条項と条文とすることを決定した人も必ず存在したのである。それが「謎」であるかのようにされてきた理由は簡単である。
当時、憲法九条の発案者、同意者、承認者となった当事者がいずれもその当事者であることを公表できない内外の政治的立場と政治的環境におり、意図的に公式証言や公式記録を残さないようにしていたからである。そうせざるを得なかった時代状況については本書で詳述する。
憲法九条の発案者は誰かをめぐっては、日本国憲法発布当初から長期にわたって、憲法学者、政治学者、歴史学者、ジャーナリスト、弁護士さらには民間の憲法問題研究愛好者もふくめて、整理できないほどのさまざまな論争が展開されてきた。ただし、最終的には、当時首相であった幣原喜重郎か、連合国軍最高司令官であったマッカーサーであったかに集約されてきている。
憲法九条の発案者、同意者、承認者となった「当事者」は誰であったかについては、容易に特定できる。
四六年三月七日の朝の各新聞は第一面に、「主権在民、戦争放棄」の大見出しで、「憲法改正草案要綱」を掲載し、この要綱とともに昭和天皇の勅語、幣原喜重郎総理大臣談話、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の全面的支持声明が掲載された。本書でいう「当事者」とは、勅語を出した昭和天皇、談話を発表した幣原首相、支持を声明したマッカーサー元帥の三人である。この三人のなかに憲法九条の発案者がおり、同意者と承認者がいるのであるが、さらにはこの三人がいなければ、日本国憲法は作成されなかったといえる。
当時、「三人の当事者」が憲法九条発案に関する証言を公的な場では発言できず、また公式記録を残すことができなかったため、これまで発案者が「謎」とされてきたのである。ただし、マッカーサーだけは、日本国憲法が公布されて以後、公的な場での証言や演説、回想録のなかで「憲法九条の発案者は幣原首相であった」ことを述べている。いっぽう、幣原首相と昭和天皇(以下、単に天皇とも記す)は公的な場での証言や公的記録を残していない。
ここで、これまでの憲法九条発案論争において、正面きって論じられることのなかった昭和天皇がなぜ「三人の当事者」の一人であるといえるのかについて述べておきたい。
天皇はマッカーサーと四五年九月二七日に最初の会見をしてから、最後となった五一(昭和二六)年四月一五日まで合計一一回会見している。しかし、会見の内容は秘密とされ、担当通訳者にも守秘義務が課せられた。第四回(四七年五月六日)の会見内容が外電に流れたために、通訳を担当した外務省の通訳御用掛の奥村勝蔵は即日、免職にされたほどである。ところが、第三回の会見記録だけは例外的に国会図書館憲政資料室に所蔵されていて閲覧できる。
天皇とマッカーサーの第二回会見(四六年五月三一日)は、「憲法改正草案」がまだ枢密院で審議中のときに、アメリカ大使館においておこなわれた。約二時間にわたり「気軽で機嫌よく、会談進んだ」なかで、天皇の方からマッカーサーへ「憲法作成ご助力ありがとう」と謝辞を述べている。これは侍従の徳川義寛が通訳御用掛の寺崎英成から聞いたことを日記に書いていた。
天皇がマッカーサーに日本国憲法草案が帝国議会の審議にかけられ、やがて公布されることへの感謝を述べたのであるが、このことは、会見内容の記録を見ることができる第三回(四六年一〇月一六日)においてはさらに明瞭となる。帝国憲法改正案は、衆議院でも貴族院でも修正を加えられて審議、可決され、確定していたときである。天皇とマッカーサーとの間で以下のような会話が交わされた。
陛下:今回憲法が成立し民主的新日本建設の基礎が確立せられた事は、喜びに堪えない所であります。この憲法成立に際し貴将軍に於て一方ならぬ御指導を与えられた事に感謝いたします。
元帥:陛下の御蔭にて憲法は出来上ったのであります(微笑しながら)。陛下なくんば憲法も無かったでありましょう。
陛下:戦争放棄の大理想を掲げた新憲法に日本は何処までも忠実でありましょう。世界の国際情勢を注視しますと、この理想よりは未だに遠い様であります。その国際情勢の下に、戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらさせる事のない様な世界の到来を、一日も早く見られる様に念願せずに居れません。
元帥:最も驚く可きことは世界の人々が、戦争は世界を破滅に導くという事を、充分認識して居らぬことであります。戦争は最早不可能であります。戦争を無くするには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ。それを日本が実行されました。五十年後に於て、私は予言致します。日本が道徳的に勇敢且賢明であった事が立証されましょう。百年後に日本は世界の道徳的指導者となったことが悟られるでありましょう。世界も米国も未だに日本に対して復讐的気分が濃厚でありますから、この憲法も受く可き賞賛を受けないのでありますが、凡ては歴史が証明するでありましょう。
会見記録の最後に「寺崎御用掛謹記」と記され、通訳をした寺崎英成が「付記」として「元帥は終始慇懃を極め且最も打解けたる態度を持せられたる点特記すべく、御会見の状は正に尊敬と親愛の交流にして、戦敗国の元首と戦勝国の将軍との会談とは察し難き状況なり」と書いているように、天皇がマッカーサーに日本国憲法草案の作成を感謝し、マッカーサーも天皇が全面的に受け入れ、大日本帝国憲法改正の手順を踏んでくれたことを喜んでいたのである。天皇は憲法九条も遵守することを約束している。この会見から、昭和天皇にとっては、改憲論者が主張するような、憲法九条ならびに日本国憲法はマッカーサーとGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの「押しつけ論」とは無縁であったことが理解されよう。
ここで筆者がいきなり、天皇とマッカーサーの会見内容を紹介したのは、天皇が大日本帝国憲法改正の経緯に深く関与しており、前述した「三人の当事者」の一人であったことを証明するためであった。
次に、幣原首相側の史料から、昭和天皇が「三人の当事者」であった事実を紹介しておきたい。史料は本書で幣原喜重郎の言説を聞き取って記録した史料として重視する「平野三郎文書」(以下、「平野文書」と略称)である。「平野文書」の史料的価値については本書であらためて述べるので、ここでは、引用のみにしておく。
平野三郎の「天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか」という問いにたいして、幣原は以下のように答えている。
僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。(中略)しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。(中略)
正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え、天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足し喜んでいる。
先のマッカーサーの発言と重なるが、昭和天皇はGHQ民政局が作成した日本国憲法草案を、憲法九条もふくめて積極的に受け入れようとしたことが知れる。昭和天皇の積極的な同意がなければ、日本国憲法は成立しなかったという幣原首相の証言からも昭和天皇が「三人の当事者」であったことが裏付けられよう。
時代は飛んで、七一(昭和四六)年一二月四日の須崎御用邸での記者会見において、天皇の退位問題に関連して、記者団からマッカーサーとの会見の内容について質問された天皇は、「司令官と会話することについては、秘密を守るということを約束しましたから、信義の上、この問題については話すことはできないと思っています」と答えている。
さらに、七七年八月二三日の那須御用邸での記者会見において、「マッカーサー元帥との初ご会見の内容などをお話ししていただけませんか」という質問にたいして、「マッカーサー司令官と当時、内容は外にもらさないと約束しました。男子の一言は守らねばなるまい。世界に信頼を失うことにもなるので話せません」と答えている。
昭和天皇は、マッカーサーとの「男子の約束」として、マッカーサーとの会見の内容はいっさい口外しない固い約束を守りとおしたのである。
侍従次長であった木下道雄の『側近日誌』の解説を書いた高橋紘は、天皇とマッカーサーが会見の内容を秘密にして公開しないことを約束した理由の一つを、「GHQが『天皇は実際政治より分離して存続せしむ』と方針を決め、憲法で『象徴』としておきながら、二人ともこれを無視し、戦前のように『統治権の総攬』者として会談をし続け」、記録を見ることができる前述の第三回の会談(四六年一〇月一六日)では、「憲法改正、食糧確保、外地からの引き揚げ、ストライキ批判など」が話され、二人の間では、政治、外交、軍事問題などが「かなり頻繁に話題になっており、『憲法の条規』を逸脱した発言があった」からではないか、と推測している。
いっぽうマッカーサーも天皇との「男子の約束」を守り、天皇との会見の内容については語らず、天皇が日本帝国憲法改正に関与したことを具体的には語っていない。それは、本書で述べる時代状況から、連合国軍最高司令官のマッカーサーが、東京裁判で戦争犯罪者(戦犯)として訴追される可能性が検討されていた昭和天皇と、象徴天皇制と憲法九条をセットにした日本国憲法構想で「合意」したことは、連合国側にはもちろん、日本国内でも知られてはならなかった。
はじめに
第Ⅰ部 憲法九条幣原喜重郎発案の証明
第1章 「国体護持」に執着した天皇
第2章 天皇が望んだ大日本帝国憲法改正
第3章 幣原内閣における憲法改正作業
第4章 マッカーサー・天皇・幣原による「象徴天皇制」への移行
第5章 幣原の憲法九条発案とマッカーサーへの提案
第6章 幣原内閣、GHQ憲法草案受け入れ
第7章 幣原内閣による「憲法改正草案要綱」の発表
第Ⅱ部 憲法九条幣原喜重郎発案否定説への批判
第8章 幣原内閣閣僚の幣原発案肯定者と否定者
第9章 憲法九条幣原発案否定説への批判
終章 憲法九条に託した幣原の平和思想
おわりに