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ブレグジットとは何だったのか 「裏切られた」という感情の淵源を探る旅[前篇]

記事:白水社

「裏切られた」という感情の淵源を探る旅! 服部正法著『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』(白水社刊)は、EU離脱の混乱で見えてきたナショナリズムのうねりを、多方面にわたるインタビューと精緻な歴史検証で描く。毎日新聞の前欧州総局長による渾身のルポ。
「裏切られた」という感情の淵源を探る旅! 服部正法著『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』(白水社刊)は、EU離脱の混乱で見えてきたナショナリズムのうねりを、多方面にわたるインタビューと精緻な歴史検証で描く。毎日新聞の前欧州総局長による渾身のルポ。

プロローグ

 英国の首都ロンドン。街を西から東へと横切るテムズ川の北の畔にウェストミンスター地区がある。英国を訪れたことがない人でも耳にしたことがあるだろう観光名所のトラファルガー広場や、エリザベス女王が長年住んだバッキンガム宮殿などが位置する町の中心部だが、「ウェストミンスター」という響きには、英国人にとって単なる地域を指す名前を超えた特別な意味がある。

 ロンドン名物の時計塔「ビッグベン」が併設されているウェストミンスター宮殿は、英議会である。このため、ウェストミンスターという言葉は日本で言う「永田町」と同じく、議会や政界、広く政治を指す言葉として用いられる。ウェストミンスター宮殿の前からトラファルガー広場へと延びる道路沿いには英政府の各省庁の建物が並ぶ。このため、英国の官界はこの通りの名前から「ホワイトホール」という別称で呼ばれることがある。日本の「霞が関」に当たる呼び名だ。ホワイトホールから少し脇に入ったところ、住所地で言うと「ダウニング街10番地」が英首相官邸である。

Downing Street Sign, London, UK[original photo: marcorubino – stock.adobe.com]
Downing Street Sign, London, UK[original photo: marcorubino – stock.adobe.com]

 「7つの海を支配する」と言われた大英帝国時代も、経済停滞にあえぎ「英国病」と揶揄された時代も、英国政治の中心は常にこのエリアであった。産業革命以降の近代、時に世界をリードし、また、抜きん出てリードする立場を降りた後も国際秩序の形成に強い影響力を及ぼしてきたのが、欧州の端に位置するこの小さな国であり、その小さな国のダイナミックな政治力が、この歩いて数分程度の狭いエリアから発信されてきたことを考えると不思議なような気もするし、また、なんとも言えないある種の感慨を抱く。

 2019年5月24日。朝の陽光が照らす首相官邸の扉を開け、真っ赤なスーツ姿の女性が現れた。テリーザ・メイ首相、62歳。官邸前に置かれたマイクを前に国民に向け、与党・保守党の党首を辞任し、首相を退く意向を表明した。

British Prime Minister Theresa May giving a statement on her resignation(24 May 2019)[original photo: UK Government – United Kingdom Open Government Licence v3.0.]
British Prime Minister Theresa May giving a statement on her resignation(24 May 2019)[original photo: UK Government – United Kingdom Open Government Licence v3.0.]

 16年6月に行われた欧州連合(EU)からの離脱の是非を問う国民投票で、離脱支持が51・9パーセント、EU残留支持が48・1パーセントと、離脱支持が多数となったことで、時のデイヴィッド・キャメロン首相が辞任。後任となったメイ氏は離脱問題のかじ取りを担ってきたが、議会の取りまとめに難航し、最終的には足元の保守党内の離脱強硬派から、自身が提案した方針が猛反発を受け、退陣を迫られる結果となった。

 「(EU離脱という)人びとの選択を成就するのが(首相の)義務で、私はベストを尽くした。離脱協定に議員の支持を得るためにあらゆることを行ったが、残念ながらかなわなかった。新たな首相が(今後の)取り組みを主導するのが国益にかなう」と辞意を明らかにしたメイ氏。感情を表に出さず、超然とした態度から「氷の女王」というニックネームでも知られてきたが、この日は様子が違った。「私は(サッチャー元首相に次いで)2人目の、そして『最後の』ではない、女性首相という名誉ある職をまもなく離れる。恨みではなく、愛する国に奉仕できた機会への大きな感謝とともに去る」。最後は涙声になった。

Britain EU Brexit Referendum Concept[original photo: Rawpixel.com – stock.adobe.com]
Britain EU Brexit Referendum Concept[original photo: Rawpixel.com – stock.adobe.com]

 EU離脱という国民の意思が投票で示されてから、ほぼ3年。英国政治はこの間、揺れに揺れた。離脱実現の方向性も定まらなければ、離脱を撤回する決断もできないままで、混乱の渦中にあった。「British」と「exit(出口、退場する)」とを組み合わせた新語で英国のEU離脱を指す「Brexit(ブレグジット)」という言葉は連日メディアを賑わせたが、状況は一向に動かなかった。

 「議会制民主主義の祖」として世界中の民主国家から敬意を払われてきた英国政治だったが、英国はどこへ行くのか。英国政治はどうなってしまったのか──。そんな失望感がこのころ国内外を問わず広がった。そしてそれが最高潮に達した瞬間が、このメイ氏の辞意表明だったろう。

Man pictogram and question mark open the door on isometric European Union (EU) flag pattern, Brexit concept design illustration[original photo: paitoonpati – stock.adobe.com]
Man pictogram and question mark open the door on isometric European Union (EU) flag pattern, Brexit concept design illustration[original photo: paitoonpati – stock.adobe.com]

 

 私は19年4月、毎日新聞の欧州総局(ロンドン)に総局長として赴任することになった。ブレグジットをめぐる英議会での議論や動きが激しくなった3月中旬に英国入りすると、すぐさま渦中に放り込まれ、その2カ月後には「首相辞任表明」という混乱の極みに直面することになった。私自身もこのとき「いったい英国はどうなるのだろう」と、先の見えない英国を憂える気持ちになった。

 だが、先に結果を言うと、この約8カ月後の20年1月31日、英国はEUを離脱し、さらに20年12月31日には移行期間も終了、ブレグジットは完遂した。そこに至るまでには未曾有の混乱がまだまだあり、それは本書で詳しく述べる。そして、この経緯を取材するなかで、私は、主権とは何か、政治とは何か、民主主義とは何か──などについて深く考えさせられることになった。

 私はこの時期、取材で英国の知識人や政治家などに会うたびに、「ブレグジットのturmoil(混乱)」に日々振り回されていると話し、彼らからはしばしば、苦笑交じりに深い同情の念を示された。だが、混乱ゆえに学べたことはあまりに多かった。平穏なときではうかがい知ることができない、英国政治の本質に触れる機会に恵まれたと感じている。

Word Brexit typed on typewriter[original photo: mesteban75 – stock.adobe.com]
Word Brexit typed on typewriter[original photo: mesteban75 – stock.adobe.com]

 そんななか、英国の「国のかたち」や、「かたち」の根幹にある思想などを考えるうちに、私の心の中でより重みを持ち始めた術語タームが、ナショナリズムである。

 ブレグジットの根幹にある考え方については、これまでもいろいろなタームで説明されてきた。ポピュリズム(大衆迎合主義)、保守主義、右派・右翼思想、排外主義──どれもある面で当たっているが、ブレグジット全体をどれか1つのタームで説明しきることはできない。

 私がとくに注目するナショナリズムというタームもまたしかりだ。だが、ブレグジットという現象を、近年世界で起きてきたさまざまな事象と並べて考えたり、そういった事象が一連のある流れの中で起きているととらえたり、あるいはブレグジットそれ自体を長期的な歴史の上に位置づけて考えようとしたりすると、ナショナリズムの側面に注目するのが、最も「しっくりくる」ように思う。昨今起きているさまざまな事象がナショナリズムという普遍性でつながると感じるし、また、ブレグジットの背景にあるナショナリズムを分析・考察することは、世界で起きている他の事象を考えるのにも役立つはずだ。

 それは、ロシアのウクライナ侵攻についてもまた然りである。

 

『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』(白水社)目次
『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』(白水社)目次

 ブレグジットとは何だったのか──。本書では、ここを入り口に、ナショナリズムの現在について考えてみたいと思う。

 タイトルの「裏切りの王国」の「裏切りの」には、2つの意味を込めたつもりである。日本語の「裏切りの」は曖昧で、英語にすると「betray(裏切る)」と「betrayed(裏切られた)」のどちらとも取れる。ここではこの両方を意味している。

 ブレグジットによって英国が欧州を「裏切った」とも言えるし、欧州の単一市場のみに参加したつもりだった英国民の多くが、政治統合の動きを見せるEUに対して「裏切られた」と感じたことも含む。また、英国を超えて欧州全体に敷衍ふえんして、ベルリンの壁崩壊後に欧州の「理想」への参画をめざした中・東欧の国々で、その理想に「裏切られた」と感じている人たちが一定以上おり、そう思う人たちが政治的モメンタム(勢い)を得ているという現実も示唆したつもりだ。さらに踏み込めば、現在戦争状態にあるロシア、ウクライナ双方とも、欧州や欧州の「理想」に対して、それぞれまったく異なった意味で「裏切られた」というような複雑な思いを抱いているかもしれない。

 この「裏切り」という言葉は、ブレグジットを含め欧州のさまざまな事象を考えるうえで私が多くの示唆を受けてきた東欧ブルガリアの政治学者、イワン・クラステフ氏が論考の中でしばしば用いるタームである。

 移民の流入に直面し経済的な不安定さにつきまとわれて、多くの東欧の人びとは、EUへの参加によってすぐに繁栄がもたらされ危機に満ちた生活が終わる、という希望が裏切られたと感じている。

 多くの点において、今日、欧州で極右に投票する人びとは、アルジェリア独立戦争の時にアルジェリアを去らなければならなかったアルジェリア生まれ、、、、、、、、、のフランス人(pied noir)の感情を共有している。双方ともに急進的で、裏切られたという気持ちを共有している。(イワン・クラステフ『アフター・ヨーロッパ』庄司克宏監訳)

 タイトルを考える際に「裏切り」が浮かんだのは、おそらく氏の論考から私の脳裏に刻まれたからだと思う。私は取材するなかで、クラステフ氏がここで言う「裏切られた」という思いは、ブレグジットを支持した人びとにも共有されているものだとの感を強くしたし、本書の端々からにじみ出てくる感覚だと思う。いずれにせよ、「裏切り」は現代欧州を語る際、さまざまな事象に対して有効であり、また暗喩的な言葉である。

 また、「王国(Kingdom)」は、取材時にはエリザベス女王を、そして現在はチャールズ国王を冠する連合王国(The United Kingdom)である英国を表しているが、単に語呂がいいからとか響きのいいレトリックとして選んだわけではない。ブレグジットをもたらした英国のナショナリズムの源をたどると、そこには21世紀の今日でも王国であることと密接な関係があることがわかってくるからだ。王国であることがなぜブレグジットにつながるのか。この辺りものちほど詳しく述べたい。

paper ships from the flags of the European Union and United Kingdom, concept of an agreement on Brexit[original photo: RomanWhale studio – stock.adobe.com]
paper ships from the flags of the European Union and United Kingdom, concept of an agreement on Brexit[original photo: RomanWhale studio – stock.adobe.com]

 

 最後に、私自身のことに少し触れたい。幼少期や思春期、欧州の小説や映画を楽しんではきたものの、実際に現地を訪れたり住んでみたりという直接的な体験において私は欧州に縁遠い人間だった。若いころから旅をする目的地と言えばアフリカや中東、東南アジアなどがメインで、文化人類学への関心が強かったこともあり、「途上国志向」が強かったためだ。記者としてもアフリカ特派員として主に「辺境」の紛争やテロを追ってきたので、国際政治の「中心」とも言える英国での取材には当初戸惑いも多かった。

 だが、結果的には世界の「辺境」で養ってきた見方が、欧州の現場においてとりわけナショナリズムの問題を考察することに役立ったと今は思っている。途上国の紛争現場を這い回ることがなかったら、ナショナリズムに着目するようにはならなかったかもしれない、とも思う。尊敬する文化人類学者の川田順造氏が自身の日本、アフリカ、フランスでの研究や生活の体験から、文化を比較する「三角測量」の重要性を指摘されている。氏には及ぶべくもないが、そのひそみにならいたい思いもある。

『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』(白水社)P.254─255より
『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』(白水社)P.254─255より

 ナショナリズムの問題を敷衍して考えるため、欧州各地でもっと取材を行いたかったが、残念ながら私の現地取材はほぼ英国に限られた。これは私の赴任時期のほとんどが新型コロナウイルス禍の最も激しい時期で、英国外への移動が困難だったことが大きい。だが、綿密に準備して万難を排して行えば効果的な国外取材はできたわけで、そこまでしなかったのは私自身に責任があり、反省している。だが、繰り返しになるが、ブレグジットとそれに伴って露呈したさまざまな英国の問題は、欧州や他の地域と隔絶したものではなく、多くの共通性を持つ。そしてそれはナショナリズムというタームでつながっている。それをできる限り、提示できたらと考えている。

 もとよりナショナリズムはすぐれてアカデミズムの扱うべきテーマであり、浅学の身には重すぎる課題ではある。学者や専門家の言説を気取るつもりは毛頭なく、あくまで記者として確かめたことの積み重ねを提示していくことで、いま起きている事象を考えるきっかけとなればと考えている。

 何がブレグジットをもたらしたのか──。まずは、これを探る「旅」に、読者のみなさんをお連れしたい。

【『裏切りの王国 ルポ・英国のナショナリズム』所収「プロローグ」】

[後篇では、欧州での取材にもとづく「移民とLGBTを「敵」とするロジック」を紹介]

 

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