「プーチンの演出家」による政治劇! ジュリアーノ・ダ・エンポリ『クレムリンの魔術師』
記事:白水社
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本書『クレムリンの魔術師』は、2022年3月にフランスのガリマール社から出版された LE MAGE DU KREMLIN の全訳だ。
本書の冒頭に「事実や実在の人物をもとに自身の体験や想像を交えてこの小説を執筆した。とはいえ、これは紛れもないロシア史である」という注記がある。
そこで、本書に登場するおもな人物について簡単に紹介したい。
本書の主人公ヴァディム・バラノフは架空の人物だが、モデルは、副首相、大統領府副長官、補佐官などを歴任にしたウラジスラフ・スルコフ(1964年生まれ)だ。スルコフは、プーチン政権下でロシアの伝統を重視して国民の権利よりも国益を重視する「主権民主主義」を提唱し、プーチン政権のイデオロギーを築き上げた人物だ。数々の政界工作にも関与し、プーチン政権を長期化させた立役者だ。本書のエピソードにもあるように、2022年のロシアのウクライナ侵攻の足掛かりになった2014年に始まったドンバス地方での武力衝突は、スルコフの画策と言われている。2020年にクレムリンを去り、その後の消息は自宅軟禁状態にあるなど、謎に包まれている。
ホドルコフスキーは金融業を梃にして一大財閥をつくり上げたオリガルヒだ。本書のエピソードにあるように、2003年に脱税などの容疑で逮捕された。逮捕の真相は、自身の経営する大手石油会社にアメリカ企業の出資を計画したこと、そしてプーチン大統領を公然と批判すると同時に野党へ多額の献金をしたことと言われている。2013年にソチオリンピックの恩赦で釈放され、現在、ロンドンで亡命生活中だ。ホドルコフスキーは日本のメディアなども通じて反プーチン運動を積極的に展開している。
数学者から実業家に転身したベレゾフスキーは、エリツィン時代に誕生したオリガルヒの代表格だ。1989年に自動車販売会社ロゴヴァズを設立し、その後、大手国営石油会社の経営権を取得するなどして事業を拡大させた。ロシア公共テレビ(ORT)をはじめとするメディアを支配下に置き、世論操作も駆使して政界の黒幕として活躍した。しかし、本書のエピソードにあるように、エリツィンの後釜として担ぎ上げたプーチンと対立し、2001年にロシアを離れた。その後もプーチン政権を批判しつづけたが、2013年に亡命先のイギリスで自殺した。
【ベレゾフスキーの死去を伝えるニュース:Russian oligarch Boris Berezovsky found dead at home】
セーチンはプーチン政権によって台頭した治安当局出身者「シロヴィキ」の代表格だ。KGB出身と言われ、サンクトペテルブルクの第一副市長だったプーチンの個人秘書を務めたのを皮切りに、プーチンのモスクワ移動に同行し、クレムリンではプーチンの右腕として活躍した。2014年3月に東京で行なわれた第6回日露投資フォーラムには、ホドルコフスキーの石油会社を吸収した国営石油会社ロスネフチの社長として参加している。2022年、フランス政府はロシアのウクライナ侵攻に対する制裁措置として、セーチンの所有する、全長86メートル、推定価格1億2000万ドルの超豪華ヨットを押収した。フランスのコート・ダジュールの港でメンテナンス中だったこのヨットは、制裁措置を恐れて急遽出航しようとしたところを、フランス当局によって取り押さえられたという。
サンクトペテルブルク時代のプーチンの友人と言われるプリゴジンは、レストラン業、ケータリングサービス、カジノ事業などで財を成した。さらには、彼の設立した傭兵派遣会社はドンバス地方に傭兵を派遣し、プーチンの「汚れ仕事」を引き受けているようだ。本書のエピソードにあるように、フェイクニュースを拡散させてアメリカ大統領選を混乱させたのもプリゴジンの会社による工作だという。
2019年8月、ザルドスタノフは、2014年にロシアに編入されたウクライナ南部のクリミア半島の実効支配を誇示するパレードを開催した。このパレードに参加したプーチン大統領は、自ら大型バイクにまたがり、いかにも悪党といったザルドスタノフらとロシア国旗をはためかせながらクリミア半島を疾走した。プーチンのバイクのサイドカーには、クリミア共和国の首長が所在なさげに乗っていた。全身黒ずくめのプーチンの容姿は、ザルドスタノフと彼の暴走族仲間よりもはるかに迫力があった。プーチンがザルドスタノフらと一緒に映っている写真はインターネットに出回っているので見たことのない方はぜひご覧いただきたい。唖然とすること間違いなしである。
次に、著者ジュリアーノ・ダ・エンポリの略歴を紹介する。1973年、イタリア人の父親とスイス人の母親との間にパリで生まれる。ローマ・ラ・サピエンツァ大学を卒業し、パリ政治学院にて政治学で修士号を取得した。フィレンツェ市の副市長、そしてイタリア首相のアドバイザーを務めた後、現在はパリ政治学院にて教鞭をとる。
著者はイタリアとフランスの大手メディアで政治問題のご意見番であり、イタリアとフランスで多数の著書を上梓している。先日、日本でも「イタリアにみる欧州政治の変遷」という論考を寄稿した(2022年10月14日付の『日本経済新聞』の「経済教室」)。骨子は次の通りだ。
過去100年間、イタリアでは、ファシズム、共産主義、ポピュリズム、テクノクラートによる政治など、あらゆる政治形態が他の欧州諸国に先駆けて実験的に行なわれてきた。よって、2022年9月末のイタリア総選挙における極右政党の誕生も、ナショナリズム、移民排斥、保守主義など、他の欧州諸国の今後の動向を明快に示唆するものといえる。しかしながら、欧州人は、EUのコロナ危機における財政出動などの迅速な支援、さらにはウクライナ戦争における毅然とした対応に、EU加盟国としての共同行動の利点を痛感した。事実、この選挙ではEU離脱を唱える声はほとんど聞こえなかった。相次ぐ危機に直面してはじめてEUの結束が強化された。
この論考からもわかる通り、著者は政治の元実務家であり、比較政治学の専門家だ。本書の政治に関する分析が秀逸なのには納得がいく。著書にはフランス語およびイタリア語で執筆したものが多数あるが、小説は本書が初めてだという。今回、この小説をフランス語で執筆した理由は、フランスの影響を大きく受けたロシア史を描くには、フランス語のほうがふさわしいと考えたからだという。
【アカデミー・フランセーズ小説大賞受賞記念動画:Grand Prix du Roman de l'Académie française 2022 : Giuliano Da Empoli ׀ "Le mage du Kremlin"】
執筆したのは2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻のおよそ1年前だ。しかし、本書の端々にはこの侵攻の予言がちりばめられている。また、ソ連崩壊後の人々の価値観の混乱、ロシア国民の鬱積した怒り、ロシア政府による国内および国際世論の操作、秩序よりもカオスに活路を見出すというロシア政府の戦略、そしてなによりもプーチンという特異な人間が見事に描かれている。
【ジュリアーノ・ダ・エンポリ著『クレムリンの魔術師』所収「訳者あとがき」より】