「スーパースターになる」根拠のない自信
――SEKAI NO OWARIら、アーティストたちの英語の歌詞を担当しておられます。どういったきっかけでお仕事をするようになったのですか?
もともとアメリカでロケを手伝った日本のテレビ関係者から、来日後に番組のナレーションや歌詞などの翻訳を頼まれたりしました。それと同時にバンド活動もしながら、自分でもYouTubeでJ-Popを英語で歌ったりしていたら、音楽番組から声がかかり、いろいろなアーティストとも知り合う機会がありました。音楽のことを語り合う飲み友達から始まって、英作詞を手伝うようになって、口コミで広がって…、いま、仕事になっています。
――日本語と英語はリズムも違うし、歌詞を英語にするのって大変ではありませんか?
米津玄師さん作詞のヒットソング「パプリカ」の歌詞の英語翻訳を頼まれたときのことです。特に「帰り道を照らしたのは思い出のかげぼうし」という部分は苦労しましたね。そもそも「思い出のかげぼうし」って何? 日本の子どもは分かるの? 米津さんたちの意図をくみ取るために、打ち合わせを重ねながら「Memories will light the way back home」と訳しました。
この歌詞に3~4カ月かけています。近道は選びません。もっといけるだろう、もっといけるだろうと追求するんです。ひとつひとつが試行錯誤ですが、それがまた楽しいんですよね。
――この仕事をしていてよかったな、と思えたことは?
印象に残っているのは、SEKAI NO OWARIの「ANIT-HERO」。全編英語で、僕がボーカルのFukaseと一緒に歌詞を作った曲なのですが、夏のイベントに招待されて、初めて生で聞いたんですよ。その時は本当に鳥肌が立った。歌い方やリズム、「you know I don’t give a damn about what’s right」という始まり。自分の曲のように感じました。自分の歌い方をFukaseが真似をしながら歌詞を覚えてくれて、僕の音楽を知っているファンが「この曲、めっちゃネルソンっぽいね」と言ってくれて、感動ですよ。
Fukaseから楽曲を渡されて、「こういうメッセージを歌いたいから、あとは英語で上手くやってくれ」と。信頼関係があったからこそできたことですよね。ただ訳すだけではなくて、自分の歌のセンスが反映されているから、すごく認められた気がしました。
――愛がありますよね。
ありがとうございます。自分は、本当にラッキーだなと思っていますね。日本語と音楽と人とつながることと……自分の好きなことがうまく仕事になった。自分で振り返っても、何のつてもなかった日本に一人で引っ越して来て、英会話スクールの仕事も3カ月で辞めたり、無邪気にバンドをやったり。学生ローンの支払いもあったのに、馬鹿な生活をしていたなと思います。
でも、それは全て若かったからこそ。「俺はスーパースターになるぜ」という根拠のない自信があったんです。そのおかげで、本当に好きだったことが、15年間ぐらいかかったけど、ちゃんとみんなに認められるような仕事になった。
15歳で日本に出会い、人生観が変わった
――ネルソンさんが日本に出会ったのは、いつなんですか?
15歳のとき、僕の地元のカリフォルニア州バーバンク市と、その姉妹都市である群馬県太田市との間で、夏休みに高校生の短期交換留学プログラムがあって、それに参加したことがきっかけです。夏の一つの思い出になればいいなぐらいの気持ちだったのですが、人生観が変わる体験でした。
自分は、シングルマザーのひとりっ子。お金がなかったわけではないけれど、なかなか大変な生活を送ってきて、ずっと「家族」という感覚がなかった。でも、日本に来て、ホストファミリーの中に入ったら、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんがいて。「あぁ、これが家族なんだ」と感動しました。日本語を話せない僕を家族の中に入れてくれて、愛を感じたんですよね。多感な時期に、日本と出会ったことは、とても意味のあることでした。
――日本語は当初、独学だったそうですね。
日本語を話せない僕を受け入れてくれたホストファミリーに、下手くそな「アリガトウ」しか言えないことがすごく悔しかったんです。自分の人生を変えてくれるような素敵な機会をくれた彼らに、素直に感謝の気持ちを伝えたい。それが最初の目標でした。アルバイトでお金を貯めて、また日本に来た時には「いい天気ですね」ぐらいの日常会話はできるようになって。アメリカ人が日本人と日本語で喋っている。その状況にまた感動したんですよ。
それと同時に、言葉って、一つのツールでしかないなと思ったんです。深く掘り下げるほど、背景にあるものや、人間性や国民性を表している素敵な言い回しに出会う。言葉を超えたものを知りたいし、いろいろな人ともっとつながりたいと情熱がわいてきたんです。YouTubeもなかった時代、近所の図書館に行って、初心者向けの日本語の本を借りて、ひたすら勉強しました。学校の授業の合間に、カタカナとかひらがなの練習をしたり、日本のテレビを見たり、日本の音楽を聴いたりして、耳を慣れさせていきました。
――名門のカリフォルニア大学バークレー校では、入学当初のコンピューターサイエンスから日本語に専攻を変更しました。その理由は?
僕はシングルマザーのひとりっ子だったから、遊びはパソコンとゲームぐらいしかなかったんですよ。だからプログラミングを学んで、ゲームを作りたいと思った。成績も良かったし、実際向いていたと思うけど、1年経って「パソコンの前で一生仕事をしていたくはないな」とも思って、2年生の時に東アジア言語・日本語学科に変えました。ちゃんと勉強し始めると、読み書きを始め、知らないことがたくさんあった。楽しかったですね。
ただの翻訳ではない「文化通訳」
――それで再来日されて、芸能活動を始められたわけですね。改めて、肩書の一つ「文化通訳」とはどういうお仕事ですか。
ただの翻訳や通訳ではなく、より深いところを伝える仕事です。言葉だけでなく、その裏側や行間にひそむ感情を読んで、それらも解釈して伝えないといけない。いま、DeepLやGoogleなど機械翻訳の精度が上がってきているから、人間の翻訳の仕事は将来的になくなってしまうかもしれないけれど、文化的な背景も含めた高度な翻訳をできる人はまだまだ少ないし、AI(人工知能)もできない領域だと思う。
そもそも日本語と英語、全然違うじゃないですか。「パプリカ」の歌詞でも、「花が咲いたら晴れた空に種をまこう」って言うけど、花はどこに咲くの? 種をまくのは誰? 日本語は皆まで言わないことが大事かもしれないけれど、英語でははっきり言わないと伝わらない。勘違いや誤解も生まれやすいけれど、僕はその2つをつなげたい、架け橋になりたいんです。
ただ、せっかく素敵な日本語の歌詞も、直訳では魅力が失われてしまう。夏目漱石は「I love you」を「月がきれいですね」と訳したって言うけど、みんなが英語を読んでも「日本語って素敵だな」って思わせるような仕事をしたい。
――深いですね。
でも英語歌詞の仕事が入るようになった当初は、「しょせん歌詞の翻訳だろ」と思われることも多くて、なかなか大変さや重要さを理解してもらえなかった。「肩書がものを言う日本社会だから、自分で作っちゃえ」と編み出した言葉だったけど、今は「文化通訳」は人と人をつなげて、誤解を解消していく大事な仕事なんだと自負しています。
好きなことを見つける。今の自分に満足しない。
――今、ネルソンさんは好きなことを仕事にできているわけですが、本当に楽しみながらやっていらっしゃる感じが伝わってきます。
頑張らなくてはいけない、努力しなくてはいけないというのは、日本人らしい美学だと思います。僕もそういう意識はあったかもしれないけれど、ただ自分がずっと満足しなかっただけかもしれないと思う。
例えばYouTubeでただ日本の曲をカバーしていたら、つまらなくなって。つまらなくなったということは、もっと何かチャレンジしないといけないということ。だから英語で歌ってみようか……。こんな感じですよ。現状を面白くするためにどうすればいいかを考えて、行動してみる。それを積み重ねて、仕事につながったと思います。
――仕事に悩んでいる人にどんなアドバイスを送りますか?
自分の何か好きなことを見つけて、ずっと挑戦者であり続けること。現状に満足しないで、もっとうまくできると思い続けること、かな。
僕も自分の曲を聞いて、「あぁ、ダメだな」と冷静に思うことはあります。自分のプライドやエゴを捨てて、本当に自分の作品と向き合って、「もっとこうすればよかったんだよね」と言えるかどうか。もう訓練ですよね、それはいきなりできることではなくて、少しずつ筋トレのような感じでやっていくしかないと思います。
あえて言うなら、芯がぶれないことが大切だと思います。15歳だろうが45歳だろうが、上手でも下手でも、自分が楽しいと思うことを見つけたとき、それを突き詰められるか。そのパッションですよ。情熱あふれる人が何か一生懸命やってるのを見ると、周りもみんな応援したくなるでしょう。応援した人が活躍すると、自分も頑張ろうと思うし、相乗効果があるんですよね。
――これからの夢や目標があれば、教えてください。
この「文化通訳」という仕事を介して、議論の奥にあることを伝えながら、「なるほど、面白いね。そういうことなんだね」と関心を持たせるような活動をずっとしていきたい。皆さんが好奇心を持って、昨日よりも今日、今日よりも明日、何か成長していく。より良い自分を目指していくことの大事さや楽しさを感じてほしいですね。
こんな世の中だからこそ、今は何か大きなこともやってみたい。社会貢献、いや、地球貢献ぐらいの何か。自分はアメリカ人だから、今アメリカで起こっていることはマジで怖い。民主主義がなくなってしまうのではないかなという危機感が半端ないです。ゆくゆくはアメリカの政治家になって、日本で大使をやってみたり。日本で帰化して、日本で政治家になりたいっていう気持ちもあってみたり。
長い道のりだったけど、土台ができたと言えるところまで来たから、次はどんな家を建てるのか。土台はもう自分の居場所で、誰にも奪えない場所。そこをどう立派にしていくか。これから日本は外国人も増えるだろうし、みんなの意見を代弁したいというよりは、双方の誤解をなくしていく役割を担えるのではないかなと思います。