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【対談】荒井裕樹×下地ローレンス吉孝が考える「差別と⾔葉と語り⽅」

記事:平凡社

写真左:『中学生の質問箱 障害者ってだれのこと?』の著者、荒井裕樹氏、写真右:『中学生の質問箱 「ハーフ」ってなんだろう?』の著者、下地ローレンス吉孝氏
写真左:『中学生の質問箱 障害者ってだれのこと?』の著者、荒井裕樹氏、写真右:『中学生の質問箱 「ハーフ」ってなんだろう?』の著者、下地ローレンス吉孝氏

2022年7月発売、平凡社『中学生の質問箱 障害者ってだれのこと?』(荒井裕樹著)、2021年4月発売、平凡社『中学生の質問箱 「ハーフ」ってなんだろう?』(下地ローレンス吉孝著)
2022年7月発売、平凡社『中学生の質問箱 障害者ってだれのこと?』(荒井裕樹著)、2021年4月発売、平凡社『中学生の質問箱 「ハーフ」ってなんだろう?』(下地ローレンス吉孝著)

荒井裕樹:こんばんは。今日は差別というものについて考えたり、語ったりするときに、悩んだり困ったりすることがある事柄について、明確な答えを出すというわけではないのだけれども、お互いに日々の研究で直面する問題についてお話できたらいいかな、なんて思っています。

 私が下地さんと話してみたいと思っていたことの一つが、「言葉が『横取りされる』ことってありませんか?」ということです。これ、下地さんの本を読んでいてもこういうことって、ありうるんじゃないかと思ったし、私自身も日々経験することなので、ここからお喋りをさせてください。

 たとえば……政治家の杉田水脈議員っていますよね。総務大臣政務官になりました。すっごいショックだったんですよ。何がショックだったって、彼女が出したコメントに「自分は過去に多様性を否定したことはない」とあって、頭が真っ白になりました。論理的に批判のしようがない。めちゃくちゃすぎて言葉を失ってしまう。彼女のことを批判しようとすると、私はうまく言葉が出てこないんです。

 こういう場合、むしろ「無茶苦茶すぎて逆に批判しにくい人」を言い表す新しい言葉を作ってしまった方が早いんだと思うんですね。ただ、こういう言葉を作ってしまうと、そのすぐ後に、たとえば人とうまくコミュニケーションができなかったり、対人関係の中で論理的に話ができなかったり、そうしたことが苦手だったりする人のことを茶化すような言葉として横取りされたり、悪用されたりすることがあるだろう、と。

 障害者問題とか障害者差別にかんする言葉って、この「横取り」の問題がすごく大きいんです。たとえば、障害者運動の中で「地域」っていう言葉は、「みんなが普通にくらしている町の中」という意味だったんだろうと思うんですけど、いま、行政用語の中で「地域」っていうと、……すごくふわふわして当たり障りなく「問題が起きないこの世界のどこか」みたいな、かなりふわっとした言葉として使われていて、それは障害者運動が求めてきた「地域」ではないぞ……みたいな。

 「ハーフ」「ミックス」の研究や、ルーツとか、あるいはルッキズムとか、下地さんがカバーしている範囲ってすごく広いので、その中でこれにかんすることがあれば、お話しいただければなんて思います。

下地ローレンス吉孝:そうですね。横すべりというか、横取りされそう……されている言葉って結構あるなと思っていて。杉田水脈の話でいうと、その後に「差別をしたこともない」っていうことを言っていて。でも、たとえば月刊誌でLGBTと呼ばれる性的マイノリティーの人たちについて、「彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がない。そこに税金を投入することが果たしていいのか」としています。これは、誰がどう考えても直球の差別だと思うんですけど。ただ、それを否定して、それがまかり通ってしまって、政府の要職に就いてしまうっていうこと自体が、怖いことでもあるなと思っています。

 荒井さんの本で、『障害者ってだれのこと?』でも『障害者差別を問いなおす』でも、差別とはどういうことなのかをすごくわかりやすい事例を踏まえながら書いていらっしゃるな、と。『障害者ってだれのこと?』でいうと、「歩く」という行為から、差別が社会の中でどう構造化されているのかということを、気づきにくい状態のものでも、じつは、別の社会的立場の人にとっては差別的な状態に置かれてしまってることというのを、歩くという行為から説明していて、読んでいてすごくハッとさせられました。

 読むという行為もそうかもしれないですよね。読むとか話すとか、一つ一つの行為というのを問い直していく必要があるなあと思うんですけど。

 荒井さんも書かれていましたけど、「差別と区別は違うんだ」とか、「悪気があったんじゃない、だから差別って捉えちゃった人は、その捉えた側の問題なんだ」というふうに、被害者を責めてしまったり、そういったことにも滑っていってしまう。

 「差別」という言葉も、容易に否定されてしまったりとか、存在をないものにされてしまう。あるいは、別の形で横取られてしまうところがあるのかなと思います。それ以外にも、たとえば「多様性」とか「SDGs」とか「ダイバーシティ」とか。たとえば国連から改善勧告などを受けている人種差別だとか、ヘイトスピーチとか、すごく暴力的な言動でさえも、「多様性だから、それが言論として認められるべき」みたいな論調っていうのもあったりしていて。

 あとすごく恣意的、商業的な形で、たとえばオリンピックですごく目立つところに、多様性の象徴として、「ハーフ」「ミックス」の人が登場したり、そういう場面にそういう役割として当てられたりしていますけれども、その一方で、「ハーフ」「ミックス」の人たちが直面する差別などの現状は是正やルール作りとか何もされないまま放置されている現状があって。すごく政治的に横取りされたりとか、商業的に利用されたりという中で、言葉が流れてしまっていたりとか、マイノリティの人たちを攻撃するように使われてしまったりとか、すごくある。

 ……言葉が脱臼されたり、骨組みがばらされてしまうのは、運動とか社会的に声を上げる動きにとってはすごくダメージがあるのではないかと日々感じます。

『障害者ってだれのこと?』刊行記念オンライントークイベントの様子(写真提供:wezzy)
『障害者ってだれのこと?』刊行記念オンライントークイベントの様子(写真提供:wezzy)

荒井:差別と闘う側が頑張ってきた言葉が、わりと差別者側に使われちゃうことがあって。たとえば「ヘイトスピーチ」も横取りされちゃったなって感じがするんですね。政治家への批判を、政治家側が「ヘイトスピーチだ」って言ったりするわけですよね、いま。その点で言うと、『「ハーフ」ってなんだろう?』を読んでいて、すごく勉強になったのが、「マイクロアグレッション」という言葉ですね。

 マイクロアグレッションって日本語の文献に登場して、そんなに時間経ってないと思うんですけど、ある状況を警告したり、ある問題を浮き彫りにするための言葉としては、すごく大事なことなんだけど、これも悪用されやすいかなっていう気が、実はしました。「アグレッション」の部分じゃなくて、「マイクロ」の部分が強調されちゃうっていうのかな。「小さいことでしょ」って。「良かれと思ってやった小さなことじゃないか」と。

 「それもアグレッションなんだ」っていう話だったはずなんだけども、「アグレッションかもしれないけどマイクロじゃないか」って、そっちのほうに持っていかれそうな怖さを感じたんですよね。

 今はこのあたりの言葉がすごく多様化してきていて、マイクロアグレッションもインターセクショナリティも、いろいろ多様化したものが日本語文献の中で紹介されてきています。でも、よく噛み砕ききれないまま使っていることで、変な使い方を許してしまいそうな怖さみたいなものもあるんですよね。その点、下地さん、なにかお考えになっているとか、お感じになられることってありますか?

下地:そうですね。これは社会運動なり、アカデミズムなりで使われている言葉の翻訳プロセスにもかかわる問題でもあるのかなと思っています。

 マイクロアグレッションについては、今まで捉えにくかった差別、差別と認識すらされていなかったことが、人種的、あるいは性的、ジェンダー的に偏見にもとづいていて、相手にとってダメージが蓄積されていって、心身の健康に害などを引き起こすような形の、しっかりした定義が与えられてこなかった体験というのが今まであった中で、それが「マイクロアグレッション」っていう言葉を得たことによって、自分自身の経験を受け止めたりとか、整理して批判することに役立ったりという、良い面はすごく大きかったなと思ったりします。「マイクロアグレッション」という言葉が最近出てきたのにすごく広がった背景には、そういった意味で役立ったからこそ広がった部分があるのかなと思っています。

 しかし荒井さんのおっしゃる通りで、やっぱり言葉が吟味されていない状態で広まったときに、言葉尻というんですか……なんて表現したらいいかわからないんですけれども、言葉の持つ意味の部分ではなくて、その表層的な部分、表面の部分にとらわれて横取りされるということがないように、すごく気をつける必要があるなと思っていて。

 「マイクロアグレッション」にかんして言うと、「マイクロ」という部分と「アグレッション」の部分、「小さい」「攻撃」というふうに表面的にはなっているんですけど、その意味の部分は、すごく心理学や社会学の領域でかなり議論がされていて、こういった概念が出てくる背景とか、概念が使われる文脈みたいなものとセットで広まっていく必要があるのではないかなど……。難しいですね。荒井さんにもお聞きしたいんですけど、言葉単体ではなくて言葉の背景というのか中身というのか、そういうものがセットで広がっていくことがすごく大事なような気がしています。

 「マイクロアグレッション」でいうと、やっぱり「小さい」というふうに日本語化されやすいところ、『現代思想』の2022年5月号の「インターセクショナリティ特集」で、丸一(俊介)さんという方が、「マイクロ」の意味は単に小さいという意味ではなくて、マクロ=大きい社会的な領域と、日常的なマイクロレベルの領域というふうに社会的な領域を分けて考えて、より大きな社会的な場面――政府とか法律とか国際機関とかハードな部分――そういった大きい領域ではなくて、日常の場面、たとえばバスに乗ったときにそのバスの運転手さんから言われることとか、レストランで店員さんから言われることとか、家族から言われることとか、日常の場面で起こるアグレッションという意味でマイクロアグレッションという言葉を使う、「小さい」という意味ではなくて、マイクロとマクロを比較したときに出てくる意味なんだよということが書かれています。

 丸一さんは、この概念が広まるきっかけとなった書籍(デラルド・ウィン・スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション 人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』2020年、明石書店)の翻訳プロジェクトにかかわった人なので、すごく説明されていたんですけど、やっぱり「小さい」というふうに日本語の中で解釈されることに警鐘を鳴らしていらっしゃって。2年経って、少しずつ広まっていく流れの中でしっかりと楔を打つというか、言葉の表面の部分と中身の部分が離れていってしまうのをしっかりと繋ぎ止めていく……言語学の中でもスチュアート・ホールとかが表面と中身をくっつけることを「節合」という言葉を使って、すごく丁寧に理論化していたりするんですけど、そういった繋ぎをしておくことは横取りされないためには必要なのかなって思います。

荒井:なんていうのかな。表面的な言葉の意味と実態的な部分、それを繋ぎとめていくのがやっぱり学者の仕事なんだろうなと思うんですよね。

 国連の「障害者権利条約」というのがあって、それにもとづいて「障害者差別解消法」が作られました。この中に「合理的配慮」という言葉があります。これがやっかいなんですよね。英語だと「リーズナブル・アコモンデーション(reasonable accommodation)」なんですよね。リーズナブルだから、きちんと「根拠がある」ということ。アコモンデーションは「調整する」というような意味です。その人が、その環境にいるために必要な調整を行うというか、根拠のある調整を行う、ということです。それが合理的配慮なんです。

 ただ、合理的配慮という訳文自体がややこしかったのか、「障害児と健康な子どもを分けた方が合理的に教育できるじゃないか」とか、合理的という言葉がすごく乱暴に捉えられてしまう。横取りされてしまってきたと思います。

 この辺りの、言葉と実態をどう繋ぎとめ、言葉の横取りを許さないような形で言葉を発信しつづけられるか、みたいなことは、僕らがやらなきゃいけない仕事の一つなのかなというふうに思いました。

――この後、自分の体験を「差別」 とみなしていない人の差別的体験について、 相手とどのように向き合いどのように社会的に発信しえるのか、研究者としての葛藤、マイノリティが社会参加を求めるとあり得ない危機を騒ぎ立てられること、障害者と「ハーフ」「ミックス」の問題に共通する社会の構造や力学などなど……研究者としてお二人が経験されてきたこと、考えていらっしゃることが語られました。

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