自閉症スペクトラム障害者のカモフラージュとは何か――発達障害特性が目立たないように生きる当事者の経験から
記事:明石書店
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自閉症スペクトラム障害をもつ人のカモフラージュと聞いて、みなさんはどんなことを思い浮かべるだろうか。訳者の一人である精神科医の田宮聡先生から本書をご紹介いただいた際に、大学卒業後に発達障害の診断を受けた私は、それはいつも自分が行なっていることであろうと直感した。
本書の訳者解説では、カモフラージュとは何かが次のように説明されている。
自分の特性を自覚しつつ周囲との関わりの難しさを感じると、自閉症スペクトラム障害児者は、自分の特性を隠そうとしたり、無理に周囲に合わせようとしたりすることがあります。これがカモフラージュです。(本書p.43)
本書は女性の自閉症に焦点を当てているが、カモフラージュは女性に限らず、自閉症の人に広く見られるものである。自閉症女性たちのようなカモフラージュ能力は自閉症男性やノンバイナリー(男女の区別に収まりきらないジェンダー)の自閉症者にも見られるという研究も、本書の中で紹介されている(p.40)。
女性に着目することは、典型的な男性の事例を中心に進められてきた自閉症研究のなかで見落とされてきた側面に光を当てることであり、本書は自閉症スペクトラム障害をもつ人全般に役立つはずだ。
幼いころ私は、一般的な子どもが興味をもたない相撲や、「プラナリア」「ヌタウナギ」といったあまり知られていない水生生物が好きだった。現在はノンバイナリーとして生きているが20代までは女性として生活していたので、「女の子」としては特に風変わりだとみなされたのだろう。自分の関心のあることばかり話し続けるので、周囲からは変わり者扱いされていたが、嫌がらずに付き合ってくれる友達も少数ながらもいて、それなりに穏やかな学校生活を送っていた。
しかし、小学校高学年の同級生とのちょっとしたトラブルがいじめに発展したことから、状況は一変する。小学校の授業や学級活動では好きな者どうしでグループを組む機会が頻繁にあり、私はいつもそこからあぶれるようになった。それは大きな苦痛であった。
一部の大人たちからは、「お相撲さんの絵ばかりじゃなくて、ほかの絵も描いたら」「もっと幅広く、いろいろなことに関心をもったほうがいいよ」と言われた。それまで好きだった相撲や魚類からは、できるだけ遠ざかるようにした。そうしているうちに、幸か不幸かそれらの対象には興味がなくなってしまった。
家の都合で転校したのを機に、いじめの対象にならないよう意識的に周囲に溶け込もうとすることにした。カモフラージュ生活の始まりである。話題になっているテレビ番組は、興味がなくても見る。ほかの人の言うことにできる限り話を合わせる。自分以外の子は関心をもっていないであろうもの、例えば流行遅れのフォークソングや歌謡曲などの話はしない。
こういった対策が奏功して孤立することなく高校を卒業し、大学に進んだ。高校までのように無理に「友達」を作る必要もなくなり、次第に一人で行動することが多くなった。非社交的で狭い分野に関心をもつ性質から、研究職に向いていると思い、古今東西の名著とされる思想書や小説を取り憑かれたように読んで研究対象を探した。しかし、特に研究したいと思う対象は見つからないまま、大学の四年間は過ぎた(関心があるから研究をするのであって、研究をしたいから対象を探すというのは考えてみれば本末転倒なのだが、これを書くまで気がつかなかった)。途方に暮れた私は、摂食障害を発症していた。
大学卒業後の進路に迷っていたころ、当時知られるようになっていた「アスペルガー症候群」の特徴に当てはまるのではないかと母から指摘された。医療機関で知能に遅れのない「広汎性発達障害」の診断を受け、ソーシャルスキルトレーニング(SST)にも参加した。しかし、ほかの参加者は特性の表れ方が顕著な人ばかりで、私の参考にはならなかった。さらにSSTを担当していた臨床心理士から「あなたの場合アルバイトもできるんだし、発達障害とまではいえないかもね」などと言われ、発達障害に関する医療からは遠ざかることになった。
本書にも、あなたは自閉症ではないと言われて苦しんだ当事者たちのエピソードが登場する。
その後私は、フルタイムの接客の仕事に就いた。現在のようにハラスメントに対する認識が高まる前の時期だったこともあって、上司からのパワハラや客からの理不尽な要求に幾度となく遭遇し、内心怒りを募らせていた。しかし、怒りを感じた場合に適度に表現するということが私には難しく、激昂するか沈黙するかの二択になってしまう。それならば後者の方が適応的であると判断し、感情を抑えることでやり過ごした。傍目には、無口でまじめでおとなしい人のように見えたのだと思う。
でも時々、どの程度主張するのがちょうどいいのかわからない。やっとの思いでわたしがしたいことや言いたいことを言ったときには、少し言い方がぶっきらぼうになり過ぎてしまうのよね…(本書p.30)
紆余曲折を経て現在の仕事に就いた後も、私は人とのコミュニケーションに難しさを抱えており、もどかしさが消えることはない。
カモフラージュを続けるうちに特性を活かす機会を逸し、自らについて説明する言葉を失ってきたのだと、本書を担当したことを機に認識するようになった。たとえ発達障害の診断を受けていても、継続的に就労するなどして表面上は社会に適応していると、特に悩みはない、困っていないとみなされてしまう。しかし、本人としては苦しいということもあるのだ。けれどもどのように困っているのかうまく説明できないことには、だれも気づいてくれない。
自閉症についての一般的な説明から説き起こし、当事者たちへのインタビューを紹介しながらカモフラージュについてわかりやすく視覚的に解説した本書は、当事者の自己理解や支援者の気づきを促す一助になるだろう。当事者の周囲の人たちに本書を渡して、眺めてもらうだけでも有用なのではないか。本書を手掛かりに、自閉症スペクトラム障害をもつ人が生活しやすい環境づくりに向けて話し合うのもよいだろう。
私の場合は長らく自分自身を抑圧し続けてきたせいで、一つのことに持続的な関心をもつこともできなくなってしまった。幼いころにもっていた関心のある物事への集中力などの肯定的な特性は影を潜め、対人関係の難しさや、感覚過敏(子どものころからピアノや鐘、太鼓の音が苦手で、未だに克服できずにいる)などの生きづらさばかりが残ったようだ。涸れた心はそうたやすくもとには戻らない。しかし、今からでも楽しく生きることはできるはずだ。本書には自己理解を深めながら興味関心事を屈託なく楽しむ当事者たちが登場し、そんな希望をくれる。もちろん、心がすり減る前の若い人が本書を読めば、さらに有益であるに違いない。
文:辛島 悠(明石書店)