1. じんぶん堂TOP
  2. 教養
  3. 差別を許す「村」を変えるために――日本人マジョリティへの問いかけ :『ダーリンはネトウヨ』書評(出口真紀子)

差別を許す「村」を変えるために――日本人マジョリティへの問いかけ :『ダーリンはネトウヨ』書評(出口真紀子)

記事:明石書店

『ダーリンはネトウヨ――韓国人留学生の私が日本人とつきあったら』(クー・ジャイン著・訳、金みんじょん訳、明石書店)
『ダーリンはネトウヨ――韓国人留学生の私が日本人とつきあったら』(クー・ジャイン著・訳、金みんじょん訳、明石書店)

“あからさまでない”差別に私たちは共感できるか

 タイトルに惹かれて手にとってみた。主人公はてっきり日本人女性だと思いきや、韓国人女性が日本の大学入学のために来日し、日常生活を送る様子が軽いタッチで描かれたマンガだった。主人公のうーちゃんがオーケストラのサークルに入るところから物語は始まり、母語ではない日本語に悪戦苦闘しながらも徐々にサークル仲間に受け入れられるうーちゃんは、思わずエールを送りたくなる好感の持てるキャラクターである。「ネトウヨ」な彼氏とは一体どんな奴だ、と少しいきりたって読み進めると、のちに彼女の恋人となるサークルの先輩であり、予想に反し、いわゆる“普通”でどこにでもいそうな“いい人”なのである。問題発言や問題行動も多い反面、面倒見が良かったり、率先してサークルを盛り上げたり、主人公を助けたり、優しい側面もたくさんある。

 しかし、物語が進む中で、少しずつ、彼のレイシズム(人種・民族差別)とミソジニー(女性蔑視)が交差する言動が出てくるのである。そしてそれは、どうも彼がネットをとおして右翼的な情報に感化されていったためではないかという様子が会話の中に垣間見える。怖いもの見たさ的な感覚でドキドキしながら読み進めることができる。

 私たちは、マンガの主人公に悲劇が起きると大抵は共感するようにできているが、日本人ではない主人公が、日本で“あからさまでない”差別や偏見にさらされて傷ついた時、同じように共感をもって反応できるだろうか。「外国人なんだから、それくらいの経験は仕方がないんじゃないの」や「それは本人が被害者意識を持ちすぎじゃないの?」と、「外国人」である主人公に対して同情どころか、本人を責めてしまうような反応をしてしまわないだろうか。

自身の差別感覚、人権感覚の成長を測る本

 マイクロアグレッションという言葉が世に出て広まりつつあるが、本書はその教科書のごとく、日本において見た目は日本人とみなされる外国人(作者のクー・ジャイン氏のように)が受けるあらゆるマイクロアグレッションのプロトタイプ(典型)的な言動が登場する。「日本語お上手ですね」「日本人みたい」といった褒め言葉。初対面の人から外国人だからと嫌悪感をあらわにされ理不尽な対応をされる経験。「整形してるんですか」と明るく発せられる韓国人ステレオタイプをもとにした質問。こうした言動には「あなたは私たち日本人とは違う」といった隠された攻撃性が含まれており、そのメッセージを受け続けて疲弊するのが、マイノリティの立場におかれた外国人である。

本書第2話「日本語上手ですね」より抜粋(p.17~18)。
本書第2話「日本語上手ですね」より抜粋(p.17~18)。

 マンガという形式は、マイクロアグレッションがどのように作用するかを描くのに実に優れた媒体だ。なぜなら、日常の中の、時に楽しく、時にウルッとくる感動の場面もあれば、一つの事象というよりも細かい気苦労が重なり合って疲弊する辛さも描きやすい。仮に楽しい時期が辛い時期より多かったとしても、それはマイクロアグレッションがもたらす苦しみが癒されることを意味しないし、帳消しにされるわけでもない。痛みは痛みとして心にはしっかりと残っているものだからである。

 そのため、この本は読者側のレイシズム度、ミソジニー度が試されるものだと、私は考えている。読者の中で、マイノリティ性を有していない人や、マイノリティの立場に置かれたことがない日本人は、「ネトウヨ」な彼氏を擁護するようなスタンスで読むかもしれない。あるいは、日本人女性の立場で読む人は、女性蔑視のところでは主人公に共感できても、韓国人として外国人として受けた扱いの部分は、「日本人側が善意で褒め言葉として言っているのだから、それに対して悪意を感じ取るのはどうか」と違和感を覚えるかもしれない。

 本書はあっという間に読めてしまう本だからこそ、自分の差別感覚、人権感覚の成長の度合いを確認するために時々、読み返してほしいと思う。最初に読んだ時には全く引っ掛からなかったポイントについて、ある時、そこに含まれていた真の意味を鮮明に理解できたり、昔の自分だったら何に対して作者がモヤモヤしているのかがわからなかっただろうことが、いまなら「なるほど」と腑に落ちたり、といった経験をするかもしれない。長期的に自分の差別・偏見リテラシーの度合をチェックできる本として位置付けられる。

日本社会特有のマイクロアグレッション

 アメリカで日本人女性・マイノリティとして長年暮らしてきた私の体験と、主人公の体験とを重ね合わせることができ、共感できるところがある一方、決定的に違うことに気がついた。それは、うーちゃんが日々受けてきた「日本人のようになりなさい」「日本人のようにならないと差別されても仕方ないですよ」という圧力である。私たちはこうした非常に抑圧的なメッセージを無意識に発信しているのだ。

 私自身アメリカでさまざまな差別やマイクロアグレッションを受けてきたが、「アメリカ人のようになれ」といった同調圧力や「アメリカ人らしさを習得せよ」といった押し付けを感じたことはほとんどなかった。となると、やはり日本社会の同一性を強制する――そしてこれは特にアジア出身の外国人に対してより強まる――といった現実が浮き彫りになる。

 主人公は「日本人が望む外国人」になろうとしたと書いている。アクセントを徹底的に直さないといけないといった不安や強迫観念、自分のルーツを偽ったり隠し続けたりする行動をとったことによって罪悪感で苦しむといった状況からは、日本社会において、外見で日本人とみなされやすいマイノリティであればあるほど、マイクロアグレッションを軽減させるために同調する努力を自ら進んでしてしまう、板挟みの構造が見てとれる。

第22話「執着の始まり(2)」より(p.76~77)。
第22話「執着の始まり(2)」より(p.76~77)。

 ネタバレにはなってしまうが、主人公が日本を去らなくてはならなかった精神・健康上の問題は、マイクロアグレッションの研究からも日常に埋め込まれた差別の長期的な悪影響がすでに実証されているため、特に驚かない。そしてこれは、比較的、文化圏が近いと考えられる韓国人でさえ心身を消耗して健康を害してしまうほど日本社会が排他的であることを立証しているとも言える。

 本人の弱さのせいにすることは簡単だ。しかし果たして本当にそれで良いのだろうか。「ちょっと気の毒な話で、たまたま付き合った人が残念だった」と、自分とは無関係な問題として今まで通りに生きていくしかないのだろうか。

日本人マジョリティの責任と勇気

 アフリカには「子育ては村中みんなでするもの」という格言があるが、この本の最大のメッセージは、「差別は村中みんなでするもの」だと思う。作者のクー・ジャインが受けた数々の攻撃の責任は、彼女の周りにいた人々だけの責任でなく、そうした差別を許す「村」を維持し続けている、私たち日本人マジョリティ全員に降りかかってくる責任である。私たちは、無意識・無自覚で差別的な言動を繰り返して行なっている。そしてそれを私たちは認めたくないし、ないことにしたい。

 作者が「はじめに」で「うーちゃんの物語が皆さんにとって自分自身の足元を見つめる勇気となるよう願っています」と書いているが、私は「勇気」という言葉に注目した。私たちに求められているのは、まさに自分の中にある、見たくない部分を直視する勇気ではないだろうか。勇気を出して、本書を手にとり、自分ごととして直視していただきたい。なぜなら作者は「勇気」という言葉で、私たちがより幸せで、生きやすい社会・国をつくっていく可能性を示してくれているからだ。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ