原発事故が本当に奪ったものは何だったのか? 『双葉町 不屈の将 井戸川克隆』
記事:平凡社
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隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった
東京電力福島第一原発がある人口7000人ほどの小さな町、福島県双葉町の元町長、井戸川克隆と顔を合わせるたび、私は中島敦の小説『山月記』の一節を思い出す。
「狷介」=固く自分の意志を守って人と妥協しないこと
井戸川を知る誰もが頷くだろう。井戸川も自負心が強く、何事も納得しなければ頑として受け入れない性格であるのは間違いない。
2011年3月11日、東日本大震災によって福島第一原発の過酷事故が起きた。井戸川は翌日、放射能が降り注ぐ中、町民を引き連れ西に約50キロ離れた福島県川俣町へ避難した。だが、ここにも放射能は忍び寄り、14日には線量計の針が振り切れた。井戸川はここで非凡な胆力を発揮した。役場から持ち出した安定ヨウ素剤を独断で町民に配り、新たな避難先を探すため自ら福島県の災害対策本部に乗り込んだ。そこで国や福島県の役人たちが右往左往するばかりで頼りにならないと見るや、自分に付いてきた約2000人の町民の避難先を独力で探し出した。
そして19日、数十台のバスに分乗し、双葉から200キロ以上も離れたさいたまスーパーアリーナ(さいたま市)に町民を導いた。埼玉県知事やさいたま市長らも井戸川を出迎え、長駆の避難を労った。井戸川はさながら、イスラエルの民を率いてエジプトを出たモーゼのように英雄となった。
迫り来る放射能への恐怖と混乱の中、住民を率いて福島脱出を果たした首長は井戸川だけだ。国や県の指示なしに市町村は何もできないと言われるほど上意下達が徹底されている日本の地方自治にあって快挙とさえ言えた。
井戸川は閉校になっていた旧埼玉県立騎西高校(埼玉県加須市)に役場と避難所を構え、被曝の無視を強いる「福島復興」に抗った。
しかし井戸川が英雄でいた期間は短かった。福島県内に残った他の市町村と比べられ、「なぜ国の賠償指針を受け入れないのか」「なぜ福島県内に戻らないのか」「双葉だけ復興から取り残される」と、足元の町民や議員たちから不満が噴出し、事故発生から2年も経たないうちに町長の座を追われた。
その1年後には原発事故の不条理を象徴する「騒動」の当事者として再び注目を浴びた。今度は決断を賞賛される英雄ではなく、言動を非難される科人として。
井戸川は『週刊ビッグコミックスピリッツ』の連載漫画『美味しんぼ』の福島編に実名で登場し、鼻血が止まらないなどの体調不良は事故による放射線被曝が原因であると主張したことから、「風評被害をまき散らすな」「福島の復興を邪魔するな」と激しいバッシングを受けた。それ以降、井戸川は「取扱注意」の人物となり、大手メディアからその名前が消えた。
それでも井戸川は屈しなかった。それからわずか半年後、福島県知事選に立候補し、被災者政策の欺瞞を訴えたのだ。この時の選挙演説は私の心を激しく揺さぶった。
「この事故は過酷だ。分断されてコミュニティはすべて壊された。事故は終わったかのように言われているが、まだ終わっていない。いつもきれいごとばかり言って、被害者を除け者にして決めてきた。声なき声をいいことに県民不在で何でも決めてきた。声なき声を無視して幕引きしようとするのは間違っている。被曝は『風評被害』で片付く問題ではない」
落選しても井戸川は闘いをやめはしない。現在の戦場は東京地裁の法廷だ。井戸川の訴訟は全国各地で起こされた避難者の集団訴訟とは様相が違う。原告は井戸川ただ一人。提訴からもう8年が経つが、まだ一審判決にも至っていない。それは井戸川が自ら書き刻んだ膨大な書面を裁判所に提出し、この事故による被害を余さずに示し、この欺瞞に満ちた国策を徹底的にたたきのめそうとしているからだ。烏合の衆に過ぎない集団訴訟ではこんな凄まじい闘いはできない。
私が新聞記者として井戸川と出会ってから10年以上が過ぎた。「なぜ井戸川を追い続けてきたのか?」と問われた時、私は何と答えるだろう。現在の井戸川は権力者でも著名人でもなく、損得勘定では説明がつかない。
初めて井戸川に会ったのは、事故から約1年半後の2012年10月16日のことだった。当時双葉町役場の町長室として使われていた旧埼玉県立騎西高校の校長室のドアを開けると、私がこの直前に毎日新聞紙上に掲載した「福島健康調査で秘密会」(2012年10月3日)、「委員発言県振り付け」(同5日)の2本の新聞記事が、おそらく校舎だった時代に校長が使っていた大きなデスクの上に広げられていた。この記事は、福島県が実施している被曝に対する健康影響調査を巡り、公開の有識者委員会の直前に「秘密会」を行い、被曝の健康被害を「なかったこと」にする口裏合わせをしていた事実を報じたものだ。間接的にではあるが、町民を放射能から守るため福島を脱出した井戸川の決断を肯定する内容だった。
井戸川は私の姿を見ると、おもむろに椅子から立ち上がり、「ありがとう、私たちが正しいと証明してくれて」と涙ながらに握手を求めてきた。当時の井戸川が置かれていた厳しい状況を知らず、私は「政治家の人たらしのやり方なのだろう」と斜に構えていた。
同じ頃、福島県内の除染で発生した汚染土を最長30年間保管する「中間貯蔵施設」を双葉町に押し付けようと、国や福島県が包囲網を狭めていた。井戸川は「汚染土を受け入れなければならない理由はない」と拒否を貫いたが、町議会から不信任を突きつけられ町長の座を追われた。
井戸川の自宅も中間貯蔵施設に線引きされた内側にある。汚染土を運び込むために無人の荒野を造るという、にわかには理解できない特異な公共事業を井戸川は今も認めていない。祖先から受け継いだ土地を国に引き渡していないが、井戸川の抵抗を無視して工事は着々と進んでいる。
故郷を壊す国策に抗い抜く井戸川の姿は、小さき村を水底に沈め、足尾鉱毒事件の幕引きを図る明治政府に立ち向かった田中正造と重なる。だが、井戸川は田中正造の生き様のすべてを支持しているわけではない。
「田中正造さんみたいに大衆迎合して周りを巻き込むのは良くないよ。消耗戦で疲れさせてしまう。だから俺は一人でやっている」
井戸川は双葉の民を放射能から守った英雄であり、「美味しんぼ騒動」で糾弾に遭っても信念を曲げない闘士であるにもかかわらず、反原発運動の旗頭とはならず、むしろ運動と距離を置いてきた。原発事故の被災者や支援者の中には、スターのように目立つうちに役所に取り込まれたり、特定の党派・組織の代弁者になったりして、いつしか輝きを失ってしまった人もいる。だが井戸川は自らの軸足を双葉から動かすことなく、誰にも阿ることなく自らの生き様を貫いている。あの時の恐怖と痛みを忘れ、変わってしまったのはむしろ社会のほうなのだ。井戸川の言葉を借りれば、「原発事故が起きてから条理や道理が届かない世界になった」のだ。
国策はこの原発事故を「なかったこと」にするため、噓と隠蔽で泣き寝入りを強いてきた。
闘うことを諦めて傍観者になってしまえば楽に生きられる。でも、納得できないまま吞み込んだ棘は溶けることなく体内を巡り続ける。そんな煉獄にあって、ブレることなく闘い続ける井戸川克隆は、降りかかってきた災厄から民を守る聖者であると同時に、立ち上がらない民に弱さを突きつける審問官のような存在でもある。
本書は、忘却と忍従を強いる世の流れに背を向け、ただ一人闘い続ける双葉の長と、彼を敬いつつも後に続くことができずに苦しむ双葉の民の姿を通じて、人生を懸けた闘いの意味を伝える物語である。