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原発事故と政治 正義にかなう道を希求する 宮崎大学講師・松尾隆佑

処理済み汚染水の貯蔵タンクが並ぶ東京電力福島第一原発=2023年1月、福島県大熊町

 岸田内閣は先月、エネルギーの安定供給や脱炭素社会の達成に向けて原発の活用が重要だとして、原発の増設・建て替えや運転期間延長を認める方針を決めた。また朝日新聞社の世論調査では、福島第一原発事故後の12年間で初めて、原発再稼働への賛成が反対を上回ったという。再び原子力依存を深めつつある日本の政治において忘れられがちなことを、立ち止まって考えてみたい。

被害の実相知る

 事故を理由とする避難者は今も少なくとも3万人以上いる。しかし国内避難民にあたる彼ら彼女らに対する公的支援は必ずしも十分でなく、段階的に打ち切られてきた。髙橋若菜編著奪われたくらし』は、様々な避難者から聞き取った声を交えながら、被害の実相を描き出している。特にリスクを過小評価する国の政策が被害を不可視化し、避難者への差別やいじめを助長してきたという指摘は重い。
 母子避難に伴う苦悩や困窮を丁寧にたどり直す同書は、原発のリスクが決して平等に降り注ぐわけではないことを思い出させる。原発は運転するだけで一定の被曝(ひばく)労働や環境汚染を引き起こし、放射性廃棄物を発生させるが、これらのリスクの引き受け手は特定の集団や地域に偏ってきた。哲学者の高橋哲哉が「犠牲のシステム」と呼ぶこの構造を体系的に論じているのが、K・シュレーダー=フレチェット環境正義』である。
 同書には、国家や企業が自分たちの都合で環境汚染を周辺的な集団・地域に押し付けようとする事例がいくつも登場する(そこには各種の原子力施設も含まれる)。それらが許されないのは、便益と負担を公正に割り当てる「分配の正義」や、自己決定の権利を平等に認める「参加の正義」に反するからである。押し付ける側は相手が同意したと言うかもしれない。だが経済格差や情報不足などによって真に自発的な同意を成り立たせる条件が損なわれていれば、事実上は強制していることになる。

参加し熟議する

 政治と正義は別だと思われるだろうか。しかし民主政治は、あらゆる市民の平等な権利を前提としている。他の市民がリスクを受忍することで恩恵を受けている市民には、「デモクラシーの約束」を果たすため環境正義を追求する責任がある。現在も東日本の各地では、事故炉から飛び散った放射性物質で汚染された土壌や廃棄物が大量に保管され続けている。これらにどう対応すれば正義にかなうのかは、私たちが向き合うべき直近の問いである。
 そもそも放射能汚染には境界がなく、高レベル放射性廃棄物の危険性は10万年にわたる。原発は空間的にも時間的にも従来の民主政治を超えた想像力を要求するのだ。この点では、原発活用の名目とされる気候変動も似た特徴を持つ。ならば両者に関する政策は、既存の代表制にとどまらない取り組みを必要とするはずではないか。
 三上直之『気候民主主義』は、欧州各国の議会や政府が主催している気候市民会議を中心に、脱炭素社会への転換を導く市民参加手法を論じている。三上は脱炭素化を目指す上でも原発は倫理的・経済的に有望な選択肢でないとする一方、原発をいつまで、どのように使い続けるかは参加と熟議に基づく私たちの選択次第だと説く。
 気候市民会議では、くじ引きで選ばれた一般市民が気候変動対策を話し合い、政策決定に活(い)かそうとする。これは2012年の日本でエネルギー政策に関して実施された討論型世論調査と共通点の多い手法である。脱炭素化と脱原発の双方を達成するためには、こうした民主政治そのもののイノベーションを試みていくことが欠かせない。=朝日新聞2023年3月11日掲載