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ラディカルさの再定義を通して人々を結びなおす 片岡大右×三牧聖子対談(後編)

記事:晶文社

(左)片岡大右さん、(右)三牧聖子さん
(左)片岡大右さん、(右)三牧聖子さん

(前編はこちら)

地道な共存の模索も批判の役割

片岡 そしてまた、これは批判をどう捉えるかという問いにも関わってくると思います。批判の役割のひとつは、ある種の俯瞰的な視点に立って、ここにはこういう構造がある、これこそが問題だ、と指摘することです。こうした構造重視の姿勢は、もちろん一方では必要なものではあるのですけれども、しかしそこには一定の限界もあります。

 例えば、19世紀以降に深められていく西洋中心主義的な世界秩序の構築というものがあって、イスラエル国家の建設をそうした大きな構造のなかに位置づけることは可能ですし、それは必要な作業でしょう。先ほど言及したサイードも、そうした観点を強く打ち出しています。こうして入植者国家としてのイスラエルとその不当性という観点に立つなら、パレスチナ人の帰還権の歴史的正当性が当然帰結する。しかしそれでは、今のイスラエルの土地にもう住み着いて何十年にもなる人々を単純に追い出していいのかというと、そういうこともサイードは言っていないのですね。ではどうすべきかという点が曖昧なのですが、重要なのはこの曖昧さです。

 一旦は、歴史的な経緯とその背後にある構造を見極めることが重要です。しかしそのうえで、現実的な解決についてはある程度柔軟に考えていく必要がある。そうしなければ、人々を――つまりパレスチナ側の人々とイスラエル側の人々を――つないでいくことはできないわけです。こういう構造がある、終わり、というのではなく、どうやって共存を模索していくのかという問いに向き合い、地道な作業に取り組まなければならない。そうした作業を支えるのもまた、批判という知的営みの役割だろうと思います。

批判の世代としてのZ世代

三牧 今の片岡さんの問題提起には大変重要な洞察が含まれていますが、片岡さんのような立場は、今の政治社会では、どちらからも批判されるだろう、という難しさがありますね。

 アメリカのバイデン政権は口先では「パレスチナ市民を巻き込んではならない」と言っているのですが、この局面においてイスラエルへの軍事支援を続けています。しかも膨大な量で、市民を不可避的に巻き込む2000ポンドの爆弾も多く含まれている。しかし、市民社会に目を向けるなら様々な声があります。とりわけ1990年代半ばから2010年代の序盤に生まれたZ世代の反対は強まるばかりです。その反発は若さゆえのラディカリズムと捉えられがちですが、自国の現実を率直に見つめ、批判するリアリズムに由来するものであることも見逃せません。彼らはもはや強くて豊かなアメリカが自明視できない、右肩下がりのアメリカを生きてきました。国内は経済的不公平でガタガタ。国外では「テロとの戦い」と称して多くの市民を殺してきた。さらにはアメリカは直接的に他国の市民を殺すだけでなく、イスラエルへの強力な軍事支援を通じ、パレスチナ人の虐殺や抑圧にも加担している。「民主主義のための戦い」とか「法の支配」とかいった美しい言葉によって、どのような虐殺や人権侵害が正当化されてきたのか。若い人々はうんざりし、憤っています。もちろん彼らの洞察にはさまざまな未熟さもあるでしょう。その上で、アメリカという国の本質をかなりよく捉えているとも思います。冒頭で片岡さんがおっしゃった「批評の世代」といえるのではないでしょうか。

 10月7日、イスラエルがハマスのテロ行為を受けて大規模な軍事行動を始めました。当初から「自衛」をはるかに超えた軍事行動であることは明らかでした。この頃の世論調査で、Z世代は他世代に比べ、ハマスがやったことは許されてはならないが、イスラエルによる過剰な報復も許容できないと考える割合が多かった。イスラエルによる、アパルトヘイトを彷彿とさせる抑圧という、ハマスが誕生した背景についても理解しなければならないと考える人も多かった。アメリカでは民主党支持者を中心に、近年、パレスチナ支持がイスラエル支持に対して増えていますが、Z世代では、パレスチナ支持がイスラエル支持を逆転しています。伝統的に親イスラエルだったアメリカで、若い世代を中心に、新しい認識が生まれてきています。

 確かに平和への道は、片岡さんが提起されたような、イスラエル側、パレスチナ側双方の地道な努力を通じての共存しかないでしょう。しかし現時点でまず必要なのは停戦です。停戦を支持する声は、アメリカ市民全体でも過半数です。親イスラエルか親パレスチナの前に「虐殺をとめろ」という良識の声です。

『Z世代のアメリカ』(三牧聖子著、NHK出版新書)
『Z世代のアメリカ』(三牧聖子著、NHK出版新書)

社会の声の多様性

三牧 さらに停戦の声がユダヤ人からも上がってきました。パレスチナとの平和共存を諦めない「平和のためのユダヤ人の声」などのユダヤ人団体がニューヨークのグランド・セントラル駅やワシントンD.C.の連邦議会議事堂を占拠して、停戦デモを行うといったこともありました。イスラエルは今、「ホロコーストという極限の悲劇を経験したわたしたちだから、ガザでこれだけのことをしても許される」と、ジェノサイドの経験を、軍事行動の正当化に使っている。これに対して、「平和のためのユダヤ人の声」などは、「ジェノサイドを経験したユダヤ人だからこそ、再びのジェノサイドを許してはならない」「誰に対するジェノサイドも許してはならない」と、停戦の声を上げている。ユダヤ人が被ったジェノサイドの経験から、一方では軍事行動や占領の正当化の論理が、他方ではジェノサイドに抗する平和の論理が生まれている。

 対立の軸が非常に深まっている今だからこそ、ユダヤ人だからといって単純かつ無批判的にイスラエルを支持する人ばかりではなく、パレスチナの人々との共存を諦めない人々が確かに存在することに目を向ける必要があります。分断をごまかさずに見据えることも大事ですが、そこばかりを強調するのではなく、市民社会の中にある共存を求める多様な声や模索に耳を傾ける、批評の作業が非常に重要になっていると思います。

 その一方、戦争をめぐる問題について、白黒つけるべきところははっきりさせなければならない。ジェノサイドという問題には、留保や中立は許されない。わたし自身もそう考えています。「どちらにも言い分はある」といった責任逃れの中立論とも違う、本当に平和共存に向かいたいからこそあえて立ち止まり、双方の主張に耳を傾けるという批評的な姿勢が、どのようにしたら現実には可能なのだろう、といった疑問も生まれてきます。

対話の必要性

三牧 この問いに照らして、片岡さんが『批評と生きること』の第1部で論じられているデヴィッド・グレーバーの重要性を再確認しています。『ブルシット・ジョブ』が彼の著作として日本では一番知られていると思いますが、ここでは片岡さんが訳された『民主主義の非西洋起源について』を紹介したいと思います。グレーバーが非西洋世界の問題についてこれほどの思索をしてきた人だということ。それに加え、『批評と生きること』から、グレーバーの人間関係の多様性や奥行きを知りました。片岡さんの文章を読むまでまったく知らないことでした。

 〈オキュパイ・ウォールストリート〉運動へのコミットで知られるグレーバーですから、資本家とか富裕層とは会話もしないとか、とにかく戦う人なのではないかと思っていたのですが、実際には彼は、人類学者としてのアカデミアでの仕事と、社会・政治運動を分けて考えていたということです。人間関係も多様で柔軟でした。それを象徴するのが、著名な起業家でトランプ支持者としても知られるピーター・ティールとの交流でしょう。ティールは、どんどん格差が広がっていく社会にあって、自分だけは莫大な富をアンチエイジングに投じて不老不死を目指す、といった発想に立つ人間です。資本主義や格差の問題に関して、真逆とも思える哲学を持つ人間とも、関係を途絶えさせることなく、対話も行う。グレーバーに共感する人々には、ピーター・ティールなんて大嫌い、対話もしてほしくないという人がもしかして多いかもしれませんが、グレーバーは、そうした自分に期待されている役割を敢えて引き受けず、「あんな資本家とは話をしない」とか、「あんな資本家がいなくならない限りわたしたちの望む社会は来ない」というような発想からは、はっきりと距離を取っていたということですね。グレーバーは、ティールの「考え」には批判や憎しみがあったかもしれませんが、「対話相手」として、あるいは「人間」としてのティールにはそんなに悪い感情もなかったのかな、という印象を受けます。人間をその思想や一部の言動によって決めつけて、もう会話もしないといった態度を嫌った人なのかもしれません。

 片岡さんが先ほど触れたアイデンティティ・ポリティクスについて言うなら、わたし自身は一概に否定されるものではなく、それによって打開される現状はあるだろうと考えています。しかしアイデンティティ・ポリティクスを推進するだけでは、共存は実現されない現実も見つめなければならないと考えます。数ヶ月後に迫るアメリカ大統領選でもトランプは若干優勢です。バイデンが勝ったとしても、いずれにせよ、トランプを支持する人々が多数存在する現実の中で、彼らとも一緒に生きていかなければならない、という問題はある。まったく共感できない、共通性を見つけられない人間ともどう同じ社会で生きていくのか。アイデンティティによらない共存をいかに実現するか。相互理解よりはるかに薄い何かでどうつながっていけるのか。問われています。

 『批評と生きること』に所収されているグレーバー論は、グレーバーの思想のみならず、人間としてのあり方を描きだしていて、それは上述のような今日の政治状況に照らしても、とても新鮮なものでした。

 ガザは私たちに、「共存」という言葉が薄っぺらい美辞麗句としか感じられない、圧倒的な現実を突きつけています。欧米諸国の人々、少なくとも政治家たちは、あまりにパレスチナの人たちへのエンパシーを欠如させているのでは、と感じざるを得ない態度をとってきました。人種や宗教が違うとここまで人間は他人に対して冷淡になることができるのか、とエンパシーの限界を見る思いです。この文脈で、グレーバーのように差異を大切にした人が、その一方で人間の普遍性、根本の共通性にこだわったということが重要になってくる。

エンパシーを説きながらブロック魔だったグレーバー

片岡 そうですね。これは第1部で取り上げている論点ですが、グレーバーはエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロとの論争の中で、非西洋の民族文化の「ラディカルな他性」を唱えるこのブラジルの人類学者に対して、実はそのような他性はそれほどラディカルなものではなく、より根底には全人類に共通の基盤があるのではないかと問題提起しました。そうした共通の基盤のうえに様々な差異が見出されるのであればこそ、西洋近代社会に生きる人間も、他の社会の文化から何かを学び、今とは別の可能性に身を開いていくことができるはずだ、ということですね。グレーバーは人間の諸社会の差異、他なる側面を重視していればこそ、共通性にも目を向けたわけです。

 『ブルシット・ジョブ』あたりから、彼がエンパシーの概念に注目するようになったのも、様々な違いにもかかわらず、本質的に人間は分かり合えるだろうというある種の楽観性の表れと言えるかもしれません。

 しかしまた同時に、現実においては、相手の無理解に直面することは多々あるわけですね。そうした場合にグレーバーは、対立すべきところでは対立を直視し、苛烈な対応を取るような現実主義的な面もありました。それは彼のツイッター、現Xの運営を通しても認められることです。これも本の中で紹介していますが、グレーバーは自分には「民主主義的本能」があり、「みんなのことを真面目に受け止めたい」としつつも、無理解な攻撃にさらされていると感じる時には荒々しい言葉で応酬し、相手のアカウントをブロックすることで知られていました。ですから、英語圏での追悼文では、どうかあのツイッターのグレーバーを現実のグレーバーだと思わないでほしいなどと書かれていた(笑)。

 実際にはあんなに喧嘩っ早い人ではなく、むしろ相手の言うことを粘り強く聞く人でしたよ、というのですね。とはいえこうした二重性は、彼の人間性のみならず、その思想との関係でも本質的なものだったのではないかという気がします。本質的には人間は分かり合えると信じながらも、現実的に分かり合えない局面があれば、それはそれでサクッとブロックで応じるという。

クロポトキンによるラディカルさの再定義

片岡 しかしこういう両面的な姿勢というのは、決して笑い事ではなく、今の国際政治の文脈においても必要になるものだと思います。一方では理解可能性と共存の模索が必要であり、しかし他方では、対決すべき局面では断固として対決するという両面の間でどのように思考し実践するのか。これは国際的なアクターのみならず、われわれ一人ひとりの市民にとっても課題だろうということです。

 ここで想起したいのは、グレーバーの遺稿のひとつである、クロポトキン『相互扶助論』への序文です(アンドレイ・グルバチッチとの共著)。これは『批評と生きること』では取り上げていませんが、岩波書店のnote、「コロナの時代の想像力」に寄稿したグレーバー論で引用しています。そこでグレーバーはクロポトキンを参照しながら、ラディカルであることの再定義を提案している。ラディカルであるとは、何が人々を分断してきたのかを見極めたうえで、どうすれば人々をつなぎなおすことができるのかを考え、つながりを少しずつ再建していくことだ、というようなことが言われています。

 たしかに分断はあり、それがないかのようにふるまうのは欺瞞です。しかし同時に、そうした分断を宿命とみなさず、つながりの再建を試みなければならない。こうした二重の姿勢が真にラディカルなんだというのですね。ラディカルさというのは、ここに構造的な問題がある、ここに対立の焦点があると暴き立て、それによって人々を敵と味方に分けてしまうだけで終わってはならない、ということです。そうした見極めも重要ですが、そのうえで、分断を乗り越えるための努力を地道にやっていくこともラディカルさの不可欠な一面だと、グレーバーは考えていました。

力関係の非対称性はハマスを免責しない

片岡 そしてまた、今日のパレスチナとイスラエルをめぐる状況下でも、激しい対立があるように見える一方で、実は状況認識の興味深い収斂が見受けられる、という事実もあると思うのです。例えば、わたしは最近読んだ情勢分析の中で、2つの記事がかなり似通った認識に立っているという印象を受けたのですが、この2つの記事は、これまでむしろ対照的な立場に立ってきたように見える2人によるものです。

 一方は、東大のウェブサイトに掲載された池内恵・東京大学先端科学技術研究センター教授のインタビュー(「ガザ危機と中東の激動」、2024年2月9日)、他方は、雑誌『現代思想』2024年2月号掲載の鵜飼哲・一橋大学名誉教授の論考です(「「新しい中東」以後」)。どこが似ているかというと、まずはハマスの10月17日の行為の解釈です。どちらも、イスラエルとアラブ諸国がパレスチナ問題を棚上げにして関係構築を進めるという最近の動きへの応答としてそれを捉えている。自分たちを無視するな、というそれ自体としてはもっともな思いが大いに問題のあるかたちで表れたのがあの日の出来事だった、と。そして、たしかにハマスの行為は非難されるべきものであるにしても、その後のイスラエルの過剰にすぎる反応を前にして、それまで宥和に傾いていたアラブ諸国が態度を改め、パレスチナ側に再び立つようになったという帰結を確認している点でも、両者の判断は軌を一にしています。

 ここで指摘しておきたいのは、欧米のイスラエル寄りの知識人、ヤシャ・モンクでもハーバーマスでもいいですが、彼らにしても、イスラエルの現在のやり方を率直に擁護することはできずにいるということです。そこに一種の二枚舌があるとみなすことはもちろんできますが、彼らですら、イスラエルは相当やばいことをやっていると思い、結構困っているというのもまた事実でしょう。これはバイデンなどもそうで、口先だけであってもイスラエルを牽制せざるをえなくなっている。程度はどうあれ、イスラエルにもかなり問題があるということは、これはもう惑星全体の共通認識になっているとも言えます。

 そうしたわけで、池内さんと鵜飼さんのような、これまでアラブ世界に寄せる眼差しの点でむしろ対照的と見られてきた知識人が、かなり重なる状況認識を口にしているのも無理はないという気がします。そして彼らの記事は、今後の解決の展望の点でもある程度似通っている。池内さんのほうは、イスラエルとパレスチナの両陣営が、二国家解決による共存へと向かうよう、欧米やアラブ諸国、さらには国連が、「多大な国際関与」を通して強力に道筋をつけるべきだと説いている。イスラエルにもハマスにも問題があるので、もはや当事者任せにはできず、国際的圧力で政権を入れ替えることも必要だろうというのです。

 鵜飼さんのほうは、オスロ合意以来の二国家解決路線を退け、ジュディス・バトラーがハンナ・アーレントを踏まえて唱えている「連邦」形成案に可能性を見出しているのですが、いずれにせよ、二民族の共存を模索する一方、もはや両陣営の当事者の交渉には期待できないため、やはり強力な国際的介入による秩序の押し付けがなされざるをえないといった論調になっている。イスラエルの応答がまったく釣り合いを欠いており、両者の力関係が途方もなく非対称的であるとしても、ハマスのようなやり方を支持できるものではないのですから、第三者の介入という手段を認めざるをえないということですね。イスラエルの非道をいかに告発したところで、パレスチナ側に解決に向けての具体的な動きがあるわけではないという事実は残るわけです(なお力関係の非対称性はハマスを免責しないというこうした論点は、同じ『現代思想』の特集号でバトラーの議論を紹介した二井彬緒「「倫理的なもの」への地図」のほか、『世界』2024年3月号の高橋哲哉「ショアーからナクバへ、世界への責任」でも強調されています)。

 ともあれ、状況が、イスラエル側もそうですがパレスチナ側を見てもあまりにひどいので、これまでの意見がどうあれ、こうして認識が多少とも収斂してこざるをえないということですね。このような収斂を見定めるのも批評または批判の役割のひとつだろうと思います。

コミットメントと中立性

片岡 またこうした収斂は、批評または批判の定義それ自体についても認めることができるかもしれません。最後にそのことを、先ほどから名前を出しているサイードと、それから現代米国の著名な政治学者のマイケル・ウォルツァー、この2人の知識人がジュリアン・バンダをどのように論じているか、という観点から見てみることにします。イスラエル寄りの立場から二国家解決に期待をかけたウォルツァーと、パレスチナ人として一国家解決を唱えたサイードでは、共存に向けての意見が異なっていますが、今はその点に注目したいのではなく、批評または批判をめぐる両者のアプローチを、バンダの扱いに即して比較してみようということです。

 ジュリアン・バンダというのは20世紀前半のフランスの批評家ですが、『知識人の裏切り』(1927年)という著書で有名です。簡単に言うと、彼は知識人を俗世間から超越して高みから判断を下す存在として理解しており、そうした知識人が何らかの特定の党派に与することを、本来の使命への裏切りとみなしている。特定の国民共同体に依拠するナショナリズムにも、特定の階級の側に付く共産主義運動にも反対、ということです。

 ウォルツァーは、日本でも共同体主義(コミュニタリアニズム)の論客として知られていますが、批判の営みの根拠を、何か特定の共同体の価値観に求める立場です。彼はそうした立場から20世紀の社会批判のあり方を問い直した著作、『批判家たちの一団』(1988年、未邦訳)の第1章でバンダを論じ、基本的には自分と対照的な立場の論客として扱っている。しかしウォルツァー自身、特定の共同体の価値観に依拠するからといってその共同体への批判をなしえないとは考えていないのですし、特定集団への熱狂の危険性というバンダの前提は認め、彼との対話を通して自身の批評/批判観を練り上げていると言えます。

 さて、サイードですが、彼は『知識人とは何か』の中で、バンダを高く評価しています。その序文で彼は、自分は時折、みんながあなたのような左派にならなければならないというのがあなたの主張なのか、といったことを言われるのだけれども、そういうつもりではないですよ、実際この本でも、バンダのような保守的な知識人を評価していますよ、などと書いています。

 つまり、いかなる陣営にも与しない中立性というのは、既成秩序の擁護につながる点で保守性を持つわけですけれども、そうはいってもやはり、何らかの集団に与し、党派性へと傾斜することに付きまとう危うさもあるわけです。サイードの場合も、PLOの代弁者のように振る舞う時期もあったにせよ、そうした時期にさえ、そこに完全に入り込んでしまわないというあり方を保っていた。必要な機会に特定の立場を掲げることが重要である一方で、中立性という要請をつねに支配的秩序への賛同を意味すると考えることもできないということです。

三牧 ありがとうございました。わたしはこの対談をするまで、現実に、人間がこれだけ殺されている危機の時代に、言葉がいかに空虚かということを痛感し、もう行動しかないのではないかといった思考になりかけていたのですけれども、本日は、粘り強く、言葉、そして批評の様々な可能性を探ってきた先人たちの営みに立ち返ることで、それでもやはり、むしろ、こうした危機の時代だからこそ、言葉と批評の可能性を諦めてはいけない、そうした可能性を手放さずに、追求し続けることが大事ではないかと、改めてそのように考えることができました。片岡さん、ありがとうございました。

(了)

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