1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 「啓蒙の脱植民地化」はいかに可能か? 片岡大右×三牧聖子対談(前編)

「啓蒙の脱植民地化」はいかに可能か? 片岡大右×三牧聖子対談(前編)

記事:晶文社

(左)片岡大右さん、(右)三牧聖子さん
(左)片岡大右さん、(右)三牧聖子さん

『戦争違法化運動の時代』から『Z世代のアメリカ』へ

三牧 本日は、「危機の時代における批判の役割」ということで、片岡大右さんに同志社にお越しいただいています。片岡さんが出版された『批評と生きること』(晶文社、2023年)について、現代の情勢とも絡めながらお話を深めていきたいと思います。

片岡 みなさんこんにちは。本日はわたしの本をめぐる対談企画にご参加くださりありがとうございます。また、大変なご多忙の中、お相手を引き受けてくださった三牧さんには感謝の言葉もありません。三牧さんの今日におけるご活躍についてはここで申し上げる必要もありませんが、わたし自身は博士論文の成果をまとめた『戦争違法化運動の時代』(名古屋大学出版会、2014年)の頃から注目しておりました。もちろん学界においては高く評価された本ですけれども、政治学者ではないわたしがなぜ注目したかと申しますと、これはわたしが研究対象のひとつとしている加藤周一との関係ということになります。

 加藤は晩年に日本国憲法第9条の擁護に取り組んだことで記憶されておりますけれども、ではこの条文を文字通りに解釈して絶対平和主義を説くのかというとそうではなく、ことあるごとに、戦争が必要な局面の可能性を示唆していた。これは第二次大戦の経緯からして当たり前のことであって、第二次大戦というのは、加藤が関心を寄せていたヨーロッパの文脈で見るならば、第一次大戦後に沸き起こった平和主義の挫折の表現であるわけです。つまりナチズムやファシズムの脅威に対抗するには結局のところ戦争しかない、ということですから。こうしたこと、つまり日本国民が愚かな軍国主義から解放されたのは、他国が戦争を挑んでくれたからこそだ、という認識は、戦後日本に平和主義を掲げた人びとのもとではしばしば都合よく忘れられてしまうのですけれども、加藤はしつこくその点に立ち返っていた。その一方、国際政治の専門家は、両大戦間期の平和主義の挫折というこの論点を当然記憶しているのですけれども、彼らの場合はしばしば、平和主義を非現実的な理想主義としていささか早急に退けてしまう。

 そうしたなかで、三牧さんのこのご研究は、国際連盟から国際連合へと引き継がれた集団安全保障、すなわち武力制裁の理論的枠組みとの緊張関係において、レヴィンソンらの戦争違法化運動の今日的な意義に立ち返り、それでいてこの運動の限界にも目を向けるという実に繊細な議論を展開していて、わたしとしては非常に共感を覚えたわけです。

 事柄の両義性に立ち止まるこうした姿勢は、三牧さんが学問の世界にとどまらずより広く発信するようになってからもずっと保たれていて、昨年刊行された話題作『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書、2023年)でも、一方ではこの新しい世代の台頭に期待をかけながらも、彼らの精神的傾向が一種の危うさを抱えていることにも光を当てている。例えば、若者たちがバラック・オバマ元大統領の穏健な中道政治に対して感じた失望を正当なものとみなしつつ、三牧さんは彼らに向けられたオバマの批判、具体的にはいわゆる「キャンセル・カルチャー」または「コールアウト・カルチャー」によって世の中をほんとうに変えることなどできないだろう、というような話なのですが、こうした批判にも一定の理を認めているわけです。

 ともあれ、Z世代というのは社会批判の世代ですけれども、三牧さんの本は、おおむね彼らに温かい眼差しを注ぎながらも、彼らが体現する批判のあり方それ自体を批判的に検証しているところがありまして、こうした両面的な態度は、今日きわめて貴重であろう、と考えておりますし、わたし自身のこの『批評と生きること』も、そうした作業の一助となればと思って刊行したところはある。「批判」と「批評」というのは、日本語では2つの言葉ですが、英語やフランス語で考えると同じものですからね。そんなわけで、三牧さんと今回こうしてお話できるのは誠に光栄と言うほかありません。

批判という営みの再定義

片岡 わたしの本についてですが、この本は既発表原稿をまとめたものですから、好きなところ、興味のあるところだけを読んでくださっても全然構いません。しかしそれでも、全体をゆるやかに結びつける問いとして、批判または批評をめぐる問いかけがあります。何かを批評、批判するには、その何かのただなかに身を置いているわけにはいかないということで、いわば高みからの視点が必要になる。そしてこの高みからの視点が、現に社会のなかで生きている人びとの生とのあいだに緊張を生じさせてしまう。本書の基本的な姿勢として、このような緊張への自覚と反省があります。つまり批判という営みは重要なものであるけれども、それがしばしば人びとを苛立たせることにも十分な理由がある。まずはそのことを率直に認めたほうがよいというのがわたしの考えです。だからといって、批判なんて要らない、批判の時代は終わった、というわけにはいかないのですが、批判という営みが社会のなかで果たす役割を再考し、再定義する努力は必要だろう、ということです。

 こうした問題意識はもちろん、単にわたしひとりだけのものではありません。例えば、みなさんご存知の米国出身の人類学者、デヴィッド・グレーバーの思想の根幹にあるのも、批判の再定義だと言えます。「オキュパイ・ウォールストリート」の運動との関わりでも知られる彼は、今日における批判の再活性化に最も貢献したひとりでしょう。しかし彼はまさに「オキュパイ」の直後の時期のインタビューで、批判という営みを徹底させていくことへの危惧を表明している。グレーバーはそこで、マルクスの25歳のときの言葉、「存在するすべてに対する容赦ない批判へ」というなかなか勇ましい宣言を引用しているのですが、こうした姿勢を貫くなら、「この世界は間違っている」と思い詰めるような人間になるほかなくなってしまうではないか、と言うのですね。世の中間違っているといっても、そんな世の中でも現に人びとの生は営まれているわけですから、そうした人びとの人生には何の意味も価値もないということでよいのか。

 しかしだからと言ってグレーバーは、批判の時代は終わった、というような主張をしているのではありませんし、マルクス的な批判だけではよくないと言っているだけで、それをまったく否定しているわけではない。簡単に言うと、彼はマルクス的な批判とマルセル・モース的な批判を対比して、その両者のあいだでバランスを取ることを考えていました。モースは現在の社会秩序を単純に転覆するのではなく、そこにある豊かな可能性を探り、それを伸ばしていくかたちで社会を変えていこうという立場だった。これはきわめて魅力的な方向性でありながら、現状肯定につながってしまうところもある。だから両方の視点が必要だ、ということなんですね。ここでは詳しく述べませんが、2つのタイプの批判のあいだの妥協や調停が重要だというこうした発想は、フランスの社会学者リュック・ボルタンスキーのたどり着いた立場でもあって、それについては『批評と生きること』第3部で取り上げていますので、ご関心の向きはぜひともお読みください。

批判、アジア、ポピュラーカルチャー

片岡 さて、今回の企画のタイトルは「危機の時代における批判の役割」となっています。概要では、ウクライナやガザの危機への言及がなされている。しかしこれらの主題について、わたしの本で具体的に論じられているということはありません。広い意味で国際政治の問題と関わっていると言えるのは、ひとつには第4部「アジアと日本をめぐる問い」のなかの一番長い論考、「アジアの複数性をめぐる問い」というもので、そこでは現代中国の「天下」論が取り上げられている。今日における「天下」概念の再活性化という興味深い現象があり、そこにはいわゆる「中華思想」の再来として懸念すべき側面もあるのだけれども、普遍的価値の希求という側面もあるので、両義性において見ていくべきではないか、というようなことが論じられています。

 国際政治との関わりではもうひとつ、第2部における『ゲーム・オブ・スローンズ』論を挙げることができます。21世紀の世界中で最も見られた映像作品のひとつであるこの米国ドラマは、単に大衆的人気を博したのみならず、『フォーリン・アフェアーズ』や『フォーリン・ポリシー』のような国際政治の専門誌でも真剣に受け止められ、米国の大統領選のさなかで注目されるなど、現代政治の重要な参照項となった。そこでは、一方ではマキァヴェッリ流の現実主義が魅力的に描かれながらも、他方では、理想追求の持つ力が強調されてもいる。同じ第2部で論じた日本のマンガ作品、『鬼滅の刃』もそうですが、こうした今日のポピュラーカルチャーの傑作には、真剣な検討に値するだけの豊かさがあるということ、そうした作品はもはや、何かこう、高みに立って一定の価値基準に照らして裁断されるようなものにとどまっておらず、むしろその内在的な知性からわたしたちは大いに学ぶことができるということ、そうしたことを強調するのが、わたしの本の複数ある目論見のひとつだと言うことができます。

『批評と生きること 「十番目のミューズ」の未来』(片岡大右著、晶文社刊)
『批評と生きること 「十番目のミューズ」の未来』(片岡大右著、晶文社刊)

 ともあれ、今回の本ではウクライナやガザの危機が直接扱われてはおりません。しかし、特にパレスチナとイスラエルの問題については、わたしも以前からそれなりの関心を持って見てきましたし、この機会に、本書の問題意識との関係で、論じることができたらと考えています。

西洋的な知のダブルスタンダード

三牧 片岡さん、様々なことを網羅したご発言、ありがとうございました。批評、批判ということを本日のテーマにしていますけれども、本書に通底するテーマは、ラディカルとはどういうことか、ということですね。特に日本語で批判と言う場合、自分が間違っていると思う相手にダメージを与えるような意味合いになると思いますけれども、例えば今のガザ危機であれば、イスラエルという存在を強く、厳しく批判するならば、それがすなわちラディカルなんだ、ということではないのだろうと改めて思いました。ラディカルには、急進的、という意味とともに根源的という意味があります。

 ガザの状況はこれまでも悪化を続けてきましたが、この対談がなされている今は、ガザ地区最南部のラファ――数多くのパレスチナ人が空爆を逃れて集まって来ていたこの地に――イスラエル軍が攻撃を開始するに至った。こうした危機が深まる中で、本日のセミナーを迎えることになりました。国際司法裁判所(ICJ)では、ガザでイスラエルが展開してきた軍事行動は「ジェノサイド」に当たるかどうかが審議されています。正式な法的認定はまだですのでカッコを付ける必要があるでしょうけれども、誰から見ても、それをどう呼ぼうとも、虐殺としか言い表せない出来事が同時中継で、テレビやSNSを通して目撃されつつある。そうした時代にあって、問題を乗り越え、平和に向かうために、批評あるいは批判がどのような役割を果たせるのかということを、今日は考えていきたいと思います。

 片岡さんの本には、「啓蒙の脱植民地化」というグレーバーの言葉が出てきます。今、ガザの危機をどう分析し、批評するかということで様々な人が苦闘しているところですが、そうしたなかで、欧米が生み出してきた知というのは一体何だったのかという根源的な問いかけがなされています。中東諸国、グローバルサウス諸国を中心に、欧米の知への大変な落胆、失望、怒りが生まれている。欧米の知は、イスラエルによる虐殺をなぜとめられないのか、それどころかどうしてそれを正当化し、幇助するのか、と。

 片岡さんが先ほどおっしゃったように、批評、批判というものは今日、高みに立って自分たちをジャッジするもののように受け止められ、必ずしも好まれないようになっています。もちろん、本来の批評とはそれだけのものではなく、生きることそのものに関わっているのだということを、片岡さんは今回の本で書かれているわけですけれども、たしかにそういう、精神を失った批評が、今回の危機のさなかにも溢れかえっている。ガザ危機によって、非西洋諸国を高みに立って批判して、われわれの地域こそが普遍的な価値を担っているのだと言ってきた西洋的な知の行き詰まり、限界があらわになっているのだと言えるかもしれません。西洋のダブルスタンダードに対する怒りが、今の国際政治のなかには渦巻いています。

 わたしは政治を分析している人間ですので、ガザをめぐって高まる非西洋世界の怒りの声をご紹介して、こうした非西洋からの問題提起を片岡さんがどのように分析されるのかをお聞きしていきたいと思います。

「ジェノサイド」を止められない西洋の知

三牧 例えば、マレーシアのアンワル首相は、バイデン米大統領も同席する昨年11月のAPECの首脳会議で、根本的な批判を行いました。ウクライナの戦争も2年目に突入していますが、アンワル首相はガザとウクライナ、2つの戦争を並べて、西洋のダブルスタンダードを指摘したのです。これまで欧米諸国は「法の支配」を掲げて、グローバルサウス諸国に対し、ウクライナにおけるロシアの侵略行動を非難し、制裁に加わるよう求めてきた。それなのに、ハマスとは無関係な市民が無差別に殺され、女性と子どもが犠牲者の7割を占めると言われるガザの危機を前にして、欧米諸国は口をつぐんでいる。白人のキリスト教徒の苦境にはあれほどの同情を寄せ、彼らが被った不正義に憤ったのと同じ欧米が、イスラム教徒の苦境には無関心だ。イスラム教徒は、西洋の正義や同情の対象にはならないのか、という厳しい批判でした。

 片岡さんの本の第4部では、アジアと日本をめぐる大変示唆的な洞察がなされているのですけれども、こうしたアジア諸国の自己主張を前にしたときに、改めて、一体われわれ日本の現状はどうなのだろうか、ということを考えてしまうわけです。

 パレスチナの外交官、ナダ・アブ・タルブッシュが国連で行った鮮やかなスピーチが国際社会に支持と共感を呼んでいます。彼女は、口先ではパレスチナ人の犠牲を憂慮し、イスラエルに軍事行動の自制を促していると称する米国の欺瞞を告発したのです。米国は、ガザでどれほどのパレスチナ人が死のうとも、イスラエルに対する年間38億ドルもの巨額の軍事支援を続け、さらには140億ドル超の追加支援を議会で検討している。米国が送った武器がパレスチナ人を殺している。こうした現実があるのに、口先だけパレスチナ人の命に配慮を示すような欺瞞は許されないと。この厳しい批判には、米国は何も反論ができないでしょう。

 こうしたことは、日本の進路にも関わってきます。

 国際社会ではガザでの軍事行動の開始から1ヶ月も経たないうちに、反戦、停戦の世論は高まっていました。すぐに犠牲者は万単位となり、いかにハマスがやったことが非道であっても、このような市民の犠牲は、ハマスの攻撃への報復や自衛では正当化できない規模だ、という感覚ですね。パレスチナ寄りかイスラエル寄りかという次元の話ではなく、とにかく殺戮をやめろというこうした主張に、圧倒的多数の国が賛成している。

 昨年12月8日の国連安保理で、即時停戦の決議案は米国の拒否権で葬り去られましたが、その後にグテーレス事務総長のイニシアティブで緊急総会が開催され、153カ国が即時停戦に賛成、日本もこれには賛成票を投じました。反対は米国、イスラエルを含め10カ国にとどまりました。しかし国連総会の決議には拘束力がありませんから、国際社会の総意がこうして示されたにもかかわらず、米国という巨大な国に阻まれて、イスラエルの軍事行動を止められずにいる。

 先ほども言及したように、南アフリカの提訴により、ハーグの国際司法裁判所では、イスラエルの軍事行動は「ジェノサイド」の定義に当てはまるかどうかが審議されている。これは歴史的なことです。パレスチナ市民の人権を強く訴えてきたパレスチナ自治区担当の国連特別報告者フランチェスカ・アルバネーゼは、「アフリカの女性たち、男性たちが、多数の西側諸国が支援し、可能ならしめた冷酷な攻撃に対し、人道と国際法を守るために戦う姿は、現代を定義するイメージのひとつであり続けるだろう。どういうことになっても、歴史に残るだろう」と述べています。

 南アフリカが自分ごとのようにパレスチナ問題に尽力する背景には、ネルソン・マンデラが率いた反アパルトヘイト闘争に遡る歴史があります。マンデラは、白人政権によるアパルトヘイト(人種隔離政策)と戦ったわけですが、解放と自由のための闘争は、パレスチナの人々が解放と自由を勝ち取らなければ完成しないと強調していた。自分たちの自由をパレスチナの人々の自由とつなげて理解していたのです。

 「自由」は片岡さんの本でも大きなテーマになっています。ガザ情勢について言えば、「自由」や「人権」を掲げて、非西洋諸国に説教してきた西側諸国が、「ジェノサイド」の懸念も強まるイスラエルの軍事行動に肩入れしている。その一方、グローバルサウス諸国は、マンデラから現在のパレスチナへと連なる「自由」「人権」のための闘争を続けている。今起きていることを「ジェノサイド」と呼ぶべきかどうかについては論争がありますが、どのような言葉で呼ぼうとも、「世界で同時中継されている」虐殺を、わたしたちはたしかに目にしていながら止めることができずにいる。この事実、ガザをめぐる西洋・非西洋の関係を踏まえて、「自由」をはじめ、「西洋の知」の問題を考えなおさなければならないというのが今日の状況ではないでしょうか。

西洋思想は一枚岩のものではない

片岡 三牧さんは様々な媒体でご活躍ですが、特に朝日新聞のウェブサイトのコメンテーターとして、新聞記事にコメントを付け加えるお仕事をされています。朝日のガザ関連の記事を見ると、その下にもう一本、三牧さんによる記事が続いていると思えるような、大変精力的な活動をなさっている。今日もこの問題についてまとめていただきましたが、わたしとしてはそれを受けて、グレーバーの関連する議論を紹介したいと思います。

 欧米のダブルスタンダードが問われているのは当然のことですけれども、その場合に、しばしば人々が囚われがちな誘惑があります。それは、西洋の思想というものを何か一枚岩をなすもののようにみなして、単純にその全否定に向かうという誘惑です。先ほど三牧さんは「啓蒙の脱植民地化」というグレーバーの言葉に言及されましたが、こうした取り組みに際しては、18世紀の啓蒙思想以後の近代社会構築のプロセスをすべて否定してしまう、批判的検証というよりも、単純明快にすべて否定してしまうという誘惑があるわけです。
 
 実のところ、わたしが以前翻訳したグレーバーの短い本、『民主主義の非西洋起源について』(片岡大右訳、以文社、2020年)には、まさにこうした、ラディカルなようでいてむしろ単純な西洋批判に反対して書かれた本だという一面があります。この本でグレーバーは、民主主義は別に西洋独自のものではなく、その外に目を向けるなら、古代ギリシア以前からそのような実践はいくらでも見出すことができると説いている。そうなのですが、彼はその一方で、ある種のラディカル派の西洋批判、啓蒙思想以後の西洋近代をシステマティックに否定するような見方を繰り返し退けている。

 あの本の元になった論文の執筆モチーフのひとつは、21世紀初頭の執筆当時、世界的注目を集めていたメキシコの先住民運動、チアパス州のサパティスタの運動の意義を論じてみたい、というものでした。グレーバーによれば、伝統文化に依拠して西洋由来の価値観に反対するという従来の先住民運動のあり方と一線を画している点にこそ、サパティスタの画期性はある。他の先住民運動と異なり、サパティスタは西洋由来の「民主主義」という言葉を平然と掲げることができた。それはすなわち、西洋的な知を一枚岩のものとみなさず、そこによいものがあれば率直に受け入れる姿勢の現れだ、ということなんですね。

アイデンティティ・ポリティクスの両義性

片岡 実際、西洋からもたらされたものに多くの問題があったからといって、ではマヤの先住民文化が全面的に素晴らしいものだったのかというと、そうではないわけです。ですから、グレーバーによると、サパティスタの運動は、何か特定の文化伝統にアイデンティティの拠りどころを求めるものではなく、そこにこそこの運動の意義があったのだ、ということになります。

 重要なのは、特定のアイデンティティに依拠するのではなくて、文化と文化の間に身を置き、そうした間の空間で考え、行動することだ。グレーバーは初期からずっとこうした意見でして、だから彼は『民主主義の非西洋起源について』のなかではっきりと、「アイデンティティ・ポリティクス」への批判を打ち出しています。

 アイデンティティ・ポリティクスというのは、今日においても盛んに議論されるキーワードというか、深刻な政治的争点となっているだけに、なかなか論評が難しい。わたしとしては、アイデンティティをめぐる闘争に何の意味もないとは思っていないのですけれども、しかし少なくとも、それが結果として、文化や価値をめぐる人々の想像力をかなり単純なものにしかねないという、グレーバーが指摘するような問題をはらんでいることは事実でしょう。

 その意味で、イスラエルのガザ侵攻とそれを曖昧に支持している欧米諸国の姿勢を前にして、西洋的な知のあり方が改めて問題化されるのは大いにもっともなことだと思う一方で、議論の過度な単純化には警戒を怠るべきではないだろうとも考えています。

エドワード・サイードと共存への展望

片岡 批評または批判のあり方について、今日のパレスチナとイスラエルの問題との関係で議論するために、ここで『批評と生きること』ではまったく言及していない名前、エドワード・サイードの名前を取り上げてみたいと思います。米国のコロンビア大学で長く教鞭をとり、特に著書『オリエンタリズム』(今沢紀子訳、板垣雄三・杉田英明監修、平凡社ライブラリー、1993年)によって有名な研究者・批評家のサイードですが、エルサレム生まれのパレスチナ人として、イスラエルのパレスチナ占領についての果敢な発言でも知られています。

 しかしサイードは、グレーバーと同様、特定のアイデンティティへの帰属を重視せず、鋭い西洋批判の一方で、西洋の文化伝統の少なくとも一面への敬意をつねに示していました。実際、『オリエンタリズム』それ自体を読んでもわかることですが、彼の仕事のベースにあるのはヨーロッパの人文学の伝統です。また彼は、パレスチナ問題について最も盛んに発言していた時期にも、文学や音楽をめぐる批評活動を続けていたのですし、1993年のオスロ合意の2国家共存案に反対し、この国際的な主流路線に逆らう一国家解決を唱えるようになってからは、白血病との闘病の傍ら、時代とのズレを強調する文化批評の書、『晩年のスタイル』(大橋洋一訳、岩波書店、2007年)のような著作に取り組んだ。

 時代の流れに失望しながらも、彼は現実への介入をやめたわけではありません。しかしそれは、イスラエルの有名なピアニスト・指揮者ダニエル・バレンボイムとともに創設した「ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団」のようなかたちを取るようになった。ゲーテ『西東詩集』にちなみ、イスラエルとアラブ諸国の音楽家たちからなるこのオーケストラの活動を通して、共存の道への文化的な貢献を果たそうというわけです。

 先ほど三牧さんが強調されたように、目下の問題はもはやパレスチナ寄りかイスラエル寄りかという違いを超えて、どのような解決を目指すにせよまずは進行中の虐殺を止めなければならないというところにある。パレスチナ側、とりわけハマスに何の問題もないなどということはまったくないわけですけれども、それでもやはり、現在最も非難に値するのがイスラエルの軍事行動であるのは間違いありません。そのことを米国を含めた国際社会がはっきり認める必要があるのは当然です。

 しかしその一方、やはりなんらかのかたちで共存を実現しなければなりませんし、そのためには、ただちには無理だとしても相互理解への道を模索しなければならないでしょう。イスラエルの軍事行動は大いに問題であり、その背景にある入植者国家としての歴史自体を問いなおしていく必要はたしかにあるのですが、しかしだからといって、パレスチナ側がユダヤ人による入植には正当性がないのだからみんな出ていくべきだといった主張に流れるなら、これはもうどうしようもないということがあります。

 ですから、世界で同時中継されている惨劇が止む気配もない時に相互理解を唱えるのは虚しくもあり、また力関係がまったく非対称的であるのに両当事者を対等なアクターのように語ることの問題性も考えなければなりませんけれども、それにもかかわらず、長期的には、といってもできる限り早期に、共存への展望を再構築する必要がある。すぐに仲良くするのはもはや無理でしょうが、それでも共存しなければならないのですから、なんとか努力しなければなりません。

(後編につづく)

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ