春の記憶――『連帯の政治社会学』訳者覚え書き
記事:明石書店
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著者ベアタ・ボホロディッチが本書で描き出した反原発運動の「エコシステム」を構成した諸活動の多くは、このシステムに何らかのかたちで部分的に関与した数多くの人々にとっても未知のものであり、10余年の時を経て各々が参加し、活動した経験を大きな枠組みのなかで位置づけるものになっている。本書で描かれる市民社会諸領域の活動については、震災直後から2013年頃にかけて反原発運動に参加した訳者らにとっても未知、未体験のものが数多くあり、本書の翻訳作業は断片的経験を運動の全体像のなかに改めて位置づけ直しながら進められた。
そして訳者らのささやかな活動も、著者が描いた全体像のなかで再構成された。本書の訳者のひとりである僕は、2011年4月から高円寺の反原発運動に参加し、その後首相官邸前抗議などでの集会の際、主にデモの警察対応の任を務めていくことになる。著者は訳者らの活動も調査対象とし、調査対象である訳者らが著者の業績を翻訳したというわけだ。
東日本大震災を契機に、日本でもSNSが急速に普及した。歴史上、かくも膨大な数のデモや社会運動の映像や言説がネット上にあふれかえったことはなかった。他方で出版、編集文化は著しく衰退した。それらが編集され系統的に論述されることなく、ただ積み上げられていくこともなかった。こうした情報過剰のなかで著者が俯瞰的な視点からこの運動を捉えることができたのは、ナショナルな文脈の外側からアプローチしたからかもしれない。本書において著者は大勢の運動参加者にインタビューをしており、運動に対する辛辣な評価を含む率直な意見を引き出している。
著者が論じるように、3.11以後の反原発運動は、2010年代に展開する日本の社会運動の形式とパターンを確立した。2010年代には、2015年の安保法制反対運動のような大規模結集型の運動だけではなく、ジェンダーや反レイシズムを課題に掲げる新しいタイプの社会運動も叢生した。これらの運動はSNSを駆使することで少数派の主張に力を持たせることに成功した。だが運動の多様化は同時に細分化ももたらす。「原発やめろ」だけを一致点に多数を結集するという運動スタイルは、時を経るごとに性質が変わっていったと思われる。
著者は3.11以後の反原発運動を「オールド系」「フリーター系」「エコ系」と3つに分類する。この分類は大枠では間違ってはいないが、3.11以前から存在していたこれらの運動の担い手が、そのまま3.11後の反原発運動を担ったわけではない。東日本大震災と原発事故の衝撃がもたらした危機感と当事者感覚の広がりを、既存の運動体は受け止め切れず、運動空間に分類不可能な新規参入者が流れ込む広大な余地を生み出していたからだ。
2000年代後半、僕は著者が分類する「フリーター系」のデモで警察対応をしていた。当時僕は東京の大学の非常勤講師と、病院の救急外来の事務員であった。震災の揺れがあったときは大学の研究棟の外におり、一瞬「めまいかな」と感じたが、それほど大した事態だとは感じていなかった。
研究室に戻っても本棚はほぼ無事。当日の午後6時から救急外来の夜勤だったので心配になり、少し早めに病院に向かった。病院の壁にはヒビが入り、全員出勤の命令をだそうにも連絡がとれない人が多数おり、とにかく救急の患者対応と、在宅医療の患者さんの無事を確認する作業で大騒ぎになっていた。仕事の合間にインターネットとテレビで事態の推移は追っていたものの、まさか原発がメルトダウンするとは思ってもいなかった。翌朝帰宅して仮眠し、起きてテレビをつけたときに、福島原発1号機の爆発が目に飛び込んできた。その時人生で初めて死の恐怖を感じた。そこから数日間、仕事に忙殺された。機会があれば避難した方がいいとは思っていて、勤務のシフトの合間を縫い、予定されていたイベントの出演も断って、1週間ほど妻が暮らしていた大阪に避難した。
東京に戻る新幹線の車中で、関東の浄水場から放射性物質が検出されたというニュースが流れてきた。これから東京に戻って、何らかの社会運動をやろうなどという気持ちは微塵もわかなかった。この未曽有の状況で行動することへの想像力がまったく働かなかったからだ。ただただ、目的もなく誰か人と会って話す機会を求めていた。計画停電の日には大学院の後輩と居酒屋に行き、暗がりのなかで見知らぬ客や店主と蝋燭の灯をたよりに酒を酌み交わしながら「これからどうなるんだろう」と漫然と時を過ごしたり、始めたばかりのフェイスブックの発信をひたすら眺めていたりしていた。
4月3日、石原慎太郎都知事(当時)による自粛要請に抗議した「反原発花見大会」が新宿中央公園で開催された。文化人が主催したものだが、テーマもスローガンもないこの場には300人以上が参加した。僕も参加し、隣に座っていた高校生と話していると、次々と見知らぬ人が声をかけてくる。そうした会話のサークルが会場の各所で生まれ、不安を抱えるわれわれに安心感を与える場になっていた。僕はこの雑然とした「花見大会」、あるいは当時無数に存在した不安や想いを共有したい人々の集いこそが、この後展開していく反原発運動の原初形態であったと思う。
この年の2月、高円寺の居酒屋でエジプト革命のタハリール広場の映像を上映するイベントがあった。ムバラク大統領が辞任表明した瞬間の広場を埋め尽くした人々の歓喜の映像を観ながら、デモの持つ求心力を改めて実感していた。そしてこのイベントに参加していた人たちの多くが、高円寺のデモを企画していくことになる。
3月末の高円寺素人の乱12号店で行われたデモ準備会議には、見知らぬ顔もたくさん集まっていた。喧々囂々、各自、原発への怒りや憤懣を自由に語り、福島への支援の話を真剣に語る、事故後半月あまり溜め込んでいた想いをみんなで吐き出す場であった。であるからデモに向けた役割分担を決めるわけでもなく、ただただトークをするだけで時間が過ぎていった。僕を会議に誘ったデモ慣れした編集者からすればまさに「素人」で、これじゃあかたちにならないと呆れられていたのを覚えている。
4月10日の午後に高円寺の公園でデモが行われることは決まり、SNSで情報が拡散された。僕はフェイスブックで情報を拡散し、とりあえず一参加者として高円寺に中央線で向かい、駅を降りた。すると駅前で会議参加者のひとりに「警察対応をやってくれ」といきなり腕章を渡され、デモコースも知らないのにいきなり警備責任者にされてしまった。
警察に提出したデモ申請では、参加者は500人としていた。腕章をつけて坂を下ると、すでに公園は参加者であふれかえり、なかに入ることすらできなかった。公園の外ではコスプレしてスピーチをする輩もいれば、その場その場で会話している人たちの集いも生まれており、公園内で誰かがスピーチをしているのを誰も聞いていなかった。
無秩序にみえるこの状態のなか、デモの出発のための先頭隊列を僕がつくらなければならなくなった。しかしすでにまとまりはできており、隊列の先頭に立っていたのは数人の10代と思われる女子学生たちだった。警備責任者であるにもかかわらずデモコースを知らない僕が、彼女らに「とにかく前に向かって歩いてね」と告げると、彼女らは臆することなく何度もうなずいていた。自発的に秩序がつくられていくデモ参加者たちの様子をみて、これは大丈夫だという信頼感が心に生まれていた。
出発していくデモには「秩序なき秩序」があった。デモ申請の10倍以上の参加者が集まったため、警備の警察官の数は絶対的に不足していた。スタッフもいないなか、混乱もトラブルもなくデモ隊は進んでいった。デモ出発時の人数はせいぜい数千人である。だが途中からたくさんの人が加わることでデモ行進は大きく膨れ上がっていた。
このように4月10日の高円寺の「原発やめる‼デモ」は、初めから終わりまで企画者の見通しとは無関係に、というか大半の参加者はそもそも誰が企画者かも知らないままに進んだ。SNSでこのデモを知った人、友達と連れ立って参加した人、たったひとりで参加した人と参加の仕方はいろいろだろうが、その場で初めて出会った人に声をかけ、お互いに配慮しながら、一切の仕切りもないままに自生的に秩序をつくりあげた。僕自身を含むデモの経験者と、初めてのデモ参加者の差異は限りなく小さくなり、デモを仕切る側、仕切られる側という関係性は消滅していた。3.11後の危機的状況のなかで社会関係が激しく揺らぐ一方で、不安や怒りだけが共通の想いとして連鎖していた。
このような叙述に対しては「いささかユートピア的である」という指摘を受けるかもしれない。だが、この後デモが無数に行われていくなかで、時を経てもこの4月10日の「原発やめろ‼デモ」の体験がナラティブとして語り継がれていることは指摘しておきたい。
この高円寺のデモは、この後に展開していく反原発デモのモジュールのひとつになった。ただしそれは、官邸前抗議や国会前抗議といった大規模結集型のデモというよりもむしろ、全国に広がっていくローカルなデモのモジュールである。4月以降、デモは全国に広がり始め、震災以降2年半のうちにすべての都道府県で少なくとも1度は反原発デモが行われている。匿名性の高い大規模結集型デモとは異なり、地域デモは匿名性が低く、実は参加するハードルは高い。反原発運動の地域デモを担った多くは既成の市民運動のネットワークだろう。しかしそのネットワークが息を吹き返したのは、つながりと場を求める新規参加者の意欲があったからだ。デモ経験者がデモ申請などの実務を担い、新たな参加者たちが創意工夫に溢れた新たな表現手段を持ち込む。本書で著者が強調している古い運動と新しい運動の連続性と革新性にはこのようなものも含まれる。
僕もいくつかの地域デモに警察対応のために参加している。その場にいる人すべてが参加者とも言える官邸前抗議や国会前抗議とは異なり、地域デモは沿道の一般市民にさらされることで世の中の反応に直接触れる。当時、僕は東京都国立市に住んでいた。国立駅からのびる富士見通りをデモ行進していると、沿道に並ぶオープンカフェのなかにいる客が一斉にデモ隊に目を向け、少し腰を浮かしている人、囁き合っている人たちの様子がみえた。旭通りにある通いの理髪店の前を通ると、2階にある店の窓から店員さんたちが総出でデモを見学しながら手を振っているのがみえた。大げさな言い方かもしれないが、街自体がデモと一緒に歩いているような感覚すら抱いた。こうした実感を、数多くの地域デモ参加者は多かれ少なかれ抱いただろう。そしてこうした手ごたえが地域のデモを経験するなかで培われていたからこそ、官邸前や国会前の抗議活動の広がりが生まれたのである。当時ラジオを聞いていると、交通情報でデモ情報が流され、深夜のラジオニュースではデモの予告がなされることもあった。デモ参加者だけではなく、デモに眼差しを向ける人たちが地域のなかにも、メディアのなかにも、官僚組織のなかにもいることが薄っすらと伝わってきた。
3.11以後地域デモに参加したわれわれの経験は、時代を超えてひとつの精神に結実する。1970年代初頭に、東京都練馬区大泉の市民たちと共にベトナム戦争に反対するデモに参加していたロシア史研究者和田春樹は、区内の高校生たちのデモをやりたいとの要求に困り果てた石神井警察署から相談を受け、高校生たちのデモ申請を代行し、デモの先頭を歩いた。和田は「真剣にものを考える人間はデモをしなければならない、というのが時代精神だった」と回顧している(和田 2023、62頁)。われわれもまた真剣に考え、行動することで時代の精神をつくりあげたのである。
いつの時代の社会運動も、原初に抱かれた願いや動機は、その後、度重なる運動内の紛争のなかで埋もれてしまいがちである。だが原初に抱かれた経験の裡の最奥には時代を超えた普遍的な共通の精神がある。そしてわれわれはこのデモに参加したことではじめて、われわれが体験してこなかった過去の運動を活き活きとしたものとして再び発見し、そこに共通の経験と教訓を見出すことができるようになった。同じように2010年代初頭のわれわれの運動経験もまた、いつの日か新たな時代精神が培われるときに顧みられることになる。だからこそわれわれはこの経験をこれからも記録していかなければならないのである。本書でベアタ・ボホロディッチが描き出した反原発運動の見取り図には無限の空白がある。読者のみなさんが自らの体験を振り返り、この空白を埋めていくという終わりなき作業に加わることが、著者そして訳者の願いである。
[参考文献]
和田春樹『回想 市民運動の時代と歴史家 1967-1980』2023年、作品社。