鉄火地獄(前半) ──沖縄タイムス社編『沖縄戦記 鉄の暴風』より
記事:筑摩書房

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1
飛行機の爆音はするが、空は低く垂れ、機影は深い雲層に閉ざされたまま視界に入らなかった。
志多伯の壕を二十七日暁に出た沖縄新報社の一行は、同日夕刻、破壊の跡も荒々しい、高嶺村に入る製糖工場前の泥濘地帯を過ぎると、激流の音がする。艦砲は未だ活動をはじめず、はるかに遠い山々を越した空の彼方でそれらしい鈍い轟音がするだけであった。
数日来の雨で激流となった与座川には、丘陵の壕から降りてきた水汲みの人々がたかっていた。吞気に体を洗っている住民や、兵隊の姿さえみうけた。焼け爛れた立木、民家の残骸と赤い石垣は、既に艦砲や爆撃がこの土地にも酷く荒れ狂った証拠だが、前面の森は奇麗な緑を輝かせていた。林はしっとりと朝の空気に溶け、凄惨なものを見つづけた一行の瞳に奇異な風景となって映った。高嶺村字与座部落だった。
それが束の間の安心であり、静寂であることは一行にとっては或る種の予感で良くわかっていた。
突然ビリビリと空気を貫いて飛んでくるかと思うと、大地を突き上げるような炸裂音。一発は数発を呼び、やがて丘陵を叩き廻り、田圃を抉って横切り、通り魔のように空気をどやし、火を叩きつづける狂瀾怒濤となり、静寂は一瞬にして怒号と化すのだ。山羊ののどかな啼声が、その押しつまった雷管のような息苦しい空気を恐れるように、漂う。
「早く壕を見付けて這入らぬと危いぞ」予感が一同をジリジリと押し包んでいる。身内をカッとなって走り廻る焦燥感。
一行が幾手にも別れて壕探しに丘陵地帯をよじのぼり始めた頃、まさに第一弾が炸裂した。
壕探しから帰ってきた皆の報告は、結局一行全部がはいることのできる壕が、一つも見つからぬという絶望的な結果に終った。「しかたがない、分散して先住者のいる壕の片隅を無理に貸してもらうばかりだ」――
丘陵の壕は墓を改装したもので、多人数がはいれるような壕や洞窟は一つもない。
二、三人宛別れわかれにやっと皆が墓の壕に這入った頃は、予感の通り激しい砲弾が、夜の幕と競って与座部落一帯を押し包んでいた。
「これから食糧をどうする」――飢餓を前にして、生きようとする本能は、各自の心中に既に醜い幻想を湧かせていた。
斜面には糸満警察署や、那覇憲兵分隊の壕が隣り合わせてあり、ちょっと離れた処には、終日終夜ガラガラと虚無的な音を立てる手廻し発電機一台を抱えた海軍通信隊の壕があった。その他は殆ど避難住民の壕で占め、斜面の尽きるあたりいくつもの壕には顔見知りの知名士達がその家族とともに鼻をつままれてもわからない暗闇の中に起居していた。
2
この一帯南部戦線は早くも飢餓を呼んでいた。斜面の住民の壕には、毎日、戦線を脱してきたと称する下士官や兵隊の群れが群がった。彼らは傷つき、食糧を持っていなかった。
米軍が上陸する前、那覇埠頭に山と積まれた弾薬に混じって住民を吃驚させたあの軍需品、わけても糧秣の山は何処へ消えたのだろう。「これだけあれば、全防衛軍の一年半の生命をささえることができる」といわれた厖大な糧秣は、軍司令部に属する、球部隊の手で管理されていた。
糧秣衣服雑貨を含む軍需資材の山は、米軍の上陸前、各地域に分散して爆撃による喪失を避けようとした。兵隊から貨物廠と呼ばれた本部は津嘉山に置かれ、他に与儀、国場、南風原、長堂、津嘉山の五カ所に別れて集積所が置かれた。森蔭や谷間に、点々とシートに蔽われた物資の山は、木の枝や草で擬装され、一集積毎に約五百近い山が、品物別に分散されてあった。首里台地周辺を守る各部隊は、文字通り弾雨を冒して糧秣を受けに行かねばならず、首里、与那原、南風原方面の陣地からは南風原集積所に、那覇方面の部隊は与儀に、真和志、首里の部隊は国場に、といった糧秣受領は、初め、各部隊とも未だ健全なトラック数台を使用して糧秣を運んだが、戦争が激化してからは、各部隊とも車輛を廃し、兵員四十人乃至五十人を繰り出して人間の肩が車輛代りとなって、重い糧秣を運ぶようになった。
四月も半ば過ぎた頃からは、糧秣を受けに来る兵隊は、「もう前線にはカンパンと手榴弾しか要らぬ」というようになり、各集積所でも物資の山を狙う米機のためにカンパンだけを壕に確保するだけが関の山で、他の集積所の山はロケット砲弾や、艦砲のために、一日々々と潰されていった。糧秣受けとりは昼間はまったく不可能で、夜間のみに限られ、時たま、トラックを持ってきても、目的地に着くまでには大抵は迫撃砲のえじきとなった。
四月下旬頃真地出張所に、繁多川方面の部隊から朝鮮人の軍夫約七十人が、おりからの弾雨を冒して糧秣を受けにきたがやがて数発の迫撃砲が受取作業中の彼らの真中に落下したため、附近は勿ち死の呻吟をつづける地獄と化してしまい、日本兵下士官の怒鳴るのもきかず、軍夫達は糧秣を受取らずに散りぢりに逃げてしまった。
五月の中旬、各部隊の糧秣受領はバッタリ絶えた。満足な物資を持たぬ与儀、南風原両集積所は、自分の食糧確保にきゅうきゅうとする有様になり、経理部長の大佐は、ついに貨物廠員(津嘉山)の後退命令を発し、各貨物廠では退去前に、何れも残余の物資を自分の手で焼き払い、五月二十六日、具志頭村字安里に後退を開始した。
その後、安里に集結した兵力は石嶺に移動することとなり、戦闘隊の残存兵力と合した総数約二百人の急編部隊が、梶尾少佐の指揮で、安里を出発したが、目的地石嶺附近に着く頃は、首里を突破した米軍が国場附近に侵入したため、急霰の襲いかかるような敵の自動小銃を浴びて、全滅した。かくして、救護隊、戦闘隊に分かれた、糧秣廠員は、米須附近、或いは、安里附近で全滅又は解散となり、全防衛軍の命の綱と頼む、糧秣補給源は五月半ばにして絶たれてしまった。
高嶺村、与座の住民壕では、部隊を喪い、前線を彷徨する兵隊を心から歓待した。住民の食糧にありついた兵隊は、「敵の戦車を屠り敵兵をやっつけた」と住民を狂喜させた。だがその好意になれた兵隊は、しだいに謙譲さを失い、威丈高に住民の食糧を要求した。
糸満警察署の壕では、玄米を搗く臼の音が絶えていた。憲兵隊の壕では、隊員が車座に坐り、分隊長らしい者が手榴弾の使用法を説明していた。
二十八日夜半。司令部軍医部長の佐藤中佐、嘉数軍医が、牧港記者のいる糸満署の壕にはいってきて休息した。両名は摩文仁へ向う途中であった。芭蕉布で造った住民の着物を着けモンペを穿いた山本憲兵隊長が、ひょっこり現われた。そして「この壕は安全かな」と隊員に訊いたが、間もなく、気の抜けた彼の姿は、斜面を下って、何処へともなく消えた。――
いつの間に据えたのか斜面の下の畑には日本軍の臼砲が一発火を吹いた。甘藷(サツマイモのこと)のつるで擬装されたその陣地は、発射の時に棚引く煙でそれとなく在りかが解った。十数分おきに射つ発射音は単音だけに前面の丘陵に当ってははねかえってきた。数発目には、米戦闘機が、その上を低く飛んで陣地を捜しまわった。臼砲は十発も射ったかと思うと他へ移動した。
その夜から海軍陸戦隊員が斜面に溢れた。小禄に陣取っていた、大田海軍少将の率いる兵隊で、「急遽南地域へ移動」するところだった。彼らは五十の坂に手の届く老人が多く、武器を持たぬ代りに海軍用のビスケットを背負袋に一杯詰めていた。一時止んでいた雨が豪雨となり、艦砲の炸裂する音に混って大地を叩く雨の音が壕を包んだ。雨の中を負傷兵の唸る声が断続して壕の中まできこえた。「軍医殿早く治療して下さい」と繰り返して、患者は雨の中で絶叫した。軍医一人と看護婦二、三人で固めた隣りの野戦病院の壕は、狭いため患者は壕外に担架の上に横たわったまま放ったらかされていた。繃帯も、薬品もなく、腕をもがれた重傷者にも赤色のマーキロを塗るのが、治療の全部であった。――牧港記者は壕の中で、いまかいまかとその声の絶えるのを待った。雨の中に患者の叫声は暁まで続いた。朝、病院の壕で手榴弾の炸裂する音がきこえた。担架に寝かされたままの重傷患者が、手榴弾で自殺をはかったが、当の本人は微傷も負わず、隣りに寝ていた軽傷の患者が死んだ。
二十九日の夜。与座附近の山兵団司令部では、同部隊参謀杉森少佐を中心に軍民協議会が開かれた。民側からは、島田知事、荒井警察部長、仲宗根官房主事、佐藤特高課長、各警察署長らが参加、協議の結果は警察部は警察警備隊を一段と強化し、附近戦線の陣地に弾薬の運搬指揮に従いつつ、小禄、豊見城、具志頭各村以南の住民を知念半島に誘導するということも決定された。弾薬運搬には、主として住民男子で組織した義勇隊員が従うことになった。
「当村を即刻立ち退け」という軍の命令は、戦線をさ迷う住民にとって背から銃を擬せられるようなものだった。「今からここを立ち退いて、どうするんだ。……何処へいったって同じことじゃないか」住民は、立ち退きに散々こり抜いていた。各住民壕には、誰に向っていっていいやら解らぬ、不安と怨嗟の唸り声がみちていた。ともかく非戦闘員は、「知念半島へ行け」という強制命令に従って疑心暗鬼のままに移動を開始した。
3
その知念半島――。
三月二十三日艦砲射撃開始とともに、知念村役場は、同地守備隊の井上部隊の壕に合した。村長は、井上部隊長の命令で村内の兵員補充、食糧補給の任務を負わされたからである。
軍隊に直接協力できぬ村民は、三月中に部隊壕附近の山手に退避し、四月上旬からは佐敷台上にぞくぞく移動を開始していた。村民の男子で組織された防衛隊は、台上の部隊に対して、リレー式の糧秣運搬に従った。
米軍が未だ上陸しなかった三月中旬頃、この村では、自国の軍隊の手によって、三人の犠牲者が血祭りにあげられた。三人とも部隊長の怒りをかい、村民への見せしめと称するきつい命令で、殺戮が行われたのである。村民の与那城伊清は、部隊とのある公けの席上で、日本軍の高射砲の命中率が悪いのは、一体どうした訳かと反問したためであった。前城常昂は、部隊に納めた、薪代を請求したため、村会議員、大城重政は部隊の兵隊が無断で、村民の家畜を運び去るのを、強談判したため、何れも射殺された。部隊長がいう極刑の罪名は「スパイの疑いあり」であった。
五月五日。中城湾を埋める米艦隊の砲撃をまともに浴びた井上部隊の陣地は一たまりもなく潰滅し、防衛隊員を含む、守備隊は食糧弾薬を使い果し、同日夜、潰走を始めた。その多くは南部喜屋武方面に向った。防衛隊員大城盛徳外五人は十七日の深夜、命とたのむ食糧の芋を携行、海岸へ必死の脱出を試みたが、海上に屯する米小艦艇から射つ機関砲の火箭に囲まれて立往生した。やっと野芒の群生を遮蔽物としてわずかに身を匿し、火箭の注ぎ止むのを待った。その時突然空気を裂いて落下した迫撃砲のため彼は左手を負傷したが、再度、海岸に下るべく山中をさ迷う中に、又も迫撃砲の集中を浴びてしまった。糸数部落方面から飛んでくる火の熱塊は、地上砲火が艦砲と協力していることを物語っていた。やっと海岸の砂を踏んだ彼の目には、波間に伏せている兵隊や、砂浜に転がっている夥しい死体が映った。十八日港川にやっと辿りついた。その時は一行三人、到底陸路を逃げることは難しいと直感して、彼らは海中に投じた。奥武、新原崎と海上約六キロを目茶苦茶に泳いだ三人が、精根つきてはい上った海岸は、百名部落の断崖下の海岸であった。間もなく彼らは海岸まうえにある、一軒の民家の閉された戸を叩いた。初め救いを求める彼らの声に、屋内では黙っていたが、裸の防衛隊員と認めたので手厚く介抱してくれた。玉城村百名部落には既に米軍野戦病院が置かれてあり、住民は早くも米軍の保護下に新生活の第一歩を踏み出していた。
(※「鉄火地獄」後半は6/18更新の記事にてお届けします)
ちくま学芸文庫版『鉄の暴風』まえがき
重版に際して
まえがき
ひめゆり塔の歌
第一章 嵐の前夜
一、揺らぐ常夏の島
二、十・十空襲
三、死の道連れ
四、逃避者
第二章 悲劇の離島
一、集団自決
二、運命の刳舟
第三章 中・南部戦線
一、米軍上陸
二、北・中飛行場の潰滅
三、神山島斬込み
四、軍司令部の壕
五、南へ南へ
六、鉄火地獄
七、伊敷・轟の壕
八、月下の投降
九、防召兵の話
十、牛島・長の最期
十一、出て来い
第四章 姫百合之塔
一、女学生従軍
二、南風原陸軍病院
三、泥濘の道
第五章 死の彷徨
一、第三外科の最期
二、運命甘受
三、女学生の手記
四、草生す屍
五、壕の精
六、平和への希求(姫百合之塔由来記)
第六章 北山の悲風
一、北へ北へ
二、山岳戦
三、真部・八重潰ゆ
四、国頭分院の最期
五、さ迷う兵隊
六、護郷隊
七、敗残
八、武士道よさらば
第七章 住民の手記――板良敷朝基記
一、山
二、飢餓
附録 戦闘経過概要
沖縄戦日誌
日米損害比較
沖縄戦線要図
第1図 沖縄全島図
第2図 南部戦線(慶良間列島を含む)
第3図 中部戦線
第4図 北部戦線
あとがき
二十年後のあとがき
三十年後のあとがき
五十年後のあとがき
解説 新聞人が遺した警鐘を、いま再び打ち鳴らす――戦後八〇年を目前に(石原昌家)