地震から考えた民主主義、そして柳田国男:私の謎 柄谷行人回想録㉘
記事:じんぶん堂企画室

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――2011年3月11日、東日本大震災が起きました。さらに東京電力福島第一原子力発電所で事故が起き、日本社会は大きな混乱に陥ります。柄谷さんは反原発デモに参加され、デモの意義を説いて話題になりました。
柄谷 その頃、偶然地震のことを考えていたんです。2010年の末に、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』を読んだことがきっかけでした。
《『災害ユートピア』は、米サンフランシスコ在住のノンフィクション作家レベッカ・ソルニットによるノンフィクション。1989年にカリフォルニア州で起きた地震で被災した経験をもとに、1906年のサンフランシスコ地震から2005年に起きたニューオーリンズのハリケーン被害までを取材。災害時には暴動や略奪が起きるという一般的なイメージとは異なり、実際には人々が思いやりを示してユートピア的な状況が生じることを指摘した》
――すごい偶然ですよね。地震発生の1カ月前、2011年2月に朝日新聞で書評を書かれました。
柄谷 この本を読んで、1995年の阪神淡路大震災を思い出した。この地震には、ソルニットも言及していますしね。
――阪神淡路大震災では尼崎のご実家も被災されたんですよね。
柄谷 実家は一部が壊れたけど、母親は無事だった。親類も全員無事でした。僕は東京から駆けつけようとしたんだけど、電車も止まっているような状態だったから、結局行けたのは1週間くらい後でした。
当時、おいの山田広昭(フランス文学者)が神戸大学に勤めていたから、一緒に尼崎から三宮まで歩いていったんですよ。彼は、その後東大に移って数年前に定年退職しましたが。神戸に近づくにつれて、見渡す限りのがれきの山になって、すごい風景だから記録しておこうと思って写真を撮り始めたけど、きりがないからすぐにやめました。爆撃で破壊された戦後の街を思い出すような光景だったことが、印象に残っています。
――幼い頃に見た街の記憶と重なったわけですね。
柄谷 年長の人の多くがそう思ったんじゃないですか。
阪神大震災では、被災地での助け合いや、全国各地から多くのボランティアが駆けつけたことが話題になりました。一番に到着したのは山口組のボランティアチームだったそうで、彼らの献身と親切に皆が感動したとか(笑)。政府の対応は遅かったけれど、その間に自然に助け合いが生まれた。実際、政府が入ってからは、それが壊れていったそうです。
そういう経験もあったから、『災害ユートピア』には共感しました。ホッブズは、自然状態では人は互いに敵対すると言う。でもその反対に、国家の網の外でこそ生まれる助け合いもある。ソルニットは、人とつながりたい、人を助けたいという衝動はエゴイズムよりも根底的だと指摘した。それが生物学的な本能だ、と。僕はそのことを、交換様式において考え直しました。
――“交換様式”において?
柄谷 “交換”は、人類が定住した後に生まれたものです。定住以前の遊動生活では、食物も財産も貯蔵できないから、得たものはその場で分け合っていて、交換の必要はなかった。富の不平等が生まれないような社会だったんです。災害によって住まいを失うと、人はそのような状態に引き戻される。一時的なことではあるけどね。
もちろん、災害が望ましいわけではないし、国家が破綻すればユートピアになるわけでもない。そもそも、災害がもたらすユートピアは、つかの間の小さなものです。でもそれは、自由で平等な社会を垣間見させてくれる。そんなことを考えていたときに、東日本大震災が起きたんです。
――3月11日は、東京にいらしたんですか?
柄谷 家の前にいたんだけど、急に地面が揺れたと思うと、ものすごい音がして、まわりの家がめちゃくちゃに揺れていた。経験したことのないような大きな揺れが長く続いたけど、直下型の地震じゃなかったから、震源地からは遠いなと思った。家に戻ってテレビをつけたら、東北が震源だったと分かりました。被害は数日たたないと分からないだろうと思って、すぐにテレビを消して仕事に戻った。
ちょうど『哲学の起源』を執筆中で、古代ギリシャのことで頭がいっぱいだったんですよ。津波のことも、翌朝まで知らなかった。
――それは東京にいた人としても、特殊な震災体験ですね。
柄谷 次の日に、僕が地元で主催していた小さな勉強会「長池講義」が予定されていて、中国文学が専門の丸川哲史さんが講義してくれることになっていた。彼も他の参加者も来られないんじゃないかと思ったけど、電車も動いていて、ほぼ予定通りに人が集まった。
二次会のときに、原発が爆発したらしいというニュースが入って、皆絶句しました。
――いったいどうなってしまうのか、と不安になったことを思い出します。
柄谷 その時点では、具体的にどういうことなのかはよく分からなかった。だけど、どうもユートピアが出現するどころの話じゃなくなってきたな、と思いました。
――東日本大震災でも、多くの人が避難生活を強いられ、ボランティアとして現地に向かった人もたくさんいましたが……。
柄谷 そこまでは阪神大震災と同じです。だけど、原発事故となると話は変わってくる。原発は国家プロジェクトでしょう。原発事故は、人を結びつけるのではなくて、分断するだろうと思った。それまでも、原発が誘致された地域では、反対者と賛成者が衝突して争いが起きた。事故ともなれば、賠償や責任の問題も絡んで事態はいっそう複雑になる。原発というのは、国家と資本の問題だから、分断をもたらすんです。
――ユートピア的な状況にはならない、と。これも交換様式で考えられそうですね。交換様式B=国家と、C=資本が全面に出てくる、ということですね。
柄谷 とはいえ、ナショナリズム(A)が盛り上がる可能性はあるんじゃないか、と思った。保守派の考えからすれば、日本の神聖な国土が放射能に汚染されて、大切な同胞が被ばくの危険にさらされるなんていうのは、許しがたい事態のはずでしょう。でも、そういう言説は表立っては出て来なかった。結局、資本(C)と国家(B)が勝ったんです。共同性(A)も、資本と国家に従属するものに成り下がった。
――なるほど。国家と資本が結びついた体制はいかに強固か、ということですね。
柄谷 だけど、これだけのことが起きたんだから、そこから何かが生まれるかもしれないとも思っていた。そうしたら、反原発のデモが起きたんです。すぐに僕も行ってみようと思いました。
原発は、大きな犠牲を強いるものです。何千年も消えないような汚染物質を生むし、維持していくためには、放射能の危険に身をさらして低賃金で働く労働者が不可欠なわけですから。
――大きくデモが盛り上がりましたね。柄谷さんはデモで社会が変わるかと問われて「変わる」と答えています。「デモをする社会」に変わるのだ、と。
柄谷 デモが重要だということは、その数年前からよく言っていました。「日本人はなぜデモをしないのか」という講演をしたこともあります。そこでは、日本人がデモをしない理由を徳川以降の歴史から分析し、伝統的にデモのような市民の活動が盛んな、ヨーロッパや中国と比較しました。デモという視点から考えると、日本社会の特性が明らかになるんですよ。
議会制があるのだからデモは必要ない、という人たちがいる。また、デモなんかしたところで何も変わらない、大規模なデモが起きたとしても、政府の決定を変えられる可能性はほとんどない、という人たちもいる。確かに、ほとんどの場合、デモには物事をただちに変える力はない。それでもデモには意味がある。反対意見を表明することには、それ自体で意味がある。現に、権力はデモを嫌がります。議会制というのは、議会の外でのデモのような活動とセットになってこそ機能するんです。
ただ、左派の中には、デモに反対していた人も多かったんですよ。
――意外ですね。どういう理由なんでしょう。
柄谷 組織的な行動は、全体主義や権威主義に陥るとか、そんな感じだったんじゃないかな。でも、反原発のデモなんて、世間的には何の影響力もないですよ。街中でもデモ隊が通ったら白い目で見られるし。参加している組織も弱小で、かつての学生運動にあったような、一度入ったら抜けられないような悪質なものでもない。
――柄谷さん自身もほぼ半世紀ぶりにデモに参加したそうですね。実際に歩いてみて、どうでしたか?
柄谷 デモには、さっき言った勉強会「長池講義」のメンバーたちと行っていたから、終わった後に飲みに行ったりして楽しくやっていましたね。「長池講義」が「長池抗議」に化けた(笑)。そこでの交流を通じて、職が見つかったり仲のいい友人ができたりした人もいて、いろいろな発展がありました。僕は、「デモは社交だ」と言ってた(笑)。
――同じ関心を持つ人たちの出会いの場でもあったんですね。松本哉さん(リサイクルショップ「素人の乱」5号店店主)たちが、従来のデモのイメージを変えていった印象もあります。
柄谷 そうだね。松本さんとは、新宿アルタ前で演説をしたときに知り合ったんです。演説をするために選挙カーの上に上って行ったら、そこに彼がいたんだ。こんな初対面はめったにない(笑)。彼は法政大学の学生であったときにも、いろいろと風変りで愉快な運動をしていたんですよ。職員室のそばでクサヤを焼いて、臭い煙を室内に流すとか(笑)。そのとき僕はまだ法政の教師だったから、人づてにその話を聞いて大笑いしてたよ。
――地震発生時に執筆中だった『哲学の起源』は、どうなったのでしょう。
柄谷 書き続けていましたよ。デモに行きながら、古代ギリシャ、とくにソクラテスのことを考えていました。
民主主義は、無条件で正しいものと見られてきました。だけど、それは疑わしい。民主主義は、資本主義や国家と一体のシステムです。そこに、それらへの根本的な批判はない。
ソクラテスは、アテネの民主制の批判者でした。アテネの民主政と現在の民主主義は異なるものですが、共通面もあります。アテネには、今の国会にあたるような民会というものがあって、そこに参加して議論をすることを通じて政治に参加するのが正しい市民のあり方だったんです。しかしソクラテスは、民会には行かなかった。かわりに広場に行った。広場での活動といえば、不特定多数の人たちの前での演説が一般的でしたが、彼は演説もせず、一人一人と対話した。
――プラトンの著作に登場するソクラテスはいつもそうですね。
柄谷 ただ、プラトンの対話篇では、ソクラテスと対話者とのやり取りはなめらかにすすんでいるけど、あれはプラトンがまとめたものですからね。ディオゲネスやラエルティオスによれば、ソクラテスは誰彼かまわず話しかけて、迷惑がられたり、怒らせたりして、殴られることもあったらしい。なぜソクラテスが民会でなく広場に行ったのか。デモに行きながら考えていると、わかってきた感じがあった。
――デモとソクラテスがつながってくるわけですか。
柄谷 ソクラテスは、アテネの民主制を認めなかった。民会は、少数の市民だけが参加できるもので、そこからは外国人や女性、奴隷は締め出されていましたしね。彼は、広場で一人一人の人と話をするという一見迂遠なことをしていたわけだけど、国も恐れるような影響力を持つようになった。だから、処刑されたんです。デモをはじめとする民衆の活動には、潜在的にそういう力がある。
――日本の社会は、反原発デモのあと、変わったのでしょうか?
柄谷 うーん、どうかな。デモと聞いただけで怖がるような風潮は和らいで、何か文句があればとりあえず国会前に行って意志表示をする、といった動きが生まれましたね。それだけでも変化とはいえるかな。
だけど今や原発はやめるどころか新設するとか言ってるし、全部忘れられてしまった感じもありますね。だからまたバカなことをやるに決まってる。
――柳田国男について書いた『遊動論』も、震災が一つのきっかけだったそうですね。
柄谷 東北で大勢の人が亡くなったり故郷を追われたりしたとき、柳田の『先祖の話』を思い出しました。これは、おびただしい数の死者が出た戦争の末期に、絶望のなかで書かれた本です。ここで描かれる“固有信仰”は、仏教とも神道とも違う。柳田は、固有信仰を基盤にした家族や村を、成員を拘束するようなものとしてではなく、自由と平等に向かうものとして捉えています。まさに“アソシエーション”ですね。ここに将来への希望を見出したのだと思う。
柳田は若い頃、“山人”の研究をしていました。いまだかつて定住したことのない、どんな支配体制のもとにも置かれたことのない人たちが、まだ山奥に残って遊動生活を続けている、そう信じて、彼らの痕跡を探した。けれど柳田は、皆に嘲笑された上、結局山人の痕跡も見つけられなかった。それで山人説をひっこめました。しかしそのあとも、山人が象徴するような、支配から自由な社会について考え続けた。それを“固有信仰”という形で描いたんだと思います。
柳田は、戦後枢密院の一人として、新憲法の制定にも関わりました。僕は、憲法9条成立の背後には柳田の働きがあったと考えています。他にも、彼の協同組合論や、日本が双系性の伝統をもっているという主張――父系でも母系でもないという意味です――なども重要です。
――柳田国男は、柄谷さんがずっと取り組んでいる人でもあります。2013年には、『遊動論』とあわせて、1973年に連載された「柳田国男試論」を初めて単行本にした『柳田国男論』として刊行されてもいますね。32歳で、「マルクスその可能性の中心」と並行して書かれたものだったとか。
柄谷 そうですね。マルクスもそうだけど、柳田についても、若い頃からずっと考えてきました。『遊動論』は、憲法九条を論じた『憲法の無意識』(2016年)とセットといえるような著作です。ここに、「日本精神分析再考」(『思想的地震』収録)も入れてもいいかな。どれも、日本のことを題材にしています。
外国で仕事をする身としては、日本について書くのは本当は不利なんです。翻訳も難しいし、関心を持たれにくいから。だけど、これらの本はどうしても書いておきたかった。
――柄谷さんというと、西洋思想を駆使して論じているイメージが強いかもしれませんね。
柄谷 僕は若い頃から“西洋派”だと言われてきたけど、それは全然正しくない。僕はむしろ、西洋を崇拝しているような連中を軽蔑してきたし、いつも日本のことを考えてきた。愛国者なんですよ(笑)。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回で最終回、連載を振り返り、いま取り組んでいる仕事についてお聞きします。月1回更新予定)