わたしたちの、と言ってしまった責任──『わたしたちのケアメディア』著者寄稿
記事:晶文社
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ケア。たった二文字の言葉が人の心を落ち着かせる。そんな経験を積み重ねてきた。
絶望の淵にいる方と、最も大切にしていたものを失った方と、体が思い通り動かず、思いと現実の違いに打ちひしがれている方と、言葉のやりとりで、一緒に未来を見ようと思う時、ケアは傷ついた心に寄り添ったり、しみ込んだり、時には肩をたたいたりする。
誰かの助けが必要な人の支援活動を通じて、私が学んできた言葉の大切さは、言葉のやりとりによって発生する反応や事象を想像することでもあった。ケアは独り歩きしない。誰かによって、伝えられ、そして伝えるもので、媒体(メディア)を伴う。
ケアとメディアが一体となった「ケアメディア」が確立された時、社会には良識のあるコミュニケーションが行き交うことになる、との思いを背骨として描いたのが本書である。
描いた、というのは、この本はたんなる読み物ではなく、読んだ人に意識してもらい、ちょっとした行動につながってほしいとの思いからである。そのちょっとしたことが、誰かを幸せにしたり、絶望から救ったりするかもしれないから、そんな生活の一場面や社会の片隅で起こるだろう出来事を空想的にイメージして記述したから、結果的に「描いた」気分になっている。
本書では、「愛も科学も必要だ」と豪語したところから始まり、マスメディア報道の「正義」と「ケア」、精神疾患と事件報道、明治時代初期の学術メディアをめぐる考察、統合失調症の表記、障がいのある人への教育をめぐる視点、日本と韓国の比較、そして情報弱者を作らないための提案へと議論を展開している。
障がいのある人への教育についての記述は、私自身が、「みんなの大学校」を作り、18歳以降の重症心身障がい者が在宅や入所先・通所先でも「学べる」環境を提供する立場からのものであり、実践を意識している。
学びを作る基本は対話である。それはケアの交換とも言える。しかし、学びに関して一般的に言われる「評価」「比較」「教える」「学ばせる」「知識を与える」といった営みは、いわば「確実性の追究」であり、対話的でもケア的でもない。それは学校教育ではある程度まで許容できるものの、18歳以降の障がい者の生涯学習には馴染まないものも多い。
他方で、みんなの大学校が日々のオンライン講義や各地で行ってきたオープンキャンパスの考えは、確実性を反転させたものである。つまり「評価基準はない」「比較しない」「教えあう」「学びあう」「機会を提供する」となり、向かうのは「可能性の追究」である。
可能性、という言葉とケアは相性がいい。『ケアの本質 生きることの意味』(ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宜之訳)はケアの定義をこう記す。
一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。『ケアの本質 生きることの意味』(ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宜之訳)
自己実現を助けるには、寛容さと対話の基本にケアを置く、仕組みづくりの基本はケアである、問題解決にはケアが欠かせない──。
本書では、社会が評価する報道を「正義」と「ケア」に区別して論じ、正義が優先される社会の窮屈さを示してみた。まさに現在、「正しさ」を押し付けるマッチョな社会が分断を生み出している。それに対抗できるのはケアの姿勢、哲学、行動だ。同時に情報の氾濫で正しさも揺らいでいる。社会をつなぐために、人を信頼するために、ケアは希望への道筋でもある。
愛から描き始めたケアの世界とケアメディアの未来。「わたしたちの」と枕につけてしまった責任の重さを感じている。しかし、多くの人と本書のアイデアを共有することで、新しい発見ができるのではないか。そのことへの期待感のほうが大きい。