1. HOME
  2. インタビュー
  3. 「ケアと編集」白石正明さんインタビュー 「ケアをひらく」シリーズは“包摂”ではなく、書き手の“魅力”を伝えてきた

「ケアと編集」白石正明さんインタビュー 「ケアをひらく」シリーズは“包摂”ではなく、書き手の“魅力”を伝えてきた

編集者の白石正明さん=篠田英美撮影

「切実さ」を持っている人が書いた「ケアをひらく」

――2000年に創刊された「ケアをひらく」シリーズでは介護や看護を幅広く捉え、当事者や研究者などの書き手によって実にさまざまな名著が生まれていますが、白石さんが「原稿を依頼したい」と思う書き手の基準はありましたか?

 やっぱり「切実さ」を持っている人ですね。もう少し具体的にいうならば、「自分の話していること、主張していることが周囲に理解されないタイプの人」ということ。

 たいていの場合、それはその人の能力のせいにされたり、社会から逸脱しているからだと思われたりするんですが、でも決してそうではない。彼らはあくまでも自分の体験してきたことをそのまま話しているだけなので、それがわからないというのは周囲や社会の理解力のほうに問題があるということなんですよ。そのくらいマジョリティーといわれている側の常識の幅が狭いことを浮き彫りにできたらいいなと。

――マイノリティーとされる人が切実さを持ってなにかを主張したとき、マジョリティー側から「わがままだ」「わきまえろ」といった意見が多数ぶつけられてしまうことがよくあります。私も「ケアをひらく」シリーズの『コーダの世界』(澁谷智子)で、自分がコーダ(耳がきこえない、きこえにくい親のもとで育った聴者の子ども)であることを理解し、後にコーダのことを記事や書籍、SNSで発信するようになったのですが。

 そこは闘争すべきだと思います。そもそもこの社会は、闘争している人の話にしか耳を傾けようとしないところがありますから。

 とはいえそうした人たちに面と向かって説明しても彼らは反省なんかしないですよね。だからこっちはこっちで楽しくやっていれば、あちらのほうから近づいてくるんじゃないでしょうか。それも闘い方の一つだと思います。いずれにしても「俺たちが納得できるように伝えろ」なんて傲慢な意見は無視すべきと思いますよ。

――「ケアをひらく」シリーズは書き手にとっては闘争の第一歩でもあったのですね。同時に、「書くこと」が書き手自身にも大きな作用があったのではないでしょうか?

 大勢の著者を見てきましたが、書くことがセルフケアにつながっている部分もあると感じますね。それはどんなに有名な著者にも言えることです。

 たとえば、小説家の柴崎友香さんには『あらゆることは今起こる』のなかでADHD(注意欠如多動症)である自身のことについて書いてもらいましたが、あれだけさまざまな賞を受賞してきた柴崎さんでさえ、一冊書き終えたときにスッキリされたような印象を受けました。

――本を一冊書き上げることで、自分自身の過去やモヤモヤが整理整頓されていくようなイメージがあります。

 整理整頓って要するに「縮減する」ということじゃないですか。過去にさまざまな苦しみがあっても、文字にすることで、「私が抱えていた問題って、しょせんはこんなもんだったのか」と自分で扱える程度に小さくすることができる。だから、書くことで楽になれるのかもしれませんね。

 一方読み手の側は、一冊分の情報を受け取ることでさまざまな感情が沸き起こり、もしかしたら負担があるかもしれない。苦しい体験をしてきた書き手は楽になり、そういった苦しみを知らなかった読み手は大きな宿題を受け止める。それは健全な投げつけ合いだと思います。

大変さを抱えながらも生きる、“魅力的な人”たち

――「ケアをひらく」シリーズから生まれた作品は、川口有美子さんが『逝かない身体』で大宅壮一ノンフィクション賞、熊谷晋一郎さんが『リハビリの夜』で新潮ドキュメント賞、哲学者・國分功一郎さんの『中動態の世界』が小林秀雄賞、東畑開人さんの『居るのがつらいよ』が大佛次郎賞論壇賞など、さまざまな賞を受賞。そして2019年にはシリーズ自体が毎日出版文化賞を受賞しています。大きな反響をどう受け止めていますか。

 もちろん、一つひとつの作品に力があったからこそではあるんですが、医療系の版元から出ていたという意外性も面白がられたのではないでしょうか。人文系版元が人文書を出しても当たり前ですしね(笑)。もしも私が医学書院にいなかったら、全然違う企画をやっていたと思います。

――医学専門書の出版社で、新しいジャンルの「ケアをひらく」シリーズを育てていく上で、編集者として何か工夫をしたことはありますか? 

 一部例外もありますが、基本的には本体価格を2000円でおさえました。版元的には売れるかどうかわからない作品の初版は3000部くらいにしたいわけです。そうすると必然的に価格が上がり、2800円ほどになってしまう。それでは手に取ってもらいにくい。似たようなテーマの作品が、他社からは1700円くらいで出ていたりもするので、いつも「これは絶対に売れるから」と説得し、初版を多く刷って、価格をおさえてきました。

 ただ、2000円でも一般の人からすると高く感じるのは事実。なので、サイズを大きくしてA5判にすることで、「2000円を出す価値がある」「これだけしっかりした作りなら当たり前の価格だな」と納得してもらえるようにも意識していました。

――「ケアをひらく」シリーズの作品が「知らない世界」の入口になったという読者も多いと思います。

 きっかけになったとしたら嬉しいことです。ただ、「知らない世界」のことを知ったときに、「こういう人たちがいるから包摂しなきゃいけないんだ」というふうに思い込んではほしくないですね。

 「包摂する」って上から目線というか、なんだか偉そうな態度じゃないですか。むしろ、『コーダの世界』を読んだらコーダといわれる人たちの複雑な感情の持ち方に魅力を感じてしまう、『あらゆることは今起こる』を読んだらADHDとして生きる人の解像度の高さや「そこですか!」という着眼点に吸い寄せられてしまう、みたいなことを意識していました。

 「弱い」「少数」という属性は、ある意味、この社会のなかでいつもアウェイ(慣れない環境)で闘っているようなものです。だからとにかく大変な思いをしていて、「その大変さをわかってください」というメッセージを発信するのもいいんだけども、それだけじゃないと思うんですよね。

――マイノリティーの人たちの“大変さ”を悲劇的に描くのではなく、“魅力的なもの”に変換するという。

 「ケアをひらく」シリーズでは、そうしたことをなんとか見せられないかと試行錯誤してきました。

 『リハビリの夜』の熊谷晋一郎さんが仰っていたんですが、アテトーゼ型の脳性麻痺の人って身体をうまく動かせなくなる分、物を掴んだりする動作ひとつに力がこもっていて、色っぽく見えるときがあるそうなんです。その話を聞くまでは、身体が不自由そうにしか見えなかったんですが、たしかに視点を変えてみればそう見える。

 『べてるの家の「非」援助論』や『べてるの家の「当事者研究」』で取り上げている「べてるの家」創設メンバーの向谷地生良さんは、これは誤解されることを承知で言いますが、人間を一つのアートとして見ている部分があると思います。

 精神障害というままならなさのなかで、その人のポテンシャルを100%発揮して生きている姿に、あたかもアート作品を見るように引きつけられてしまう。アートというのは社会的な価値や意味から離れたところで「それ自体」を見るやり方ですよね。向谷地さんのはそれと似ていて、見栄えがしないから福祉的なゲタを履かせようみたいなこととは真逆のスタンスです。「今、すでにして十全に生きている」ことを真っ直ぐに見ていて、その視線自体が相手にすぐに伝わるんだということも含めて、とにかく衝撃を受けました。

ダイナミックな価値の転換、「ケア」と「編集」は似ている

――あらためて、『ケアと編集』を書いてみて、見えてきたことは?

 まずはシンプルに、こんなに書くことがあったんだな、と思いました。もちろん、担当編集者としてはその場その場でさまざまなことを感じてきましたが、こうして文章としてアウトプットすることで、あらためてそれに気づけました。

 先ほど、書くことは整理整頓であり、つまりは縮減につながると申し上げましたが、一方で書くことで書くべきことがさらに見つかるという作用もあるんだなと。頭のなかだけに留めておくのではなく、こうして外に出すことで気づくことがたくさんあるんだなと思いました。

――多様な書き手と付き合ってきた白石さんは、とても豊かな時間を過ごしてこられたのではないでしょうか?

 そうかもしれません。でもそれは、「本を作る」という目的があったから。一人ひとりの著者と単に友達になろうと思ってもなれなかったかもしれませんが、同じ目的に向かっていったからこそ、友達になれたんだと思います。

 協働でひとつの目的を達成しようと思うと、事後的に、それこそ中動態的に沸き起こってくる友情みたいなものがあるんです。そういう意味では、このシリーズを通してさまざまな人と知り合えましたし、たくさんのことを知ることができた。それがよかったな、と感じています。

――一方、「このテーマは自分の手に負えない……」と途方に暮れるような、大変な思いをすることもありましたか?

 正直に言うと、あまりないんです。「この著者をこの型にはめてみよう」というふうに考えて本を作るのではなく、著者の形そのままで作ってきたので。だから、自分の理解の範疇を越えるような主張が出てきたとしても、ワクワクのほうが大きかったですね。

――「型にはめない」という姿勢は、本書のなかで最後に書かれていた「ケアとはなにか」に通ずるものですね。

 だから「ケアと編集は似ている」と書いたんですよ、と言いたいところですが(笑)、それは私も後から気がつきました。「ケア」を医療の一部だと考えると、どうしてもその人を変えようとしがちですが、そうではない。「ケア」はもっとダイナミックな価値の転換みたいな可能性を秘めていると私は思っています。その人の傾きに付き合っていれば秩序の外に出てしまうことだってある。そんな過激なところもあるかもしれないけれど、そのくらい言わないと現場でやっていることの大きさに見合わないです。

――そんなスタンスの白石さんに憧れる編集者も少なくないと思うんですが、これからを担う人たちにアドバイスをいただけますか?

 新人でもベテランでも一冊を始めるときのスタートラインは同じです。対等なんだから、好き勝手にやってみたほうがいい。私が編集者として具体的に踏み出したのは35歳を超えてからでした。その年になると失敗できないので、20代のうちに失敗しておけばよかったと何度も思いましたよ。

 「良い編集者になるために、基礎から積み上げるべし」みたいな言説もありますが、編集という仕事は基礎から積み上げていくものではないと思っています。サッカーと同じで、いくらインサイドキックを反復練習しても、相手のいる場所で蹴らないとうまくならない。

 むしろ大事なのは、そういった場所に一歩踏み出せるかどうかだと思います。

 もしもいま、編集者として生きていきたいと思っている人がいるならば、練習はもう切り上げて試合に出ることを勧めたいですね。頭のなかで想定しているよりも、現実は意外にやさしいですから。