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「障害と生きること」がひらく共生の風景 稲原美苗さん×國分功一郎さん(後編)

記事:平凡社

イベント会場となったシブヤフォントラボでの國分功一郎さん(左)と稲原美苗さん(右) 撮影=藤原さと
イベント会場となったシブヤフォントラボでの國分功一郎さん(左)と稲原美苗さん(右) 撮影=藤原さと

〈前編はこちらから〉

「I love to you」から始まる哲学

國分功一郎(以下、國分):あとお話ししたいのは、イリガライの「I love to you」の話ですね。この言葉について、僕はこう解釈しました。「まず僕の中でI loveということが起こっている。そして、それがあなたに向かっている」。これは中動態の考え方とも共通する問題意識から出てきた表現なんじゃないでしょうか。例えばギリシャ語では、I loveはエラオマイ(ἐράομαι)ですよね。つまり、「私が愛する」というより、「私を場所にして、私の中でloveすること(loving)が起こっている」という意味です。まず I love が起こっていて、それがto you、あなたに向かっている、ということです。ところが、「I love you」は、直接目的語としてyouを扱う。そうすると、「 I love you!」というような、自分が相手を支配するような感じがある。こう考えると「I love to you」は、イリガライの優れた言語センスですよね。

 我々の知る英語のような言語には、やはり一つの限界を感じるんですね。実際に起こっていることを表現する、つまり経験を記述するためには、I が入っている時点でもうかなり実際からずれてしまっている。僕は『中動態の世界』では頑張ってギリシャ語を勉強して、その中動態を使って現代の言語の限界に迫ろうとした。イリガライにとっても英語は外国語ですけれども、その英語で「I love to you」のような言い方を発明することで、僕らをハッとさせてくれた。稲原さんも、この「I love to you」という表現には、ピンと来られたわけですよね。 

稲原美苗(以下、稲原):実は結婚する前(2006年)にイリガライ本人に学会(The Society for European Philosophyの大会)でお会いして、「I love to you」について話す機会があったんです。フェミニストの中でも過激なことを言う方だったのですが、「I love to you」にはそれまでのイリガライと比べて、過激さや怖さがなかったので、理由を聞きたいと思って。

 イリガライの母語のフランス語には、アベック(avec)という言葉がありますよね。英語でいうwithなので、I love with you なのかなと思っていたんです。それで、「どうして「I love to you」と言えたのですか? どうして withじゃないんですか?」って聞いたんです。 

國分:重要な質問ですね。イリガライはどう答えたんですか?

稲原:イリガライは、「toは距離があって、そこに橋を架けているようなイメージがある」って。そして、「その橋を架けるという関係性が大事であって、喋らないという関係はもう終わり。だから、いつでも「喋ってもいい?」と聞けるような、そういう関係であり続けたほうがいいよ」と言っていました。

 私は普段はあんまり喋る方じゃなくて、マイキーはすごい勢いで英語で喋る。かわりに、私はチャット機能を使うんですが、タイピングが早いから今度はマイキーが「早すぎる。もう少しゆっくり書いて」って怒ってくる(笑)。でも相手が喋って私が聞く、という関係もいいかなと思いました。これも共に距離をあけていながら、同時に距離を縮めましょう、というイメージかなと思ったんです。 

國分:それを聞けてすごくよかった。イリガライとの対話のことは本に書いてほしかったなあ(笑)。 

 自分の中でエラオマイが起こるというのは、love、lovingが起こり、それが距離のある相手に向かってto youとして向かっていくということ、好きになってしまうっていう、どうしようもないこととして起こっているわけですよね。 

 ちなみに僕は中動態を説明する時に、こう説明するんです。「I love you は能動態ですが、ほんとうに能動態ですか? その人に惹かれているということですから、どちらかというと受動態ではないですか? しかし、受け身であるにもかかわらず、その人を好きである主体は確かにあなたでもある。能動/受動だと、人を好きになるというありふれたことも説明できない。日本語には「惚れる」っていういい言葉がある。惚れているかは能動でも受動でもない。

 この「能動でも受動でもない」というのは、稲原さんの本のテーマの一つかなと思うんですよ。このテーマを託した表象が、「はじめに」で扱われる涙ですよね。涙を介して解釈することが哲学だ、と書いてある。稲原さんの本はロマン主義的だと思う。そして僕もロマン主義者だから共感する(笑)。

 涙を流したら像がぼやけてしまうし、涙は流そうと思って流すこともできなければ、涙を流すことを強制されてるわけでもない。そして単に能動でも受動でもないというだけではなくて、自分に何が起こっているのかがわからない。涙にはいろいろな意味が込められていますよね。

 実は僕は大きくなるまで泣くのが怖かったんですよ。本当に幼い頃から映画を観ても「絶対泣かないぞ」という態度で臨んでいた。たぶんそれは自分がわけのわからない状態になるのが怖かったからだと思う。マゾヒズム的な経験というか、自分をコントロールできない状態だと感じていた気がする。

稲原:私は喋れなかったので、とにかく泣く子だったんです。涙を流すことは、ある種のカタルシスでもあるし、自分が自分でわからなくなった時や周りのことがわからなくなる時も泣きますよね。で、「泣いちゃダメだ」ってよく言われますけど、うちの親は言わなかったんです。私が喋れなくて、涙が唯一のコミュニケーション手段だったからかもしれないですけど。私は涙もろくて、映画を観ても泣くし、本を読んでも泣くし、音楽を聴いても泣くんです。でも、マイキーは絶対泣かない。お父さんが亡くなったっていう知らせが来た時も泣かなかった。「僕は泣きたくない。感情が外に出るのが嫌だ」って。私は感情を外に出しちゃうタイプです。

 涙は視界をぼやかすので、ぼやかしてみた時に、苦しいことがあってもぼやけて見えるからもういいやってなっちゃうこともあるし、ぼやけることで新しい世界ができるのかなとも思ったんですね。

國分:涙があふれてしまうという問題は、これまで論じられていないと思うんですよね。だから稲原さんの本が先鞭をつけた気がしますね。哲学者で泣くことを書いている人はいないと思う。主体としての自分の、自分自身との関係の一つの限界点にかかわる面白いテーマではないでしょうか。

衝突のたびに、世界の見え方を学び直す

國分:本のタイトルに「障害」と入っていますが、障害学の話も書かれています。障害の個人モデルと障害の社会モデルを取り上げていますよね。障害の個人モデルはその人の身体の中に障害を位置づける。それに対し、障害の社会モデルは多数者向けにデザインされた社会とその人の身体の間の齟齬が障害をもたらすと考える。稲原さんが、社会モデルはもちろん大事なんだけれども、何でも社会に原因を求めることによって、その人自身のリアルな身体経験を十分に捉えきれなくなるという批判があると書いていらっしゃるところは重要な論点だと思いました。

 社会モデルは、個別に起因する苦痛、あるいは日常の「生きづらさ」といった経験を、社会構造の問題だけで説明しようとするあまり、障害当事者のリアルな身体経験を十分に捉えきれないという批判もある。痛みや疲労、感覚の過敏さといった経験は、社会の側がどれほど変化したとしても、完全に取り除けるとは限らない。社会モデルが重要な視座を与えてくれる一方で、すべてを「社会のせい」としてしまうならば、当事者の多様な声を一つの枠に押し込め、かえって見えにくくしてしまう可能性すらある。

『障害と生きることの現象学』109~110ページ

 僕は稲原さんの本で引用されている熊谷晋一郎さんと共同研究をしてきたんですが、「自分がこう感じている」「自分で自分のことがわからない」「俺は何に困っているのかわからない」といったリアルな経験を考える時に、熊谷さんは当事者研究に行き、稲原さんは現象学に行った。稲原さんは、障害の現象学的モデルというものを提唱していますよね。 

稲原:社会モデルが大事なのはよくわかるし、障害者運動をされてきた方たちの成果だったと思うんです。でも、私も「社会のせいで」と言いたいけれど、社会が変われば自分が変わるのかっていったら、変わらないんですよね。

 私はすぐに「ありがとう」「すみません」と言っちゃうんです。障害者運動をしてきた方は、「そういうことを絶対言ったらダメ」と言うんですけど、私は障害者運動をしてこなかった障害者なので言っちゃう。でも、こういう障害者がいてもいいんじゃない? って思うんです。日本の普通教育を受けてきたという経験から、私はこんなふうになってしまっているので。なぜかというと、違う子として、ことごとく排除されてきたからです。で、「みんなと一緒」とも言われて育ってきているので、みんなと一緒のようにしなければ、結局はクラスから排除されるわけなんですよ。最近、神戸大学附属特別支援学校のコーディネーターになったので、学校へ行く機会が増えました。そこで子どもたちを見ていると、子どもたちは本当に楽しそうなんですよ。自分の好きなことを見つけて、精いっぱい取り組んでいて、すごくいい笑顔をしている。私は子どもの時、あんなふうには笑えなかった。インクルーシブ教育も大事なんですけど、特別支援教育は私にとって新鮮で、あの教育を受けてきた子は、たぶん自分のことを下に下げて考えないんだろうなと思いました。現象学も一人一人に向き合うような、関わりを大事にする学問で、特別支援教育も一人一人に合わせているから、それでいいのではないかと、最近よく考えています。すみません。お答えになってますでしょうか? 

國分:「すみません」っておっしゃらなくていいですよ(笑)。僕はこれまで現象学には距離を取ってきたんですね。でも、今まで僕が見てきたものとは違う風景が現象学にあるということを、稲原さんの本と、今の語りで教えていただいた感じがしています。

 これまでも「現象学」という言葉を付した障害学関連の本は何冊か出ていますが、稲原さんは新しいところに切り込んでいる。稲原さんがずっと英語圏で研究をされてから日本に来たことも関係があると思うんですが、新しい潮流をもたらしているので、いろいろなぶつかり合いが今後起こったら面白いなと思っています。

 そうそう、この本の結論ではないかと思っている言葉があるんです。「衝突のたびに、私たちは互いの世界の見え方を学び直す」(184ページ)。つまり「衝突せい」ということですね。現代社会は衝突を避けますよね。もちろん衝突をしたら「ごめんなさい」と謝らなきゃいけない時もあると思うし、自分が間違っていたということもたくさんあると思うんですが、そういうふうにして衝突をしていけばいいのではないでしょうか。そう思って僕は生きてきたんですけれども、この本を読んで改めてそう感じました。 

稲原:ありがとうございます。ご著書を読んだりラジオを聴いたりしていた國分さんに、そうおっしゃっていただけてとてもうれしいです。衝突は、勝ち負けを決めるためのものではないんですよね。相手を変えるためでも、自分を正当化するためでもない。衝突や葛藤することで、自分が「当たり前」だと思っていた世界の見え方が少し揺らぎ、相手にもまた別の世界があることに気づいていく。その積み重ねが、「ともに生きる」ということなのではないかと思います。この本が、新しい対話や、さまざまな立場の人との「よい衝突」のきっかけになれば、これほど幸せなことはありません。

構成:吉田真美(平凡社編集部)

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