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鴻巣友季子の文学潮流(第5回) 映画「バービー」は日本でうけてる? 「死」と「不安」のダブルミーニングを読み解く

©GettyImages

自分ツッコミにあふれた世界

 グレタ・ガーウィグ監督、マーゴット・ロビー主演の映画「バービー」(マテル・フィルムズ制作)が日本でも公開された。玩具メーカー・マテル社が1959年から販売してきたドールを実写化した映画で、バービーたちが暮らすバービーランドには明るいピンクの街並みが広がり、おしゃれな装いの有能な女性たちが闊歩する。しかしその表層的意匠とは裏腹に、生きること死ぬことの意味をめぐり実存主義的な問いかけをも擁した作品だ。

 「世界的大ヒット」と銘打たれているが、日本の興行成績はそこまでではなさそうだ。まず、原爆の父を描いた映画「オッペンハイマー」と「バービー」をかけ合わせた、きのこ雲を使ったコラージュ画像に米国公式アカウントが好意的なリプライを付けたことがイメージダウンにいくらか荷担した感は否めないのだが、コメディ映画なのにゲラゲラ笑って観ている人が少ないのではないか?

 私は東京近県のシネコンで2回観た(観客はカップルと老夫婦っぽい人たちが多かった)。都心の館ではもっとノリノリの反応があったのかもしれないが、2回とも、上映中クスリとも笑いが起きなかった。要するにおかしさがまったく伝わっていないのだ。その理由は、この映画の自分ツッコミ(自己批評)ネタと意味の詰め込みがわかりにくいのだと思う。ということは、この映画の見どころを語ると、日本でうける要素うけない要素が見えてくるかもしれない。映画の内容に踏み込んで解き明かしていきたい。

張りめぐらされた二重構造

 この映画は家父長制やジェンダー規範や狡猾なダブルスタンダードなどへの風刺にも満ちているが、この映画にあるのはフェミニズム「から」の批判だけではない。フェミニズム「への」批評的または自虐的なツッコミも重ね書きされているのが周到なところ。

 ラテン系の母を持つ女子高生サーシャがなにかと、「出た、白人救世主!(物語内でマイノリティの窮地を救いに現れる白人ヒーロー)」とか「それ、(文化)盗用じゃん」などとポリコレ用語を振り回すのも、的外れなウォーキズム(社会正義への意識が非常に高いこと)への批評性が感じられる。グレタ・ガーヴィグ監督は「すべてが少なくとも2つのレベルで機能するように作りました」と述べており、作中のシーンやセリフには、重ね書きやダブルミーニングがあちこちに仕掛けられている。つねに諸刃の二重性があるのだ。

 そもそも、すべてのシステムが乱れなく機能し、完璧な幸せがルーティンでつづくバービーランドは、トマス・モアの提唱した『ユートピア』と同様、見えないディストピアのイデアを感じさせるではないか。大統領は女性、最高裁判事も全員女性という完全な女性社会で、ケンやアランといった男性たちは添え物的な立場でしかなく、抑圧された弱者だ。

 こうして極端な逆転世界を描くことで、現実世界における強者から弱者への抑圧や被差別者の痛みを浮き彫りにする手法は、ナオミ・オルダーマンの『パワー』や、李琴峰の『彼岸花の咲く島』、椰月美智子『ミラーワールド』などなど、近年の国内外のフェミニズム文学にも見られるだろう。

 「バービー」はフェミニズム万歳的な映画ではないが、かといって、アンチ・フェミ映画でもない。意識の高い人たちでも立場が変われば、マイノリティを抑圧して「ハッピー」になれてしまう。弱者を踏みつけにすることに気づきにくいのが人間ではないか?という問いかけが感じられる。

ビンボー(bimbo)フェミニズムとの合流

 映画のなかでは、バービーという商品とそのコンセプト自体にも自己批評が向けられる。商品のイメージ管理が厳しいマテル社がよくこういう内容を許可したものだと初めは驚いたが、この自己批評は同社がむしろ率先して行ったのだろう。

 バービー人形は多大な人気を誇る一方、「容姿コンプレックスを植えつける」「人種に偏りがある」「ステレオタイプ」などの非難を絶えなく受け、マテル社はじつに多種多様な体形、肌色、職業(宇宙飛行士、外科医、スポーツ選手……)、車椅子使用者やダウン症などのバービーも発売してきた。とはいえ、世の中の「正しさ」への目はますます厳しくなっている。

 バービーはいまも年間15億ドル近くも売り上げる、社の看板たる「古典名作」だ。今回の実写映画には、最近アガサ・クリスティーらの名作を刊行する版元が、ポリコレに引っかかりそうな表現を自主改修(削除やリライト)しているのにも通じるサバイバルの企図を感じないでもない。

 バービーたちの装いが”ハイパーフェミニン”(過剰に女性らしい)なのも、Z世代の”ビンボーフェミニズム”の潮流とタイムリーに合致したようだ。映画のなかでバービー自身が「あなた、ビンボーで金儲けしてる人?」と揶揄される場面もあるが、bimboとは「男うけを狙う頭からっぽの女」といった意味。ビンボーフェミニズムはそれを逆手にとり、あえて女性性を強調した装いをすることで、女性の自律性を主張するムーヴメントのことだ。

ケンはなぜ馬に取り憑かれた?

 後半ではバービーランドの優劣が反転し、男性社会が到来。すると、男性たちはさっそく現実世界から人間が入ってこられないよう「ケンダム」(ケン王国)の国境に、空に向かって伸びる壁を築く。これは米国の前大統領が就任後すぐにメキシコとの国境に壁を建築したのを想起させるだろう。

 そう、「バービー」には、国家や戦争のありかたへの自己批評的側面もありそうだ。たとえば、象徴的なのはケンがとり憑かれる馬。この馬と戦いをめぐる一連の展開は、『銃、病原菌、鉄』(ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳)のバービー版パロディのように見えなくもない。

 大航海時代の16世紀、ヨーロッパ軍勢に攻めこまれた中南米では先住民がばたばたと倒れ、たった200人弱のスペイン軍によってインカ帝国があっというまに陥落。当時ラテンアメリカは鉄も銃器も持たず、天然痘の免疫もなかったことなどが大きいと言われるが、もう一つ足りなかったのが馬である。銃・病原菌・鉄と馬は、侵略と支配の世界史ではセットなのだ。ちなみに、この歴史を改変してインカ王国のほうが欧州を征服する傑作小説に仕立てたのがローラン・ビネの『文明交錯』(橘明美訳)で、当連載の第1回で紹介した。

 人間界にやってきたケンが馬を見たとたんぽーっと取り憑かれてしまう背後には、こうした戦闘と支配への男性的な本能と欲望がコンテクストのベースにあるのではないだろうか(監督自身は「もっとシンプルな理由」だと述べているが)。ケンが人間界から「家父長制」という概念とその実践をバービーランドに持ちこむと、女性のドールたちは一発でその思想的ウイルスに感染し降伏してしまう。ここで、人間界のグロリアというラテン系の女性がこうつぶやくのは最大のアイロニーだ。「16世紀の先住民が天然痘にやられたのと同じね」。もちろん、ヨーロッパ勢に侵略され滅ぼされたラテンアメリカの民族や文明のことを指している。

 つまりこの部分は、バービーたちが家父長制という「新型ウイルス」に罹患してしまったことを意味する同時に、西洋世界が”新しい土地を支配してきた歴史を振り返ってもいる。

戦闘ダンスの二重性

 ケンダムは元バービーランドなので、銃器や鉄器はない。戦うといっても、武器はプラスチックのラケットやビーチボールだし、馬は棒に馬の頭部をつけたおもちゃか”エア馬だ。ケンたちとケンたち(そう、ケンばかり無数にいるのだ)の権力抗争を表現する群舞シーンは圧巻だが、ここにもマスキュリニティ(masculinity=男性性)と男女のジェンダー規範を攪乱する工夫があるので、ちょっとした裏話をご紹介。

 監督はこの映画を撮る際に、アメリカの古典映画や黄金期のミュージカルに多大なインスピレーションを受けたと言っている。顕著な影響が見られる一例がこの戦闘ダンスのシーンだ。ビーチのセットから映像が切り替わり、淡い縞模様が走る空漠としたスペースに黒い衣装のケンたちが出てきて、リーダー役のケン(ライアン・ゴズリング)のバックでペアになって踊る。

 これは交戦の舞踏に見せて、愛のデュエットダンスでもある。恋愛ミュージカル映画「雨に唄えば」の「ドリームバレエ」と呼ばれる名場面のセットとトーンをなぞっているのだ。男女がときに絡みあうように踊るこのバレエは、主役のジーン・ケリーがシド・チャリスをリフトしながら(すごい風圧に負けず)見事に踊り、最後にはケリーがチャリスに覆いかぶさってキス。これが「バービー」では、男女ではなく男男ペアになっている。

 ガーヴィグは戦闘ダンスと愛の舞踏をさり気なく混交させて、異性愛至上主義や、男女のジェンダー規範にもツッコミを入れつつ、最後には自律的なアイデンティティを求める者たちのブラザーフッドにも眼差しを向けることになる。。

死とモータリティは人間性への第一歩

 次にこの映画を彩る死と不安のダブルミーニングについて。モータリティ(人間の命の有限性)ということが、この映画ではフェミニズムよりも重い主題となっている。

 定番バービー(ロビーが演じる職業や属性のないバービー)は、かつて彼女で遊んでいた中年女性が自信を喪失し落ち込んだことから、ある日、ディスコパーティ中に「ねえ、みんな、死を思ったことってある?」(Do you guys ever think about dying?)と藪から棒に言いだす。あるいは、彼女は人間界に来てまもなく、「原因のわからない恐れを感じる」と言い、通りがかりの学校の先生に「それはanxiety(不安)っていうのよ」と教えられる。こうしたことから、バービーは鬱になって死にたがっていると解釈し、作中の「死」を否定的に捉える意見も見かけるが、それは逆ではないだろうか。

 人形界に決定的に欠けているものはなにか。それが命の有限性、モータリティだ。彼女は戸外のベンチで年配女性と話しているうちに、”You’re so beautiful.”と言って、わけもわからず涙を流す。老女の顔のしわや白髪を見て、生き物は死ぬということを初めて実感し、積み重ねられた年月の真の重みに心を打たれたからだろう。モータリティへの肯定と、もしかしたら憧憬が生まれた瞬間だと思う。本作における死とモータリティは人間性への第一歩として意識されるものなのだ。

 「メメント・モリ」(死を想え)というラテン語の警句がある。いつかは死ぬ人間に謙虚さを思い出させるカトリックの教えであり、翻っていえば、一回かぎりの時間を生きることのかけがえのなさを伝える言葉でもある。

 では、「死」や「不安」という言葉はこの映画でどのようなダブルミーニングをもつか。現代の英語では、dieには「死ぬ」という意味のほか、dying for/to…で「~したくてたまらない」という用法があり、anxiety/anxious to…にも「不安(な)」のほかに「~を強く欲する、~したくてもどかしい」という意味がある。映画のなかでマテル社CEOが定番バービーに、”I’ve been anxious to see you.”と言うのは「ぜひともお会いしたかった」ということだ。

 パーティで”Do you guys ever think about dying?”と言ってドン引きされた定番バービーは、”I’m just dying to dance!”(死ぬほど踊りたいってことよ)と言いなおす。現実世界でanxiety を感じるというのも、死と引き換えに自由な世界に焦がれる(バービーも気づいていない)深層心理が二重写しになっているのではないか。

 「不安とは自由のめまいだ」と述べたのはキルケゴールだ。

女性解放と人間性回復の普遍的なテーマにつながる

 この映画のラストシーンの解釈が議論を呼んでいる。定番バービーが妊娠したか否かという問題だ。人間界で生きることを選択した彼女があるビルに入っていく。

 “Hi, I’m Handler, Barbara. I’m here to see my gynecologist.”と、受付で告げたことで、婦人科に来たことがわかる。ちなみに、「産科」(an obstetrician)でも、産婦人科(略称ob/gyn)でもない。この婦人科と産科の混同が起きたためか、バービー妊娠説が流布することになった。

 婦人科系器官の健診に来たか、ピルをもらいに来たのだと私は思った。人間の女性として生きていくにあたり、まず健診を受ける、これはごく当たり前のことのはずだが、婦人科はアメリカでも少し足が向きにくい。監督はこのラストに触れて、「思春期になると急に自分の身体に戸惑ったりするでしょう。わたしも説明のできない恥ずかしさがありました。でも、女の子たちに『あ、バービーも(婦人科に)行くのね』って(普通のことだと)思ってもらいたかったんです」と語っている。女性の心身へのケアや、それにまつわる自尊心、自律性を表現しているのだと私は思う。

 それから、男性の出番も一つ。定番バービーをクリニックへ送る車のなかでグロリアの夫が勉強中のスペイン語で、"Si se puede."とバービーに声をかけると、妻が「それは労組のスローガン」と言う。"Si se puede" (Yes, we can.に近い意味)は米国ラテン系移民の組合はじめ各種の政治運動で使われる掛け声として有名で、つまり「よし、やるぞ」ということだ。人形界からの移民とも言えるバービーを励ます言葉に(図らずも)なっている。

 定番バービーは終盤で急に人間になろうと決めたわけではない。それは、あのパーティの最中に、「ねえ、みんな、死を思ったことってある?」と、だしぬけに叫んだときに始まっていたのだ。人形の夢と目覚め、そして他者の欲望からの脱出。そのテーマは、ギリシャ神話の「ピグマリオンとガラテア」の主題を転覆させた、ギルバートの『ピグマリオンとガラテア』、バーナード・ショーの『ピグマリオン』、あるいはイプセンの『人形の家』などにつながってきた女性解放と人間性回復の普遍的なテーマだ。

*本記事中に引用したセリフは、前後のわかりやすさに鑑みて筆者が英文から邦訳しています。どうぞご了承ください。