「境界」だからこそ見えてくるもの 夕書房 代表 高松夕佳 (編集者リレーエッセイ第19回)
記事:じんぶん堂企画室
記事:じんぶん堂企画室
2017年に活動を始めた夕書房は、来年10周年を迎える。10年も続けてこられたことに驚きを覚えるとともに、私自身が夕書房の本に支えられてこの10年を生きてきたのだ、とつくづく感じている。
今回、「境界」に生きる人々の物語を伝え続けるTISSUE Inc.の安東崇史さんにリレーエッセイのバトンを渡されて気づいたのは、私、そして「夕書房」自身がずっと「境界」にいるということだった。
社会に対する違和感を放置せず、変革のために一歩を踏み出している人の声やその試み、これからの私たちが向かうべき方向のヒントとなる営みを本の形で残していく――これが夕書房の出版物に一貫するコンセプトだが、ラインナップは対談本やインタビュー集、災害学の専門書、美術評論、日記、写真集など分野がバラバラで、書店でどの棚に置いてもらうべきか迷う本も多い。
私は幼い頃から好奇心が異様に旺盛で、ジャーナリズムを学んだ経験も手伝って、おもしろい人やことに出会うと分野を問わず踏み込んでいき、そのすばらしさを広く伝えようとしてしまう。考えてみれば、夕書房の15冊の本はすべてが、ご縁と自らの好奇心に導かれてできたものだ。
第一作『家をせおって歩いた』の著者・村上慧さんに出会ったのは、福音館書店「母の友」編集部にいた頃のことだ。昼休憩から戻ってきた同僚たちがスマホの写真を見ながら「家が歩いていた」と騒いでいるところに出会し、「家」の造形の本気度に強烈な切実さを感じてSNSを探し当て、連絡を取ったことから村上さんとの交流が始まり、数年後、日記を出版したいと相談されたのをきっかけに夕書房を立ち上げた。その後はノープランだったが、不思議なご縁の繰り返しで今まで来ている。
馴染みの古書店の店主から「いつも出店している舞台芸術グループが『本を作りたい』と言っているので公演を見にきてほしい」と言われて見にいったら度肝を抜かれ、ここには今の社会に足りないものがあると確信し、インタビューを重ねて『したてやのサーカス』にまとめたり、旧知の写真家から「博士論文の出版先を探している知人の相談に乗ってくれないか」と頼まれ会ったところ、同期と訳しながら学んでいるという洋書のほうに強い必要性を感じ、専門書『そこにすべてがあった--バッファロー・クリーク洪水と集団的トラウマの社会学』を翻訳出版したり。『闘う舞踊団』に至っては、報告書編集の立場で聴講していた文化政策の研究会で、ゲストの舞踊家・金森穣さんが話す公共劇場専属カンパニー運営の過酷さに驚き、思わず「その話、本にしませんか?」と声をかけてしまったことから生まれた。
出版した本のどの分野においても私は素人だ。知らないからこそ知りたくなり、編集作業を通して知っていく。企画立案から刊行後まで、私はずっと著者と読者の間、まさに境界に立っている。
境界に立ち続けていると、どこかに「属する」ことにむしろ違和を感じるようになる。
夕書房を設立した2017年当時、「ひとり出版」は名前のつかない異質な存在で、だからこそ居心地が良かった。しかし仲間が増え「業界」が形成された今、私はアウェイ感を感じ始めている。「少数派」のはずのひとり出版の中にも緩やかな傾向が生まれており、夕書房は明らかにそこから外れているのだ。ブックフェアに出店すると、「ここでも多数派にはなれないのか」という失望感と、「やっぱりな」という安堵感の両方を味わい、境界人としての自分を再認識する。
どこまでいっても境界に追いやられる自分を、いい加減認めてやるべきなのだろう。
取材や打ち合わせのオンライン化が進み、両親と暮らす家での仕事に限界を感じたコロナ禍を経て、2024年春、茨城県つくば市の実家から京都市北区小松原に拠点を移した。父親の実家跡の更地に家を建て、1Fには喫茶運営のできる文庫スペースを作った。ヒントにしたのは、『彼岸の図書館』の著者・青木真兵さんと青木海青子さんが自宅を開いて作った「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」である。本のある場を持つことで、移住先での孤立を避けられるのではないかとの目論見もあった。
予感は的中した。このあたりはかつて日本画家が多く住んだことから「衣笠絵描き村」と呼ばれたエリアで、近所にはベテランの染色家や書道家などの芸術家がいた。まずかれらとの交流を通して町内に馴染むことができたのは幸いだった。
そのうち、地域の活性化を目指す子育て世代の隣人たちが金土の午後開く「文庫喫茶」を訪れるようになり、かれらの活動に加わることになった。その結果、移住して2年で町内会の副会長を引き受け、ミニコミ紙「小松原しんぶん」を発行する事態に発展。今は地域の野良猫問題に取り組んでいる。通りを歩けば知り合いとすれ違い、挨拶を交わす日々。孤独死の不安は早くも解消した。
もちろんここでも私は圧倒的少数派だ。しかし、異なるコミュニティの間を自由に行き来する「境界人」の特性が発揮できるので無理がなく、居心地がいい。
それにしても、父親の出身地とはいえ、古都・京都である。独身の中年女が移住直後からこんなにも地域に馴染めたのは、文庫喫茶を開いたおかげだ。本屋なら本に関心のある人しか来なかっただろうが、喫茶にしたことで誰もが集まれるセミパブリックな場所となった。世代も立場も異なる人たちが同じテーブルを囲んだことで意気投合し、新たなつながりが生まれる場面を、すでに何度も目撃している。
近所のつながりからこの夏、新刊も生まれた。隣人から、「京都の洋画家・井澤元一の70年代の画文集を復刊してくれる出版社を、画廊が探している」と紹介され、半信半疑で原本をめくったところ、私の知らない京都の真髄が凝縮していると感動し、『新版 古都点描』として復刊を決めた。聞けば画家の家はわが家の数軒先にあったという。「衣笠絵描き村」のかけらをこんな形で受け継ぐことになるとは。
つながりがつながりを呼び、京都のど真ん中にある京都文化博物館での原画展も始まった(9月27日まで)。地方紙や全国紙から取材を受け、大きく取り上げられもした。京都というまちの渦に呑み込まれていくような、不思議な夏だった。
そのように京都のまちに順調に根を下ろす一方で直面しているのが、本が売れないという現実である。移住前後から注文が減り、メディア書評が売上に反映されなくなったと感じていたが、いよいよそれが極まってきた。この頃感じるのは、「本」の概念が変質し、人文書そのものが境界スレスレに追いやられかけているということだ。
昨年非常勤講師を始めた大学では、広く長く読まれ、残る書物より、少数の人に自分をわかってもらうための冊子を「本」と考える学生が受講生の半分を占めていて、愕然とした。「社会」なんて大それたことより自分と身近な人のことだけを考えたい、ここでなんとか傷つかずに生き延びる術を知りたい、そんな人が増えている。昨今のZINE人気も私が感じるアウェイ感も、そこからきているのだろう。
『彼岸の図書館』で内田樹さんは、人文学は「移行期や混乱期や激動期を生き抜くためには絶対に必要なもの」、「人文知は、激動の時代に適切な判断をするための動かない尺度」と語っていた。夕書房の本を「人文書」と呼んでいいかわからないが、内田さんのいう「人文知」を残そうとしているのは確かだし、それこそが本にできることだと思っている。こうなったらとことん「境界」を生き抜こう。出版界の端っこでギリギつま先立ちをしながら「これが本です」と宣言し続けるのだ。
これまで「編集者」を自認してきたが、文庫喫茶でコーヒーを淹れ、他社から著書と翻訳書(いずれもなぜか理系の本だ)も出した今、自分が何者なのかわからなくなってきた。さらに今年は近所の仲間たちと京北地域の田んぼを借りることになり、稲作に初挑戦中だ。来週は稲刈りに行く。秋からは、文庫喫茶の看板を「本とコーヒー」から「本と米とコーヒー」に変更するかもしれない。本と米とコーヒー! この3つさえあれば、人はどんな時代も生きていける。人文書と生活を地続きにすることはできるのか。新たな実験が始まる予感だ。
次は、東京大学出版会の神部政文さんにバトンをお渡しする。人文書の中でも学術書は、文化や学問の基盤となる、社会にとって極めて重要な「動かない尺度」だ。神部さんは日々研究者たちと向き合いつつ、その研究成果をより広い読者へとつなぐ挑戦もされている。なかなか知る機会のない学術書や大学出版会のいまについて伺えたらうれしい。