ハラスメント問題を哲学する──『ハラスメント最終報告』刊行記念トーク(後編) 勅使川原真衣×朱喜哲 対談
記事:晶文社
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勅使川原真衣:では後半では、そろそろ悪口のほうも。
朱喜哲:悪口というか、これを一番聞いてみたいと思ってた話をします。勅使川原さんが、いろんな活動をされてることは皆さん知ってらっしゃると思いますし、公共心や正義感に満ちたアクティビスト的な側面もお持ちであることもご存知だと思います。人情家であり、パッションを持って、「強きを挫き弱きを助く」みたいなことをやる人でもおありだと。で、その勅使川原さんの活動スタンスに、この本の理論的なパートというか、構造的な解釈を持ち込むことって、僕は結構緊張関係があると思ってるんですよ。端的に言うと、構造の問題にするってことは、被害者がいて加害者がいるときに、加害者が悪いっていうふうに単純には言えなくなるんですよね。構造的な問題なんだからと。これって被害者が聞いたらキツいことで、やっぱり一緒に怒ってよと言いたくなりますよね。
勅使川原:なるほど、そうくるか。
朱:あいつが悪いんだよ、僕の人生彼に壊されましたよって言いたくなるわけで。それを、被害と加害ではなく、あくまで構造なんだよと言われるのって、時として渦中にいる人にとっては非常に冷酷に響くことがあり得る。
でもこれは、避けられないところがあって、構造の話にするってことは、ある種の免責を含む、加害者の責任を何かしら解除しちゃうところがあると思うんですよ。一人の人間でもそうですよね。アディクションとか中毒患者の例が最近ではそうかもしれないけど、本人の意思が弱いだけじゃなくて、依存性があるんだし、構造的要因があるんだよっていうと、本人の意思の問題じゃないことになって、ある種気が楽になってる面があるから大事なんだけど、でも責任回避という側面もあるわけです。依存症の例だと、その当事者が被害者でもあるからそれでいいんだけど、ハラスメントのほうには少なくとも実践行為としては加害と被害と名指し得る何かがあった時に、一見すると加害者を免責しているように読まれることがある。
この「社会モデル」が、ややもすると被害者に寄り添っておらず冷たく見える、被害者支援との間にある緊張関係をどう考えてらっしゃって、どんなふうに乗り越えようとされているのかなっていうことは、ぜひ今日対面で直接聞いてみたいなと思っていました。
勅使川原:ありがとうございます。いろいろ思うところはありますけど、まず、私の活動は『バラバラな世界で共に生きる』の中でいうと、バランスを取るっていうのをすごく意識してる部分があります。なんでバランス取らなきゃいけないと思ってるかというと、個人モデルのままハラスメントに対処した時に、あの人ハラッサーだよねとか、ハラスメント気質あるよねって言ってる横で必ずほぼ起きてるのは、「いや、でもあなたも悪いとこあったよね」という話です。
朱:「呼び寄せるタイプ」みたいな話ですよね。
勅使川原:まさに。でもそう考えると、やっぱり個人モデルでハラスメントを見ている限りにおいて、朱さんがおっしゃっている本質主義みたいなものは、職場の中で言うと、能力主義ないしは心理主義と呼ばれるものに近いと私は思います。つまりその個性、性格に問題があるとか、発達障害特性があるっていうようなことですね。本質主義で能力や性格に問題が、とかいうところに立っても、それ自体が空をつかむような話なので、出口がなかったり、誰も幸せにならないんじゃないかっていうのがある。どちらか一方の味方、みたいなことは私じゃない人が既にやっているはずなので、私は割り切れない世の中、組織を描いてみようと思ったんですね。だから全然、冷たくしてるつもりがない。割り切れたらどんなに楽かね、と一緒に悩みながら書いているイメージでいたので。ハラスメントのリアルってほんとに複雑だから。あるときにある人を糾弾してるつもりで、また糾弾し返されたりとかって、ごく当たり前に起きてると思う。
朱:その渦を書いてるんですよね。
勅使川原:渦です。ほんとに。
勅使川原:人間って面白いなと思うんですけど、渦が本当に合わせ鏡みたいになってるんですよね。自分の嫌いな部分を相手に見つけてみたりとか、反射し合ってるような感じなので。
朱:負のフィードバックループが始まっちゃうんですね。
勅使川原:そうです、そうです。あと、昔すごい仲良かったと思ってた人から受ける被害とかも結構あったりすると思うので、本当に仲が悪いとか嫌い合ってたら起きないっていうようなとこまで含めて、どちらかの立場には私は立てませんっていう感じで書いてる。それが私なりの誠実さ。
朱:そうか。でもこれすごいな。僕も仰ったような意味合いにおいて、構造に訴える論法はある種の治療的な効果があると思ってたんですよ。やっぱり自分がトラブルを引き寄せちゃうのかなとか、あるいは自分はハラスメント気質があるんだとかいう本質主義的な問題にしがちだと思うんですよ。やっぱり、責めちゃうじゃないですか。自分を責めちゃったり、誰かを悪魔化しちゃったりすることをやるわけで。でもそれは関係的にたまたま立ち上がってくるだけで、過剰にそう思っちゃう構造のせいなんだって思えると、治療的な効果もあるだろうなと。
これも分業なんですかね。うーん。でも今まさに渦中にある人にとっては、やっぱり「いや、あんなひどいことないよ、あんなハラッサー、ひどいよ」って言いたいし、僕の知ってる勅使川原さんって──メディアを介してしか知らなかったので、今日初めて会ったんですけど──、本当に弱くされた方に寄り添ったり、まさに今異議を申し立ててる人に対しては一緒にいるよっていうタイプの言動をなさるという気がしてたので、こういうことを聴いてみたわけです。
多分タイミングを見てやれば、やっぱり構造の問題だよねっていう話は治療的効果があるんだけど、まさに渦中にある時にはめっちゃ酷なことを言っちゃうことにもなり得るというのは、どうなんでしょう。そこは棲み分けなのか、時系列なのかわかんないかもしれないけど、ご自身のスタンスとの間で緊張はなかったですか?
勅使川原:うーん、どんな状況の万人に効く一冊というのは難しいと思うので、私の本で何かしっくりくるタイミングの方がいたらうれしいなと思っているだけです。ってご質問に答えているでしょうか? なんと言うのかな、今非常に辛い思いをされてる方が読んだとしてもですね、心を開いて読んでいただくと、そういえば高校生の時似たようなこと自分もやったことあるなとか、会社ではこういう弱い立場に追いやられてるけど子供の頃はどうだったかなとか、入れ子のように加害被害っていうのはあるんじゃないかと思ってます。だから、本当に意図して「あなたかわいそうね」は、私は現場でも絶対言わない。
朱:なんでこの質問をしたかというと、僕も多分目指すところがかなり似てるからなんですね。『バラバラな世界で共に生きる』でも書きましたが、ローティはマイノリティのアイデンティティ ・ポリティクス、つまりアイデンティティを究極的な根拠に据えた政治活動についてかなり冷淡なことを書いてる哲学者で、90年代には左派から叩かれていたわけです。でも僕はローティの洞察は正しい面があると思ってて。つい人が、被害者であったり、マイノリティ当事者であったり、被差別者であったりっていうことを──ちょっと言い方非常に難しいんですけど──、自分の本質としたり、全人格化しがちなところがあるんですよね。もちろん大事なポイントで、こだわるべき要素があると思うんですけど。
勅使川原:うん。
朱:でもそれを根拠にすると、「それだけじゃないでしょ。あなたは男性でもあるし」とか、「やっぱマジョリティ性も持ってる面があるわけだから」となる。マイノリティ性だけを全面化した主張って、それをアイデンティティの根拠に据えているので、「私はこうだからわかるんです。あなたは体験してないからわかんないでしょ」って論法を生み出しやすくて、これが人を黙らせちゃう。論法自体は誰だって使えるから。その行きつく先が、今アメリカでは、白人労働者こそがしんどいんだとか、男性の方がつらいんだとかって言い始めて、調停不可能の争いになっちゃってる。それが彼の予言したことで、現代社会でまさに実現しちゃってるわけですよね。
勅使川原:そうですね。属性間の争いに固定しては、出口が見えない。
朱:マイノリティっていうのは人格的なものじゃなくて、状態のことだから、「マイノリティ状態に置かれている」「当事者状態にある」だけ。でもマイノリティ性を自分の本質や人格だと見なしがちだったり、あるいはちょっと倒錯してますけど、そういう要素に依拠しないと発言権がないとさえ思ってる人もいるわけですよ。SNSなんかだと、告発者であるとか、私は当事者だから言えますとかっていう風に、何か置かなければ聞いてもらえるに値しないかのように思っている人がいる。そうするとみんな変なマイノリティ競争とか、被害者競争とかを始めちゃう面があって、それは明らかに不健全だし、おかしいから、普通でいられる、何も考えないでいられる、無徴でいられるって普通に良いことだし、まずそこから始めましょうということを考えたい。マジョリティ/マイノリティっていうのは状態であって、願わくばそれが社会的に問題にならないようにすべきである。それを自分の根本的なアイデンティティに据えてしまうのはある種の抑圧でもあるし、とりわけ支援者が当事者をその檻に閉じ込めてしまうというタイプの暴力もある。この側面をちゃんと考えましょうっていうのが、僕がローティから引き出した現代において重要なメッセージです。だから『バラ生き』でも最後に「マジョリティのための哲学」がいるんだって話を書いてるんですけど、その意味では目指してることが勅使川原さんとかなり似てるところがある。この道って自分の自覚としても結構難しい道だからこそ、すごい理論構成が大事で、どんな順番でどんな話をするんだろう、どんな状態の人に何を伝えるんだろうということが問われるなと思ったので、勅使川原さんならではのバランスはぜひ聞いてみたかった。それが今聞いたことのモチベーションの部分でした。
勅使川原:ありがとうございます。なんかあんまり考えられてなかったなと思ったんですけど、でも、ちょっと教えていただいた分業?
朱:はい、分業。
勅使川原:っていうところは、私にとってはなんだろうか、と今話しながら考えてみてます。それで言うと、自分の本が分業かなって。今この本で13冊目が出て。
朱:すごいですよね。最初の本は何年?
勅使川原:2022年のクリスマス。
朱:すごくないですか? 出版業界騒然ですよ(笑)。この驚異的な生産量。
勅使川原:西の横道誠、東の勅使川原。
朱:すごい書きっぷりですね。
勅使川原:そうなんです。でも、その一つひとつの本が、私の中では分業。
朱:役割が全部違うんですね。
勅使川原:そういうことなんです。でも、能力主義とか、ハラスメントとか、社会が信じて疑ってない言葉を解体するっていう意味では通底していて、扱いたい社会問題が無数にあるので、自分なりに一冊一冊役割を持たせて書いている。本同士に分業させてるイメージです。『バラバラな世界で共に生きる』の中に、口を塞がないっていう表現が出てきますよね。私もいろんな本で、口を塞がないことがゴールだってすごく書いてきたので。
朱:黙らせない。
勅使川原:それです、黙らせない。何でもいいからちゃんと発言できている状態っていうのが健全だと思ってきたので、本を書くときも批判が出たらすごく嬉しいなと思って書いてる部分があるんですよね。それが「冷酷さ」やただの非難だと困りますが。何か私が正当性を持って発言してるってことじゃなくて、たまたま今発言権が回ってきてるのでさせてもらうけれども、ぜひご意見くださいって感じで書いてる部分はあります。
朱:面白い。あと関連する話で、「関係的自立」ということが最近すごくよく言われますね。小児科医で当事者研究の熊谷晋一郎さんがおっしゃってますが、「自立」っていうのは誰にも頼らないことじゃないんだと。たくさんのものに頼ってるからこそ、それを忘れて自分が自立してるかのように思えるんだって。
勅使川原:依存先を増やすこと。
朱:はい、依存先を増やすことが自立なんだっていう、関係論的な自立とかっていうふうに言ったりもできますけど、こうした現代的な概念も、本書では「関係論的ハラスメント」として仕込まれたりとか、なんかすごい鮮やかだと思います。
朱:もう一個批判ではなくて、僕だったらこういうふうに考えられないかなと思ったり、これ考えましたか? と聞いてみたいことがあって。僕はこの本読んで関連すると思ったのは、構造的問題という字面にも引っ張られてのことなんですが、政治哲学者アイリス・マリオン・ヤングの「構造的不正義」という理論でした。これを想起したんですけど、そこは踏まえずに書かれてますか?
勅使川原:まったく。ぜひ教えてください。
朱:アイリス・マリオン・ヤングは、『正義論』を書いた20世紀を代表する政治哲学者であるジョン・ロールズの仕事を批判的に継承した人です。ロールズは、リベラリズムを現代に建て直した立役者ですが、その分ロールズにはたくさんの批判がある。政治哲学が「ロールズ産業」になったと言われるくらいです。で、その有力な批判の一つがヤングによるものです。ロールズの主張をちょっと端折って言うと、私たちはみんなバラバラなんだ、何をいいって思うか、どんな価値判断を持つかはみんなバラバラで違うんだよと。しかもそれは時として、ないしはしょっちゅう対立しちゃうと。そういう一触即発の危険に満ちた私たちが、なんとか社会を維持していくためのシステム、ルール作りが必要で、それを「正義」と呼ぶんだというふうに、個々人や集団が持つ「善」と区別したわけですね。
そこでずっと議論があるのは、「正義」と「善」を分けて、正義とは個人が背負うものではなくシステムでありインフラだと言っちゃったら、じゃあ心の底からそれを望む人っていないじゃないですか? とか、善と正義は違うって言っちゃったら、どうやってその正義を望む気持ちを調達できるんだろうか? そういう議論がずっとあったんですね。いくつかのアンサーがある中で、ヤングが打ち出したのは、我々は正義を共有せずとも、むしろ「不正義」において一致し、それに対処する責任を一緒に持ってるんだという議論です。
ヤングは、我々は不正義とは構造的なものであり、私たち皆が社会の構成員として、その不正義への責任を分かち持ってるんだっていう言い方をします。これが「構造的不正義」ですね。ですので、不正義は──ハラスメントと同様に──まさに当事者たちだけの問題ではなく構造なんだと。ここからがヤングのポイントなんですけど、社会における不正義の責任をみんな持ってますよ、みんな責任がありますよって言うと、「いや、僕がやったわけじゃないですよ」とか、あるいは例えば「なんで生まれる前の戦争の責任を問われるの?」といった反発が出てくる。僕が手を下したわけじゃないですよとか、ハラスメントでも、いや、私見てただけだしとか、自分はハラスメント発言したわけじゃないですよ、みたいな風になる。構造の問題にするってことは──この言い方はあんまり好きじゃないんですけど──、どうにか「自分ゴト化」してもらうための理路ではありつつ、でもあなたを責めてるわけじゃないんですよっていう、ちょっと矛盾したことを一緒にやんなきゃいけないんですよ。これに対するヤングの処方がテクニカルで面白くて、構造的な責任があるときには、そこには「前向きの責任」と「後ろ向きの責任」があるんだというんですね。過去への責任と未来への責任がある。例えば、過去の侵略戦争への責任のようにかつて日本社会として構造的に犯した不正義があるとして、過去に起きたことへの責任は、これはもちろん今の構成員が責められる話ではない。でも、みんながその構成員ではあるから、未来向きの責任──これを改善しなきゃいけないとか、今未解決の不正義があるんであれば、よりマシにしなきゃいけないとか──、こうした前向きの責任は一緒に持ってるんだよと。だから構造的不正義論っていうのは、あなたにも責任があるんだよって言ってるけど、それは後ろ向きの責任のように誰かの過失を問うてるとか、罪を割り当てるモデルじゃなくて、前向きの責任を共有してるんだよ、未来志向の責任っていう形でみんなでそれを分かち持つような理屈にしようっていうのが、ヤングの構造的不正義理論です。
勅使川原:うわぁ目から鱗。使おう。
朱:これ使えると思ったんですよ。だから勅使川原さんは、これをあえて使わなかったのかも? と聞こうと思ったんです。やっぱりハラスメントの話も、私見てただけなのにとか、知らなかったっすとか、みんな絶対言うじゃないですか。
勅使川原:ご自身は本当にそう思ってるんですよね。
朱:本当にそうなんですよ、主観としてはね。その時に責められてると思っちゃうと、頑なになっちゃう。どうやってハラスメントの社会モデルを定着させるかってときに、前向きの責任と後ろ向きの責任っていう、過去の責任と未来志向の責任を分けて考えて、前への責任をみんなで持っていることにすると、職場環境をもっと良くするってことにみんなコミットできるよねって言い方はあり得ると思って。
勅使川原:ありがとうございます。ほんとそうですね。不勉強で存じ上げなかったんですけども、確かに罪を免れるっていう意味じゃなくて、前向きというか、未来に向けて何かできることないか、ということですね。知らないっていうこととか、傍観するってことも、構造というか、からくりを知っていれば、ちょっと違う対応ができたんじゃないかと思います。そうしたからくりを知るっていうことが、能力主義とか、ハラスメントとかを本質論的に捉えるってことに抗い得るのかなと思って、私はやってきたんですね。職場のハラスメントとか、職場の能力主義とか、人事評価みたいなのをある種仮想敵だと思ってやってきたんですけど、それって多くの人のライフコースでいうと、たいていは教育の場から労働の現場に行くので、それでいうと、労働の現場にしっかり関わって評価の軸を変えることが、私にとっての前向きの責任だと思ってて。いくら教育理念が~と言ったところで、食っていけなければ困るは困る。となると、良し悪しは別として教育から労働へといくばくか水路づけられる世のなかにあっては、出口側つまり労働側にタッチするのが先決だと思い至るわけです。
朱:うん。面白いですね。
勅使川原:だから私が理念のことを言ってるように聞こえる人もいらっしゃるみたいで、「勅使川原さん、能力主義批判してるの、教育を変えろってことですよね」ってよく言われるんですけど、違うと思ってます。教育を変えるためにも、労働側の人の評価が変わらないと、教育側は変われない。だから私はコンサル辞めない。こんな面白い臨床ない。そしてフィールドノートが溜まったらまた分析したり執筆したりと、行き来しつづける。
朱:めちゃくちゃ納得しました。企業組織とか会社を全く知らないアカデミシャン、大学の人ほど、企業やビジネスパーソンを馬鹿にしがち問題っていうのもあって、それに対しては、そんな私欲を貪ったりするためだけに働いてる人なんて見たことないっすよぐらい言っていいと思ってます。みんな仕事を通じて世の中がよくなってほしいと思ってるし、身近な人の幸せを願ってる。それぐらいには良心的だし、パブリックマインドを持った人たちが働いてるんだけど、でも問題が起きることがいっぱいある。その中で、いろんな意味で働いてる人たちを侮らず、その人たちの善性を低く見積もらないっていうのが勅使川原さんのスタンスだなと思ってますが、すごい納得するし、僕もマインドを同じくしてます。
勅使川原:同志。ありがとうございます。
朱:今は、IT領域を中心に企業が公共的なインフラを一手に担うようになっちゃって、民間企業が国家をはるかにしのぐデータを保有し、それを管理・運用する責任を持ってしまっている時代です。これまでは国民国家みたいな概念であれば、我々は市民として国に権限を委譲し、一定の社会契約を交わしているわけだけど、民間企業がこれだけパブリックインフラになってしまった今、企業と我々市民はどういう関係なんだっけ? ってことをあらためて考える必要がある。企業とかビジネスへの解像度がすごい粗い感じの学者とかだと、企業とその従業員は全部資本の手先だ、という乱暴な話にしがちだけど、いやいや、そうじゃないでしょと。
仮に企業という存在が邪悪なものになってしまってる要素があるとして、それを是正する力が人にはあるわけだから、会社員としても、あるいは同時に市民としても、そこにどう関われるんだろうってことがあるはず。そこをエンパワーしてこそ人文知だと僕は思ってるので、勅使川原さんもそのモチベーションなのかなと思いながら、ちょっとこわごわ今日話し出したんですけど、完全にそうだなとわかって、めちゃくちゃ納得しました。よかったです。
勅使川原:市民って言葉がいいですね。
朱:はい。市民でもあるって言いたいなと思いますね。
勅使川原:シティズン。
朱:ちょっと宣伝になりますが、今月ちょうど『はたらく人文知』という本を、光文社から編著で出します。一部ではもう並び始めてると思うんですが。
この本はまさにビジネスパーソンたちを中心に、アカデミシャンもまじえながら、今人文知って何が求められてるんだろうとか、ビジネスの中で人文知はどう使われてるんだろうとか、どうやって自分自身を理解するんだろうと、みんなで徹底的に6時間話したイベントを本にしたものです。僕も編者として全体の構成と「おわりに」を長めに書いています。ビジネスの現場、企業でも、人文知が今求められてるんですよって言うと、すぐ人文の中の人──アカデミシャン、大学の人──とかがいろいろ悪く言いがちだったりするんですよね。利用されてるとか、魂を売ってるとか。でも世の中をちょっとでも良くしようと思ったら、そこにもリーチしなきゃだめだし、我々の一日の大半は働いてるわけだから、企業に限らず組織の中で働くこと自体をちょっとでもよりよくしていかなきゃいけない。そこから目を背けるのって何なんだろうという憤りを持っていたので、この話をしてみました。『はたらく人文知』も関連書になると思うので、ぜひ。
勅使川原:嬉しい。なんか対談本っていいですよね。シンプルに対談相手同士が分業しているし。
朱:分業。『はたらく人文知』という本も、最終的な結論として、やっぱり分業ですねって終わるんです。
勅使川原:出た、分業。
朱:冒頭にも予告したように、勅使川原さんが本書で「ハラスメント」概念についてやってらっしゃったように、この「分業」の概念をもう少し分析して、今の話を続けてみます。「それぞれの現場で頑張りましょう」と言うのって簡単じゃないですか。しかし、「分業」はもう少し味わいがいがある概念なんです。『資本論』のマルクスは、みんなで一緒に働くことについて、二種類の概念を区別するんですよ。「分業」と「協業」という風に。マルクスは、産業革命に伴い資本家によって分業が生じたんだっていうんですけど、そこでの分業っていうのは、例えば工場のライン工みたいに、仕事のプロセス全体を分割して、その部分をやってもらいます、というものです。誰も全体がわかんない状態で、あなたはこれやってください、ネジ組み立ててね、こっちはパーツはめてねとかっていう風にやって、全体像は資本家しかわかってなくて、労働者は孤立した分業状態に陥る。これがマルクスが言うところの分業ですね。
これによって労働者が「疎外」されるんだって、マルクスは言うんです。自分が何をやっているのか、社会の一員として何を果たしているのかがわかんなくなっちゃう状態で働き続けるのが、労働者の疎外であると。一方で、一緒に働くって、分業だけじゃないよっていう言い方をして、それを協業、コ・オペレーションっていう風に言うんです。コ・オペレーションっていうのは、例えば、指揮者の下でオーケストラがみんなで曲を奏でる。これは協業なんですよね。全体をイメージしながら同じ仕事を一緒にやってる。でもこの例がそうであるように、協業と分業は対立的な概念じゃない。オケの人たちはもちろん自分のパートを弾いてるっていう意味で分業してますけど、でも同時に全体もわかってるわけです。だから協業になってる。大事なポイントは、現代社会ってもちろん分業せざるを得ないんだけど、分業したからといって即疎外されるかというとそうじゃなくて、ちゃんと自分が全体のプロジェクトのどこを担っているかがわかりさえすれば、疎外からは解放されるはずなんですね。だから『はたらく人文知』のネタバレになりますけど、6時間話した最後に言うことは、やっぱりこうやって初めて会う人たちも含めて、いろんな場所で働いてる人たちが顔を合わせて話すから、こういう人もいるんですね、こんなプロジェクトやってるんですね、僕たちはみんなでなんか大きなプロジェクトの一部になってるかもしれませんねって思えて初めて、マルクスが言う疎外を生む分業じゃなくて、協業を一緒にやってるんだって思えるわけですよ。だからやっぱちゃんと会うの大事なんだよっていう風に結ばれるんですけど。
勅使川原:なるほど。会うのも大事。話すのも大事。あと、私の方で繰り返しお伝えしてるのは、曖昧さをなくすことが、分業と協業を分かつのかなというのはあります。
勅使川原:あと、朱さんの本とも接続するなと思ったのは、曖昧さをなくすニアリーイコール、人間を過度には過信しすぎないということ。人間は皆大事な存在だけどもどんな立派な人も、しょうもないことが必ずあるわけで。みんな頑張ってるけど、結構、愛すべきポンコツよねっていう感じ。自信を持って自分を疑うみたいなことを日頃講演などで私は言ってるので、なんかそれを朱さんからも感じたんですよね。
朱:それはそうですよね。全然そう思います。
勅使川原:正しさで殴り合う世の中で、過信はできないんじゃない。可謬性を考える。
朱:アイロニカルな態度ということですね。そうじゃないかもしれないけど、あり得ると思いながら、でも正しさをちゃんと続けながらやるっていうことですね。その話は確かに『ハラスメント最終報告』で貫かれてる姿勢ではありますよね。
先ほどの話も踏まえて言うと、私は帯文の中で、私たちみんなが分業して立ち向かうということ、って書いたんです。でも、この本があれば、単に分業じゃなくて「協業」になり得る。ハラスメントを撲滅するっていうのは、加害者を排除することではできなくて、構造をどうやってよりマシにしていくのか、それをみんなでやるっていうことだと、さっきのヤングの言葉で言えば、前向きの責任として書いたんです。
勅使川原:あ、そうか。
朱:協業の考え方をこの本を通じて共有されれば、我々はそれぞれの場所でそれぞれのことをやればいいということになる。前向きに普通にやるべきことをやればよくて、何を目指してるのかが共有できれば。悪い分業ではなくなる。
勅使川原:そうかもしれない。
朱:そこまでを込めたところで書いたということでした。
勅使川原:びっくりしました。なんか離れ技だと思いました。
朱:いえいえ。こんな説明を要する帯文ですみません…。
勅使川原:さっきあいまいさの話をしたのは、多くの企業ではあいまいさをなくすっていうことをあんまりされてないような気がするんですね。いまだに一人の人間に万能さを求めて、融通無碍さを求めて、マルチタスクを求めて、なんとかやっていこうとしてる。この『ハラスメント最終報告』でも最後の方に書いてるんですけど、やっぱり何も決めないぐらいだったら、ちゃんと職務要件を定義してって思っていて。私は協業っていうのをいいものとして捉える以前に、別に分業でもいいと思っていて。分業すらもできてないところが、日本のメンバーシップの問題の片鱗だと思うので、それこそ冒頭の話なんですけど、「合理的配慮」とか「思いやり」とか言っているぐらいだったら、職務要件を定義してちゃんとあなたの成果責任ここですよっていうのを伝えるところから始める方が、企業にお勤めの方はわかりやすいかな。
朱:僕もゲラでいただいて読んでいたので、やっぱり分業ってあえて使ったのはそこから入ってるなと思ったことはあります。これ後付けじゃなくて、おっしゃるように今は、その分業すらちゃんとできてない状況なわけで。そこから入った上で、でも私たちは同じプロジェクトに従事してるはずなんだよってこともうたってくれてると思ったので、ここでは協業じゃなくて、あえて「分業」とした意図はあります。
勅使川原:嬉しいな。ありがとうございます。全部読み込んでくださってますね。
朱:もちろんです。今日は、勅使川原さんのユニバースの全体像に驚かされました。ありがとうございました。
勅使川原:こちらこそありがとうございました。