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清田隆之さん「戻れないけど、生きるのだ」インタビュー ジェンダー格差が明らかになった社会、「おじさん」はどう生きるか

清田隆之さん=江藤海彦撮影

「おじさんの在り方」を書き換えていく

――本書の第二章のタイトルは「我は、おじさん」ですが、「おじさん」を自称するのに抵抗はありませんか?

 現代社会の「おじさん像」には、どうしてもネガティブなイメージがつきまといがちですよね。それは、これまでの歴史のなかで、散々年上の男性から嫌な思いをさせられてきた人たちが多いからだと思うんです。女性はもちろんのこと、男性にだってそういう人は一定数いるはず。自分も若い頃は、マッチョな体育会系の人や業界の先輩から、ハラスメント的な扱いを多々受けてきました。だから、どうしても「おじさん」という言葉には負のイメージが付与されてしまっている。

 ぼくも40代に入って、「おじさんの枠に入れられるのが怖い!」と思うことがありますが、でも、仕方ないとも思う。そんな状況で自分にできることはなにかと考えたときに、「おじさんの在り方を書き換えていくことだ」と思ったんです。

――自ら「おじさん」としての生き方をアップデートしていく、ということでしょうか?

 そうですね。本でも紹介しましたが文筆家の岡田育さんは『我は、おばさん』という著書のなかで、「おばさん」のイメージを再定義されました。さまざまなエンタメ作品を紐解いて、「素敵なおばさんとはなにか」を提示したんです。あるいは小説家の山内マリコさんは、『マリリン・トールド・ミー』で、マリリン・モンロー(アメリカで1950〜60年初頭に活躍、同時代のセックス・シンボルの一人とされた女性)の人物像の刷新を試みました。

 彼女たちの刺激的なテキストに感銘を受けたこともあって、自分の中にも「おじさん像を書き換えていくにはどうしたらいいのか?」という問いが生まれたんです。とはいえ、それはただ格好いいおじさんについて語るだけ、では足りない。

 ぼくら男性は歳を重ねれば重ねるほど、周囲に気を使われて、無自覚なまま権力を持ってしまうことがある。その無自覚な部分に気付かなければいけないですよね。まずは自分自身の加害性や権力性を自覚し、手放すべきものは手放し、声を上げるべきものには上げるなどしながら、素敵なおじさん像を地道に模索していくべきではないか。そういう複雑な作業をしていかなければいけないと思います。

男性同士で語り合うことの重要性

――清田さんの考え方は、いわゆる「フェミニズム」を起点とされるものだと思います。が、ご自身のことを「シスターフッドの外側にいる」と書かれていますね。

 フェミニズムと出合い、性差別という巨大構造と戦うフェミニストたちの姿に魅了され、自分自身も妙に尖ってしまった時期がありました。女性蔑視による炎上や性犯罪のニュースを取り上げては、いっぱしのフェミニストを気取って「男性」を叩くんです。男が男を叩くと珍しがられ、SNSで記事がバズったりもして、それで気持ち良くなっていた部分がお恥ずかしながらありました。

 でも、「そもそも、男性と女性とでは見えている景色が違いすぎるかもしれない……」と徐々に感じるようになってきて。日常に潜む性暴力や職場での差別、家庭内での役割分担など、さまざまなエピソードを聞いていくうちに、「自分は男性で、属性的には加害者側」「女性たちの連帯の輪には入っていないのだ」と、自分の立ち位置を見つめ直さざるを得なかったんです。

――本書の前作ともいえる『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)も含め、清田さんは過去にやってきた失敗もたくさん開示されています。

 シスターフッドの外側にいることを受け止めて、同時に、自分が男性としてやらかしてしまった加害やハラスメント、ホモソーシャル(同性同士の社会的なつながり)を内面化していたことなどを語ることは重要だと考えています。それによって男性性の問題を解き明かすヒントが見えてくるのではないか、と思うんです。ただ、「開示」といわれるほど大仰なことをしているつもりはなくて。フェミニズムについて学ぶにつれて、過去の失敗の記憶が呼び起こされるので、それを淡々と書いているだけというか……。自分の場合はこういうことがありましたよ、って。

――一人ひとりの男性が体験を語ることによって、ジェンダーにまつわる歪な構造を改善していくことにつながる。

 そうなっていくといいなって思います。自分はたまたま文章を書く仕事をしているので、こうして公に向けて発信していますが、もちろん全員がそうする必要はないと思います。もっと気軽に、たとえば男性同士で「俺、昔こんなことしちゃったんだよね」「なんであんなことしたんだろう」とか喋れるようになったらいいなと。そうする中で、背後にあるジェンダー問題の構造が少しずつクリアになっていく気がするんですよね。

 たとえば「男性には特権がある」と指摘されたとき、「俺、そんなに優遇されてないぞ!」と反発したくなる気持ちがわいたりしますよね。それは見えていないものが多いからだと思うんです。

 女性は夜道を歩くだけで恐怖を感じたり、自宅を特定されないように遠回りしたり、エレベーターで男性と二人きりにならないように気を使ったりしながら生活している。一方で男性は、コンビニまでふらっと行けたりするわけじゃないですか。必要以上に用心しなくて済むというのも、特権のひとつです。

 そういうことを男性同士で喋ってみると、「女性ってこういう瞬間に恐怖を感じるみたいです」「警戒されるのはつらいけど、そういう背景があると思うと感じ方が変わりますね」など、いろいろ率直な意見が出る。それは多分、男同士だと「怒られるかも」「責められるかも」という不安が生じないからだと思います。

ときに迷い、右往左往しながら前へ進む

――「特権」の話にも通ずるんですが、「男は下駄を履かされている」という事実に落ち込む男性も少なくないですよね。自分は実力で評価されていたのではなくて、男性だからだったのか、と。その事実を受け入れられない男性もいますよね。

 わかります。そもそも、ジェンダーを専門的に学んだことのない自分がこういった本を書かせてもらえているのも、おそらく男性だからという部分が大きいはずで……「男性には特権がある」なんてことを書きながらも、自分の置かれたこの状況を思うと、自己矛盾のようなものを抱きます。とはいえ、すべてを手放せるわけでもなく、葛藤しながらやっていくしかないというのが正直なところです。

 ただ、この「特権」というのはジェンダーにおいてだけ存在するものではなく、たとえば「東京に住んでいること」だって特権だと言えなくもない。ニュースも天気予報も交通情報もカルチャーも、あらゆるものが東京中心ですし、渋谷や新宿といった都内の地名はいちいち説明しなくたって通じる。

 でも、あらゆることに葛藤していたら身がもたないけど、だからといって開き直るのも違う。なので、自身の特権を理解しながらも、しょうがない部分もあるし、と右往左往しながらちょっとずつ前に進んでいくしかないということも、新刊のエッセイでテーマにしました。

――見ないふりをするわけでもなく、完璧に開き直るわけでもない。右往左往しながらも考え続けるというのは誠実な態度かもしれません。でも、そこで男性に降りかかるのが「男らしさ」の呪いではないでしょうか。男なら迷うな、はっきりしろ、と。

 そうなんですよね……。ブレず、迷わず、まっすぐ突き進む態度は確かに格好いい。でも、「男なら迷うな、泣くな、強くなれ」というのはある種のファンタジーだとも思うんです。強さと怯えが同居していたっていいじゃないですか。

 フェミニズムの本には多様な女性像が描かれている。それと同じように、男性にだっていろんな人がいるはず。それを当たり前のものとして認められるようになると、男性自身も生きやすくなると思います。

もう戻れないからこそ、生き方を模索するべき

――性差による「べき論」が薄れていくことで生きやすくなる人は確実にいますよね。でも、本書でも書かれていたように、若い人たちの間では家父長制を再生産するようなショート動画が流行っているとか。

 桃山商事のPodcastでも「男磨き界隈」というテーマで特集し、すごい反響がありました。マッチョでギラギラした男性の発信者が、「女にモテるためにはこうしろ」とか、「モテない奴はダメだ!」とか、断言調で指南しているんです。

 そこでは「ナンパして経験を積め」「誰でもいいから女にアタックしろ」「筋トレしない男は一生モテない」なんて極端な言説が飛び交っていて、そういった動画が何十万回も再生されている。本はせいぜい数千部の世界じゃないですか……そう考えると、その影響力は計り知れないなって。

 男性性の問題を書いたことで、男性からも「自分も考えていかなきゃいけないと思いました」というようなメッセージをたくさんいただくようになったんです。著名人や権力者の性加害が次々と明るみになっていく中で、世の中的にも男性性に対する批判の声が大きくなっていますよね。でも、それに伴って「もうジェンダーには関わりたくない」「どこまで反省すりゃいいんだよ」「なんだかんだいって、女だってマッチョな男が好きじゃん」という反発の声が男性から届くようにもなり……。「バックラッシュ」と呼ばれる空気も増しているように感じます。

 件のショート動画が流行るようになったのも、そういった流れの一部かもしれない。マッチョな価値観の拡散に抵抗していくためには、ただただ真面目に考えているだけではダメなんじゃないか……という思いも正直あって。ジェンダーの問題と楽しく向き合うためには、感動やときめき、笑いや癒やしも必要ではないか。本書のなかで「男性同士でお茶しよう」「好きな男について語ろう」と書いたのもそういった視点からでした。

――マンガや映画に登場する格好いい男性キャラクターについて語り合うことで、自分たちに足りない部分も見えてきますよね。

 そうそう。時代が進み、男性の特権や加害性なども可視化、言語化されました。そして、大勢の人がそれについて知ってしまった。もはや過去には戻れないと思うんです。なにも知らずのほほんと暮らしていた頃には戻れない。だったら、この先をどう生きていくのかをみんなで考えなければいけない。本書のタイトルには、まさにそんな思いを込めています。この本が、男性たちがジェンダーについて語り始めるきっかけになったらいいな、と思います。