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後藤乾一「われ牢前切腹を賜る 玉蟲左太夫とその時代」インタビュー 「近代知の原型」をたどる

後藤乾一さん

 万延元(1860)年、幕府の遣米使節団に加わった仙台藩の中級藩士・玉蟲左太夫は、克明な記録『航米日録』を残している。

 米人水夫が病死し、水葬した時のこと。米船将ら高官の〈悲歎(ひたん)ノ色〉は、〈其(その)親切我子(わがこ)ノ如シ〉と思う心情の表れであり、ここに米国の隆盛の因をみるという。

 また、米国では外交や宣戦なども〈衆ト会議シテ〉決めると知る。〈縦(たと)ヒ大統領ト雖(いえ)ドモ〉、独断専行は許されない。儒教的教養で育った玉蟲の中で、「夷人(いじん)」が「異人」に変わっていく。

 インドネシアを中心に、東南アジアと日本の関係史を研究してきた著者が、玉蟲にひかれたのは、米国からの帰途、オランダ領東インドの首都バタビア(現インドネシア・ジャカルタ)に滞在した際の描写を読んだからだ。

 〈学校・病院・芸術館・寺院・音楽堂都(すべ)テ備(そなわ)ラザルコトナク、又(また)四達ノ地ニハ戯場・曲芸所・骨董(こっとう)店等列布シテ人常ニ相集ル。而シテ支那人・蘭人(らんじん)ト市街ヲ分ツ〉

 「植民地近代の姿を、正確に客観的にとらえています。地域研究の先駆として、注目されていい。日本人の『近代知の原型』を思わせます」

 玉蟲が書き残した諸文書を読み、足跡を追った。蝦夷地・樺太を視察し、詳細に記録したこと。その情報収集力への評価が、遣米使節団につながったとみられること。政治・社会情勢を記す『官武通紀(かんぶつうき)』全42巻を編纂(へんさん)したこと。

 そして戊辰戦争勃発。仙台藩内の対立から、捕らえられる。明治2(1869)年4月9日、牢前切腹を命じられ、数えで47歳の生涯を終えた。

 「玉蟲は言論の自由の必要性や、賄賂の厳禁など、『治国ノ大要』を説きました。現在の日本を考えるヒントを提供している、と思います」

 著者の第1作は、オランダとの独立戦争で、インドネシア独立軍に身を投じた市来竜夫(いちきたつお)の評伝『火の海の墓標』だった。首相の密使として沖縄返還交渉にあたった若泉敬の生涯をたどる『「沖縄核密約」を背負って』も書いた。

 「若泉さん、市来、玉蟲。求道者的なところが、私の中ではつながっていましたね」(文・石田祐樹 写真・葛谷晋吾)=朝日新聞2024年10月26日掲載