子どもの頃、『おおきなきがほしい』という絵本が大好きだった。
主人公さとるが「ほしい」と思う大きな木は、はしごがかかり、ほらあながあり、彼がホットケーキを焼いて食べられるような小屋まである。
特に私が大好きで繰り返し眺めていたのは、さとるが木の上の小屋で過ごす一年に思いを馳せるシーンだ。
夏は涼しく快適で、蝉やとんぼが遊びに来る。秋はもみじやいちょうの葉っぱが舞い込み、かけすが遊びに。冬はストーブを持ち込み、そこにリスがくるみを持って遊びに来る。そしてまた春が来ると、木に咲く花々の色に思いを馳せる──。
子どもが思う、理想的な秘密基地。本の中の美しい絵を眺めながら、現実の自分のパッとしない日常との落差に羨みと憧れのため息をついていたことをよく覚えている。
当時の私の遊び場といえば、家の近くにある神社の境内。宮司さんが常にいるような荘厳な感じのところではなくて、地域の人たちで管理しているような小さな神社だ。子どもの遊具もたくさんあり、学校から帰ってとりあえずそこに行けば、誰か友達が必ずいるという具合だ。
春には地域のお祭りがあって、子どもたちみんなでお神輿を担ぐ。大きな桜の木の下でお花見をして、ふるまわれた甘酒を飲み過ぎ、「この子、酔っぱらってる!」と母が気づき、それから何年も「お前は小さい頃に甘酒で酔っぱらって」と家族から笑われていた。
夏には、みんなで集まり、夏休みのラジオ体操。それが終わると、隣にある広場で子どもクラブのバレーボールの練習が始まる。蚊にさされるから早く帰っておいで、と両親が呼びに来るまで、真っ黒に日焼けして遊んだ。夜、誰かがしているロケット花火の音がひゅるるる、と家の方まで聞こえるのもなんだか好きだった。
そして、秋。この季節の神社が私は一番好きだった。境内のあちこちに曼殊沙華が咲き誇る。あちこちが真っ赤に染まった境内で、友達と鬼ごっこやかくれんぼをしていた。銀杏の木がたくさんあり、風が吹くと、近所のおばさんたちがみんな、屈んで銀杏を拾っていた。子どもたちもみんな、においに顔をしかめながらもそれを手伝った。何かの集まりで焚火をすることもよくあった。
冬にはもちろん、雪の日のそり遊び。近所の誰かが広場に作った雪山を、やってくる子どもたちが滑り降りる。雪山がなくても、真っ新な一面の雪に最初に足を踏み入れるだけでわくわくした。
今、大人になって、ようやく思う。私は、憧れていた「おおきなき」を、実はちゃんと持っていたのだと。あの神社こそが、私の秘密基地だった。
当たり前に日常として過ごしていたせいで、これまで「大好きだった」なんて大掛かりな言葉で捉えたことすらなかったあの場所のことを、自分が心から愛していることを、大人になった今、しみじみと思い出す。あの神社は、子ども時代のすべてが詰まっている、私の心の「おおきなき」だ。