読書週間が始まりました。作家の川上弘美さんが「ポルトガル」、ドイツ文学者の池内紀さんが「死」をテーマにお勧め本を紹介してくれました。この秋、あなたは本に何を見つけるでしょうか?
ポルトガルへの誘い 自分の中にある別人格発見 作家・川上弘美さん
9月にポルトガルを訪れる機会があり、20世紀前半の優れた詩人フェルナンド・ペソアの詩集『ポルトガルの海』を読みました。自然派のアルベルト・カエイロ、異教徒のリカルド・レイス、内省的なアルヴァロ・デ・カンポスという三つの異名=人格でも詩を発表。本書でも読めます。
自分の中に複数の考えを発見する感覚は、現代に通じるのでは。ペソアは数十の人格をつくりあげ、それぞれの名で作品を書き、未発表のまま死亡。死後発見された原稿を、今も研究者たちがまとめようとしています。創作者として大いにイマジネーションをかき立てられます。同国のノーベル賞作家サラマーゴは、ペソアの人格の一つを主人公にした『リカルド・レイスの死の年』(岡村多希子訳、彩流社)を書きました。
ペソアの研究家でイタリアの作家アントニオ・タブッキの『供述によるとペレイラは……』は1938年のリスボンが舞台です。中年太りのノンポリ記者ペレイラが、レジスタンスの若者と出会い別人格を自身の中に発見する。『インド夜想曲』など幻想的作風で知られる作家の新境地とされる小説です。政治に限らず難民問題や災害、隣人関係にいたるまで、無言の内圧を日々感じざるを得ない現代と、小説内世界がリンクします。
檀一雄はポルトガルに1年半滞在し、『火宅の人』を書き継ぎました。夫と妻、男と女の常識的ではない関係に人生の苦みがにじむ。子供と向き合わないこともごまかさない父子小説でもあります。主人公の、奔馬のような野性は、凄絶(せいぜつ)。約20年間かけて書かれた重層性も魅力的です。私小説と思われがちですが、そうではなく、私小説という器を使った壮大な長編小説であり、寂寥(せきりょう)たる終章がしみます。
ポルトガルの植民地だったブラジルの日系移民で帰国した女性が開いたバーが舞台の漫画『その女、ジルバ』(全5巻、有間しのぶ著、小学館)もおすすめ。戦中戦後の女の歴史が凝縮されています。(談=構成・吉村千彰)
死と向き合う 人生の欠かせぬ条件を考察 独文学者・池内紀さん
『死を生きた人びと』の著者、外科医・小堀鷗一郎が訪問診療医に転じたのは60代後半のこと。以来、十数年の記録をまとめてみると、三百五十余人の臨終にかかわっていた。そこから42の事例が示され、医療先進国ニッポンのひずみが露呈されていく。ひたすら「生かす医療」一辺倒で、欧米ではすでに実践されている、安らかに「死なせる医療」に目もくれない。死を排除し、遠ざけようとする傾向は、医療にかぎらず、患者にも家族にも著しい。死は人生の欠かせない条件ではないのか。この診療医は科学者と文人の目を併せ持ち、深い共感とやさしさで、勇気をもって死と向き合った人々を綴(つづ)っていった。
1940年生まれのドイツ人作家ウーヴェ・ティムの作品が『ぼくの兄の場合』。16歳年長の兄は、ヒトラー・ドイツ時代の優等生で、ナチスのエリート部隊を志願し、東部戦線で戦死。少々の日記と手紙が残されていた。悲惨な戦地にあって、兄は本当に自分の言動に疑問を抱くことがなかったのか。「ときどき起こる残酷な事柄について記録するのは意味がないと思うから」と、日記はここで中絶している。何があっての中絶か。その死を介して戦後ドイツをさかのぼると、経済復興の大合唱の中で、自分たちの良心の幕引きをした国民性があぶり出されてくる。ひとりドイツ人に限ったことではないのである。
『方丈記』を著した歌人の鴨長明は戦乱の世に生まれ合わせ、大火や大地震、飢饉(ききん)の中で成長した。ある法師が、おびただしい餓死者を数えたところ、「都の東半分の遺体は、全部で四万二千三百余りあった」。およそ800年前の特異なエッセーが、現代の日本語で甦(よみがえ)った。つねに言われる無常観の書ではなく、作者個人の「葛藤と逡巡(しゅんじゅん)」の記録としたところが秀抜である。言葉がおそろしく安売りされる現代にあって、細い腕とペンの力で、遠い世の魅力ある孤独者を、こんなに身近に引き寄せてくれた。(寄稿)=朝日新聞2018年10月27日掲載