言葉より先にビデオデッキの使い方を覚えた子供だった。子供部屋の大きな棚にはビデオテープが敷き詰められていて、二、三歳の頃の私はそこから勝手にビデオを取り出し、勝手にビデオデッキで再生し、勝手に楽しんでいた。巻き戻しも早送りもお手の物だった。
実家は自営業で両親は夜遅くまでせっせと働いていたし、子守をしてくれていた祖母は夕方になると家事で忙しい。勝手にビデオを観て楽しんでいる子供は、手がかからなくてよかったんじゃないかと思う。わからない、私がそう思っているだけかもしれない。
ビデオテープのラインナップは、もっぱらジブリとディズニーだった。ときどき弟とビデオテープで巨大なドミノを作って遊んだ記憶があるから、百本近くあった気がする。
当時観ていたものはどれもこれも面白かった。テープがすり切れるほど何度も繰り返し同じ作品を観た。そんなことは大人になるとできなくなる。『となりのトトロ』を三連続で観た後に『ピノキオ』で口直しをし、もう一度『トトロ』を観るなんて(このあたりで祖母に「何回ネコバス見れば気が済むんだ!」と風呂に引っ張って行かれる)、もう二度とできないだろう。カラカラに乾いたスポンジみたいな子供だったから、あんな無茶な物語の吸収ができた。
さて、そんな私が当時好きで好きで仕方がなかったのが、ジブリ映画『平成狸合戦ぽんぽこ』である。
自然豊かな多摩丘陵でのんびり暮らしていた狸達を襲う、ニュータウン建設。狸達は団結し、化け学(ばけがく)を駆使し人間へ戦いを挑む。人間に住処を奪われそうになった狸達の奮闘を描いた長編アニメーションだ。
多摩ニュータウンがどこにあるのかもよくわかっていない当時の私にとって、この物語は難解だった。どうして狸達の住処は人間に奪われそうになっているのか、どうして狸達は戦うのか、どうして仲違いをするのか、どうして悲しんでいるのか、どうしてあの狸は死んでしまったのか。物語の核になる部分は子供にはてんで把握できず、狸が人に化けて大暴れするたびに私は弟と一緒に手を叩いて喜んでいた。
なんて言いつつ、『ぽんぽこ』の主人公・正吉が実は私の初恋の人(狸)だったりするのだけれど。
思慮深い性格の正吉は変化が得意で、狸達を時に先導したり、時に諭して鎮めたりと活躍する。その上、化けるのが下手な幼馴染みを思いやる気持ちもあって、大人になった今でも上司にしたい狸ナンバーワンだ。
そうやって初恋の人を見るために何度も再生した『平成狸合戦ぽんぽこ』だが、一歳、また一歳と年を重ねていくうちに、少しずつ物語の本質が見えてくる。中学校に上がると粗雑で乱暴者の権太が不思議と好きになり、高校生になると佐渡を旅して多摩に戻ってきた文太の苦悩に想いを馳せるようになる。その変化に「どうやら自分は少しは大人になったらしい」と気づくことができた。
十歳の頃に小説を書き始めた私は、なんとなくこういう「年を経るごとに見え方が変わってくる物語」に特別な価値を置くようになった。十代の頃はそれを「なんとなく」としか表現できなかったが、今となると「物語を受け取る人と一緒に人生を歩んでいけること」が物書きとしての私の目指すものになったのだと思う。
正吉に恋していた子供の私は、まさか自分が小説家になっているとは思わないだろう。あと、住処を追われた狸達が人に化けて歌舞伎町で任侠団体を作っている小説を書いているとも、まさか思っていないだろう。
果たして私が書いている小説は誰かにとっての『ぽんぽこ』になっているのだろうか。『平成狸合戦ぽんぽこ』を観るたび、初恋の人の活躍になんだかんだで胸を躍らせながら、そんなことを考える。