――本書は、中華圏で使われる漫画やアニメ、アイドルといったジャンルのオタク用語やネットスラングを和訳した「中日辞書」です。語義に加え、オタク同士の会話やネットの書き込みなどを模した例文や、中国のオタクに関する解説文が見どころです。「萌豚」は「萌え系コンテンツに夢中な男性オタク」、「腐女」は「腐女子」など、日本語のスラングとほぼ同じ言葉も多いですね。まさか、ドラゴンボールの名台詞「戦闘力たったの5…ゴミめ…」(战五渣 ヂャンウーヂャ)が海の向こうでも浸透しているとは……。オタクあるあるネタ満載の例文もジワジワ来ます。
例文は日中のオタク両方を意識して書きました。中国人が言いそうで、日本人も面白いと感じそうな文章にしました。自信作は、ツンデレ(「傲娇」)を説明した「傲娇有三宝,巴嘎, 无路赛,变态!」(ツンデレ三拍子、バカうるさい変態!)ですね。
本書は、ある程度中国語が分かる日本人に「この言葉はこのように翻訳されるんだな」と面白がってほしいですね。一方で中国語が読めない人でも、漢字(で意味)が何となく分かるので、漢字から楽しんでいってもらいたいです。
日中のオタクで面白がるポイントは、共通する部分もあれば、少しずつずれていく部分もあります。同じように面白がってるんだけれど、ポイントがずれているのが個人的に面白いと思います。
「日本」は中華オタク語で「11区」…なぜ?
――確かに、日本では聞いたことのない謎のオタクスラングも満載です。「坑(コン)」は「沼」(何かに非常にはまること)、「黒(ヘイ)」は「アンチ」という意味です。「11区」は日本を意味する中華オタク語です。これは人気アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』の作中で、日本が「エリア11」と呼称されていたことに由来するそうですが、当の日本人オタク的には何じゃそりゃと……。
「黒」の字は、日本人が見ても「アンチ」という意味で想像できないと思います。「11区」は、中国ではけっこう普通に使われてますよ。そういうのが面白いんです。自分で面白いと思った言葉を入れていますが、みんなそれぞれ、面白いと感じる箇所が違うようですね。
――本書はもともと同人誌として頒布されていた作品を再録・追記した物ですが、なぜこんな同人誌を手掛けたのですか?
私は中国にいたころ、アニメ「キャプテン翼」の中国語吹き替え版をテレビで見ていました。当時は日本の作品とすら意識していませんでしたが、単純に面白いなと思い、中国の大学では日本語学科に進学しました。その後、来日して名古屋大学の大学院に留学した後、そのまま日本で就職したのです。今でもアニメ「Free!」などが好きですね。同人誌も楽しんでいますし、池袋にはよく行きます。
日本で就職して働き始めて、「自分にしかできない物は何だろう」と考え始めたのがきっかけでした。大学院で論文を書いてる時には、「自分にしか書けない物を書いている」と、それなりに研究にも自信を持てていました。
でも、特に日系企業はあらゆる物を効率化、フォーマット化します。自分という存在にはどういう価値があるのか、自分じゃなくても誰でも(あてがわれた仕事を)できるんじゃないか、といった考えに陥ってしまったのです。
そんなある時、友達とコミックマーケットに行ったのですが、その友達が同人デビューしました。話を聞いていて「いいな、楽しそうにやってる」と感じました。確かにこういうのも、オタクとしての正しい姿だなぁと。そうして「自分にしかできないことは何か」を考えた結果、同人誌を書き始めたのです。
――同人誌というと漫画や小説が主流ですが、なぜ辞書だったのでしょう?
たまにTwitterで「中国での流行語にはこんなものがある」とつぶやいていたのですが、文字数の制限があってなかなか背景を説明しきれませんでした。言葉と言葉の繋がりとか、なぜこの言葉ができたか、などです。(言葉の)背景を含めて書くには、それなりの文字の分量が必要で、そうなると「辞書」という媒体のほうが適切で、私が伝えたいポイントをすべて網羅できると思いました。
――しかし、ネットスラングを多用する日本のオタクでも、言葉の由来や背景自体には無関心な人も多いですよね。
それはもったいない!と思ったのです。私は言葉に対してワクワクする。特に新しい物を見た時ですね。言葉の1つ1つには意味がある。何がどんな理由で出てきたのか。偶然の物も、必然的な物もある。なぜその言葉ができてしまったのか、理解しようとすることで(日中の)社会を理解するヒントになると思うのです。
私は外国人なので、言葉に対して日本人より少し敏感なのかもしれません。日本人自身は何とも思わないかもしれないけれど、この表現が新しいとか、表現の語源がどこにあるのかとか、いろんな所にたどり着ける。そうすると、いろいろな新しい発見が出てきます。
大学院で私は社会学のレポートを書いていました。こういう本(同人誌)でも論理的な文章を書いてみたかったのです。そこで2017年に書き始め、同年夏のコミケで同人誌デビューしました。
――反響はどうでした?
思っていた以上でした。参加したこともないコミケで知名度もない状態で、自分(の本)に需要があるのかも分からない。もともと自己満足で書き始めていた本でしたが、承認欲求も出てくるものです。Twitterで(夏コミ前に)「こういう本を書いています」と書き込んだら、「こんな本を待っていた」などと100以上のリツイートがありました。
最初のコミケは50部を最初予定していましたが、100部を頒布し、その後再販もしました。18年の冬コミケには4冊目を出し、書店で委託販売もしています。
中国からも「電子版を作りませんか」とコメントをもらい、現地で日本語を教えている日本人の先生がこの同人誌を生徒に見せているという話も聞きました。おそらく、中国ではこういうタイプの本はほとんど無いですね。最近オタクの経済効果には注目されるようになりましたが、言葉にフォーカスした研究はまだ少ないのでしょう。
オタクの言葉を残したくて辞書に
――ネットスラングは日本でもはやりすたりが激しく、研究・記録されず消えていく物も多い気がします。
「(オタクの)言葉を残したい」という気持ちはありました。後々の人々が(研究する際に)追跡しやすいように、ヒントや痕跡を残したいというのもありましたね。
――日本の影響を受けたこうしたオタク用語が中国で流行るのは、ちょっと不思議な気もします。彼らの多くは日本アニメ好きでも、日本語を使えない人が大半でしょうし。なぜこんなことが起きるのでしょう?
中華圏では、日本語のサイトをウォッチし、翻訳してSNSなどで紹介する人が実は多いのです。オタクの間で使われている言葉が、そうやって間接的に輸入されているのではないでしょうか。(商品やサービスの)PRが目的だったり、お金目的で日本人のTwitterをパクったりしているアカウントもありますが、間接的に(日本のオタク用語の)紹介になっているのです。
――しかし、日本語ですらオタク用語は門外漢から見れば複雑怪奇です。日本語のオタク用語と中華オタク用語の違いは何でしょうか?
漢字の音と意味を両方使っているのが中国語ならではのポイントです。でも、言葉の背景にある真の意味がちゃんと理解されていないこともあるのです。
例えば、「御宅」(オタクの意。日本語の読みをそのまま漢字にした)と漢字で書くと、「家にいる人」とイメージされてしまいます。中国のメディアはこの言葉の本当の意味を理解せず、そういう(語感通りの)人だと勘違いして、「引きこもり」っぽいイメージで使ってしまった。報道で誤解が広がったのです。でも、オタクは別に引きこもりでもニートでもないですよね。
他にも、「痴汉(痴漢)」」は日本では(犯罪者の)チカンという意味しかないですが、中国では「一途」、つまりストーカーのように粘着的なイメージもあるのです。
あと、一部の中国のオタクは日本のオタクより、(得ている)情報がずっと多いのではないかと思います。著作権的にはちょっと……ですが、日本のコンテンツは(中国では)だいたいネット上で無料で見れてしまっている。お店(映像作品を売る実店舗)などに足を運ばなくても情報が得られるのです。中国のオタクは雑食系で視野が広い気がします。日本のオタクのように、1つのジャンルにずっといないのかもしれないですね。
日本コンテンツの投資回収ができる時期に
――単なるオタク用語の説明に留まらず、こうした中国のオタク事情や、インターネットの発展の影響を強く受けている中国のオタク市場分析も本書の見どころです。
例えば「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」などの映画作品は、以前は海賊版を通じて中国人は知っていましたが、今なら映画館でちゃんと見たいとみんな思うのです。アニメ「夏目友人帳」の映画版も、中国で10億円くらいの興行収入を得たそうです。今は早い段階で(日本映画の)中国での上映が決まり、すぐに見られるようになった。
今まで違法な海賊版が視聴されていた中国でも、これからは日本のコンテンツが(投資)回収できる時期に入ってきています。中国は市場動向もよく分からない国なので、「日本国内で(オタクコンテンツは)食べていける」と思う日本人もいると思いますが、どうか中国市場でも頑張ってほしいです。
――そういった中国のオタク事情を語る上で避けて通れないのが、当局による規制問題です。Webページが規制あるいは削除されることを指す「404(スーリンスー)」。日本の文化庁に当たり、ゲームコンテンツを厳しく規制している中華人民共和国文化部を揶揄する「焚化部(フェンファブー)」など。この辺は日本のネット文化にない概念ですね。
中国では、コンテンツ規制に対する政府への不満があります。本書を通じて、中国ではどんなことが敏感視されているかが分かると思います。普段の立ち振る舞いやネット上の発言で、注意しなくてはいけないことが何なのかなど、雰囲気で理解できるでしょうね。
――中国オタクの実態にも目を向けると、日本人からすれば「ネット上で日本のアニメやアイドルを愛好している中国人」イコール親日、と思いがちです。しかし、必ずしもそうではないようですね。
中国でも最近、「ネット愛国民」が増えています。若い人は、日本が経済的に優位にあった昔の時代を知らないため、単純に「中国はスゴイ」と思っているのです。(日本産)コンテンツを好んでいることとは別に、中国のことを愛しているという人は増えています。日本アニメが好きだから親日という話ではないですね。
中国から日本を見つめる目
――こうして本書から見えてくるのは、中国でいかに日本コンテンツが受容されてきたか、ひいては中国人が日本をどのように見つめてきたか、という社会学的なテーマです。特にドキッとしたのは、日本のゆとり世代を指す「平成废物(ピンチォンフェイウー)」という用語です。私たちが思うよりずっと、中国人は日本に関心を抱いているのかもしれない、と。
これは、昭和の男子と比較して日本の平成世代が割と「ゆとり」であるという意味です。平成世代が軟弱だというイメージは、アニメなどメディアの中で描かれているのが原因かもしれません。中国人が(日本人を)実際にいろいろ見て「ゆとりはけしからん」と思っているというより、自然と「平成世代はゆとりだ」というイメージが(コンテンツ経由で)入ってきているのでしょう。
日本人が思う以上に、中国人は日本人を意識してると思います。毎年いろいろな日本関係の本が翻訳され、日本に関する研究も盛んです。中国人から見る日本への関心は、割と万遍ないと感じます。ポップカルチャーもそうだし、伝統的な食文化に歴史、なぜ経済が最近駄目になったかも見ています。
一方で、中国に対する日本人の興味にはけっこう偏りがあると感じます。全く興味無い人もいれば、すごく変わったところばかり見ている人もいる。歴史と政治的な話、キャッシュレスを始めとしたテクノロジーだけのイメージがありますね。
――そう考えると、アニメや映画、アイドルといったオタクコンテンツは、実は相手の国の人の生活や文化にも目を向けるきっかけになっているのかもしれません。
私が日本に興味を持ったのも、日本の社会や日本人の思考を理解しないと日本アニメを理解できないと思ったからです。例えば、中国では「日常系アニメ(キャラの掛け合いを始めとした日常風景を淡々と描くジャンル。ストーリーに起伏が乏しいのが特徴)」をバカにする人が多いのです。「あれに意味があるのか」と。しかし、(私が)実際に日本で仕事をして疲れた後にこれを見ると、癒しになった。日本のストレス社会を体験して、やっと理解できることなのです。こういった社会に対する理解がないと、(コンテンツを)100%楽しむことはできないのかもしれません。
――最後に、本書は読者にどんな風に活用してもらえたらうれしいですか?
特に読まれ方は想定していません。自分が書きたいことを書きましたし、辞書はあくまでツール。使い方は自由です。アイドルにしか興味ない人は、アイドルの項目を見て(中国語の)情報を得られればいい。
でも、日中はお互いに思っている以上に、お互いを意識しています。もっとコミュニケーションをとってもらえるようになればいいですね。