満州事変起こした母国との間で苦悩
満州事変の2年後、日本は国際連盟脱退を通告。安達はその翌年、PCIJのあるオランダで客死した。柳原正治・放送大学教授(国際法)によれば、不眠症から神経衰弱となり心臓病を併発したというのが定説だ。
現地で新聞漫画に
31年11月にオランダの新聞に掲載された漫画が、安達の苦境を表したものとして知られる。安達とおぼしき丸腰の武士が鎧兜(よろいかぶと)を着けて刀を振り回す武士に立ち向かい、キャプションには「日本の平和の精神が軍国主義者に勝利することを祈る」。
32年5月には、首相に就任した直後の斎藤実に、問題がPCIJに持ち込まれれば「一笑ヲ買フニ過キサルコト明白」、つまり敗訴確実と手紙を送った。
安達はオランダで国葬になったが、日本では有名とは言いがたい。PCIJを継承した国際司法裁判所の小和田恒・元所長の勧めで、安達の出身地にある山形大学が7年前に研究プロジェクトを立ち上げた。柳原教授らが欧米で史料を集め、研究は2年前に論文集『安達峰一郎』(東京大学出版会)にまとまった。そこで引用した文献を中心に今年5月、著作選『世界万国の平和を期して』(同)も刊行された。雑誌論文や外交文書、書簡など日本語と外国語の約100編が収録されている。
6月15日には東京都内で、プロジェクトに参加した研究者らのシンポジウム「よみがえる安達峰一郎」が開かれ、小和田氏ら約170人が詰めかけた。
欧州の調停に奔走
一連の研究でも、満州事変以後の安達の心境は史料が限られ明確にはつかめない。PCIJの判決への関わりも史料非公開で詳細は不明だ。むしろ具体的に浮かび上がるのは、31年1月にPCIJの裁判官になる以前に国際連盟の総会や理事会の日本代表として、各国の利害を調整する姿だ。28年に戦争を放棄する不戦条約が結ばれて国際協調の風潮が高まる中で、フランスのブリアンら大物政治家と渡り合いながら実践を重ねた。
主に手がけたのはヨーロッパ内の少数民族や国境画定の問題だった。上部シレジア地方をめぐるポーランドとドイツの紛争を調停。第1次世界大戦の賠償をめぐるフランスとイギリスの対立も、両国の代表を茶会に招いて仲介した。
日本とは直接の関係がない調停に力を注ぐ意義を、安達は公平な解決への努力は東洋の「陰徳(いんとく)」であり、「将来の国運に対して遠大なる影響がある」と講演で語っている。その後のPCIJの裁判官選挙でトップ当選したのは、活動が各国の信頼を得ていたからだろう。
安達を現在研究することについて、柳原教授は「戦争の違法化など戦間期に変わった国際法の根幹に挑戦するような動きが、大国に見られる。国際法の根源について深い洞察をした安達を振り返ることは大きな意味がある」と語る。
研究プロジェクトの一員である三牧聖子・高崎経済大学准教授が注目するのは外交官出身らしい現実主義だ。「安達は単なる国際協調の信奉者ではなかった。帝国主義外交から多国間外交へと規範が変化する新時代に対応して、国益を追求した。国際連盟という舞台で国家間紛争を調停したのはその表れ。協調と国益の両立を追い求めたことが、現代的な意義ではないでしょうか」(編集委員・村山正司)=朝日新聞2019年7月3日掲載