「魏」古い価値観残る 「呉」精緻な統治機構 「蜀」非漢族との連携
2~3世紀の中国で魏・蜀・呉の3国が覇権を争った「三国志」の時代。このほど出版された『三国志の考古学』(東方書店)はこの時代の出土資料から当時の歴史復元を試みる。
著者で新潟大学人文社会科学系フェローの関尾史郎さんは中国の魏晋南北朝史が専門。だが、この時代に対する日本の研究者の従来のアプローチには「不満があった」と語る。ここ20年ほどの間に中国で多くの考古資料が出土したのに、書店に並ぶあまたの「三国志本」には、成果が必ずしも反映されていないように見えたからだ。
たとえば魏。2008年から発掘された河南省の曹操高陵は「魏武王」の名を刻んだ石牌(せきはい)が出たことから、三国志の英雄・曹操の墓と確定した。だが、それ以外にも50枚以上の石牌が出土。墓に納められた品の内容を示す「付け札」の可能性が高いとみられている。
それぞれには「三尺五寸両葉画屛風(びょうぶ)一(高さ80センチほどの二曲一双の絵屛風)」などといった品目が刻まれているが、関尾さんは中でも「黄豆二升」と記された石牌に注目した。
黄豆は大豆のこと。副葬品の中では唯一の食品で、「道教の源流の一つとされる漢の天師道では、冥界での取り立てに備えて死者は大豆を持つべきだとされた。そのためのものだろう」。
曹操墓から出土した画像石(表面に絵を刻んだ石)には、儒教の徳目の一つ「孝」を顕彰した物語を描いたものもあり、「曹操は天師道という新しい信仰に目を向け、儒教など古い価値観の一掃を目指したが、時代のしがらみからも完全には抜け出せなかったのではないか」とみる。
一方、湖南省長沙市から1996年に出土した「長沙走馬楼呉簡」は7万点超の大半が簿籍(帳簿や戸籍)で、呉の精緻(せいち)な統治システムがうかがえる。
たとえば「入嘉禾(かか)元年歩侯還民限 米二斛(こく)」と書かれた竹簡(ちくかん)からは、嘉禾元(232)年分として米2斛(=200升)の税が納入されたことがわかる。また、戸籍にあたる吏民簿からは、税を納める単位となる各戸の構成員が判明している。
当時の呉は、開発が進む長江流域を基盤とした、文字通りの「新興国家」。海上交易などによって富を蓄えつつあったものの、政治体制などはまだまだ未整備だった。「竹簡などから見る限り、呉では、魏で導入された屯田のような新しい制度と、後漢から引き継いだ制度が併用されていたように思われる」
蜀に関しては、関尾さんは、甘粛省西部(当時の涼州)の古墓群の壁画に注目する。一部の墓には、尖(とが)った三角帽子をかぶったり、ターバンを巻いたりした非漢族系の人物の姿が描かれていた。「中央アジア系のソグド人か、クシャン朝のインド人では」と推測する。
蜀の重臣だった諸葛亮は、漢の故地を回復するために魏が支配する中原へと攻め入る、いわゆる「北伐」を想定して、主君の劉備に「西和諸戎、南撫夷越(西や南の非漢族を懐柔し連携する)」を提案した。史書『三国志』にも、「(西方の)涼州諸国王は各々月支・康居胡侯の(略)直ちに兵馬を率い、先駆として奮戦致したい」と申し出てきたとある。
これらを踏まえ、関尾さんは「諸葛亮は早い段階から西の非漢族との連携を重視した」と考える。「北伐で中原への道を開くと同時に、西への交易路を確保し、西と南とを結ぶ交易に蜀の将来を託そうとしたのだろう」
研究は道半ば。「でも、出土資料を丹念に読みとくことで、史書の『三国志』にも、小説の『三国志演義』にも書かれていない、新たな角度からみた三国志の世界が見えてくるんです」
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本書で紹介された遺物の一部は、東京国立博物館で開催中の、三国志の時代の考古資料を集めた特別展「三国志」(朝日新聞社など主催)で見られる。9月16日まで。=朝日新聞2019年7月10日掲載