大友宗麟 遺跡が示す国際感覚
大分市の国史跡・大友氏遺跡の一画を占める大友氏館跡。ここはかつて「豊後王」としてヨーロッパにまで知られた戦国大名・大友宗麟(そうりん)(1530~87)の本拠地だった。
宗麟は守護大名・大友氏の21代目。宣教師フランシスコ・ザビエルと知り合ったのを機に布教を認め、南蛮文化を摂取。九州の6カ国を支配したが、耳川の合戦で薩摩の島津氏に敗北。島津氏の豊後侵攻を許して、勢力が大幅に衰退したところで亡くなった。
しかし、この宗麟、近年まで必ずしも評判がよくなかった。息子の義統(よしむね)の代で豊後を失ったことに加え、家臣の妻に手を出したり、改宗を強要して寺を壊したり――といった逸話が江戸時代の軍記物などに記されてきたからだ。
変わるきっかけとなったのが1998年からの大友氏遺跡の発掘だ。20年に及ぶ発掘調査によって、当時、宗麟が支配した府内(現在の大分市)が多くの輸入陶磁器などを保有していた国際貿易都市で、居館は「大おもて」と呼ばれる18×15メートルの建物を中心とし、67×30メートルの大きな池を伴う庭園などの施設群から構成されていたことが明らかになったのだ。
大分市教育委員会は「宗麟は力があるだけでなく、国際感覚に富む文化人だった。キリシタン大名だったこともあり、キリスト教が禁止された江戸時代以降、悪評がたったのでは」と話す。市では現在、大友氏館の復元整備が進行中。現地には案内施設「南蛮BVNGO(ブンゴ)交流館」があり、庭園も来春公開される。
最上義光 「残忍」今や「文化人」
山形県では、「虎将」などの異名がある最上義光(よしあき)(1546~1614)の再評価が進んでいる。
義光は羽州探題の当主という名家に生まれた戦(いくさ)上手。関ケ原合戦後には出羽国(現在の山形県)など57万石を得る。これは諸大名の中でも加賀の前田家や仙台の伊達家などに次ぐ石高だったが、義光の没後、お家騒動が起こり、藩は減封・国替えになった。
義光も近年まで評判が悪かった。きっかけとなったのは1960年代に刊行された『山形市史』だ。この中で義光は、徹底して傲慢(ごうまん)・残忍・冷酷な人物として描かれた。
その評価が定着し、「1977年に山形城に義光像を建立する話が出た際には、『武力闘争と権謀術数で地域を制覇した人物の肖像を、市民の憩いの場に建てるとはなにごとか』という反対運動が起きたほどだった」と最上義光歴史館の揚妻(あげつま)昭一郎主幹。
さらにNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87年)が追い打ちをかける。政宗の敵役として、残忍で陰気な武将像が強調されたのだ。
最上義光歴史館はそんな義光の悪評を払拭(ふっしょく)するという意図もあり、山形市が市制100周年の89年に開設した。
力を入れているのは小学校への出前授業。「最初は子どもたちに興味を持ってもらい、後日、ご家族と一緒に来館してもらって、実像を説明する。その繰り返しでやってきた」と揚妻さん。
歴史館の事務局長を務めた片桐繁雄さんらの研究もあり、2000年代以降、連歌に造詣(ぞうけい)が深い文化人武将として義光のイメージは大きく変わりつつある。
揚妻さんは「武将の評価は時代や語り手によって大きく変わる。一つの見方に固執することなく、様々な角度から見直すことが必要なのではないでしょうか」と話す。
大内義興 滅びても、地元の誇り
山口県などは、7カ国の守護だった大内氏15代目の義興(よしおき)(1477~1529)を今春、観光パンフレット「長州タイムズ」で特集した。
現在の山口市を拠点にしていた大内氏は、義興の子の義隆の代で戦国大名として実質的に滅びてしまうため、「貴族趣味が高じて滅亡した」との評もあったが、山口商工会議所の春永亜由美さんは「山口市にとっては、萩を根拠地にしていた毛利より、やはり大内。文化的大名だったと思っています」と話す。
2010年には大内館の出土遺物や記録をもとに、室町幕府10代将軍の足利義稙(よしたね)を供応した際の料理を「平成大内御膳」として復元して大内氏をPR。現在も市内で食べることができる。(編集委員・宮代栄一)=朝日新聞2019年9月18日掲載