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「暗い林を抜けて」書評 連想を組み込める風通しのよさ

評者: いとうせいこう / 朝⽇新聞掲載:2020年05月09日
暗い林を抜けて 著者:黒川創 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784104444106
発売⽇: 2020/02/27
サイズ: 20cm/254p

暗い林を抜けて [著]黒川創

 これほど風通しのいい小説の中を通り抜けたことがあるか、読書中何度かページから目を上げて考えた。
 主人公と言えるのは有馬章という男性で、語り手は変化しながら、学生時代から中年での癌(がん)治療、結婚離婚、通信社記者としての仕事内容、そして老いていく感触などを綴っていくのだが、まさに「綴る」としか言いようのない語りだ。
 有馬の人生の場面と、彼が取材して得た世界史の事実などが、すいすいと縫い合わされる。勤め人だから転勤があり、大阪や長崎、金沢などを有馬は巡る。
 するとそこに雲仙普賢岳の噴火が描かれ、また記事の対象として旧満州での日本人支配層のふるまい、湯川秀樹が原爆をどう考えたかの推察、またサラエヴォの紛争などが点綴(てんてつ)される。
 縫い穴はざっくりと開いていて、したがって読者は自分の空想をもそこに縫い込むことが出来るような感覚になるのではないか。つまり点々と浮かんでくる連想が、知らず知らず小説の中に組み込まれてしまうのである。まさにそれがこの作品が持つ「風通しのよさ」だ。
 したがって、小説はどこかエッセーの質を持つ。一方、ゾルゲ事件とも交差する音楽家エタ・ハーリヒ=シュナイダーを描くタッチなど、歴史小説のようでもあり、一人の女性の恋と人生を甦らせる娯楽ものの様相さえあって、しかしそれらがごく自然に作者の思うままに書かれる。
 例えば人物の歴史を主人公が書いた記事でたどり、そのために調べられた事実を小説の本文でくわしく描き、さらに社内で同僚と記事を検討する様子を描写するなど、実は入れ子構造のような試みを持つ。
 けれどもそれが堅牢に作られた実験小説のようでなく、たまたま偶然そこにあった事柄をただただ書くような自由さがある。題名の「暗い林」とは、脳裏をよぎるそうした今を生きる痕跡の空間で、我々読者もそこを「抜ける」のだ。
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 くろかわ・そう 1961年生まれ。作家・評論家。『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞受賞。『かもめの日』『京都』など。