形として見えない文化を記録する
本書のきっかけは、大学寮立ち退き問題がテーマのドラマ「ワンダーウォール」。2018年にNHKで放送され、2020年には劇場版が公開された。同時期、作品のモデルになった京都大学吉田寮も実際に立ち退き問題で揺れていた。それを知った編集者の臼田桃子さんが、大学改革によってどんどんこぎれいになる京都大学の姿に疑問をもち、これまでにあったさまざまな学生文化をまとめられないかと杉本さんに依頼した。
杉本さんは同志社大学出身で卒業生ではないが、学生時代は京大の学内で開催される音楽イベントに出入りしていてなじみがあった。学生時代のことは振り返らないと決めていたから書くのは迷ったが、久しぶりに京大を訪れてみると、「私の知っていた薄汚くてわけのわからんものがそこら中にあって、多種多様な人たちがうろうろしている風景じゃなくて、えらいきれいなキャンパスになったな」と驚いた。
杉本さんは「体験とか感覚でみんなが大事に共有してきたことを私が言葉にしていいのかな」という葛藤しつつも、「確かに変わりつつあって、あの風景や記憶や私たちがやろうとしてきたことは記憶の中でしか受け継がれなくなって、いずれ消えてしまう。本当にそれでいいのかって考えたら、嫌やなって思ったんです。形として見えないものを記録するのもライターの仕事じゃないかなと思って」と引き受けることに。
自治は互いの存在を認め合うことから
確かに筆者も取材のため久しぶりに京都大学を訪れて、百万遍の交差点の殺風景な光景に驚いた。以前はサークルの宣伝や「〇〇に反対」といった主張が書かれた立て看板(通称タテカン)が目を引いたものだ。ところが2017年から大学当局は京都市の条例を理由に、大学の周りにタテカンを置くことを禁止した。現在はそれに反対する学生が密かにタテカンを夜のうちに置き、それを見つけた大学当局が朝撤去するといういたちごっこが続いている。タテカンを排除する背景には大学改革により管理強化を進めようとする大学の方針が透けて見える。そしてまた、このようなことは京大だけでなく全国の大学でも起こっていることだ。
一例を紹介すると、学生寮の一室を使って学外者も学生もやりたい人がカフェを運営をする隔週の「WEEKEND CAFE」、教室を自主管理して演劇やライブを行う「文学部東館学生控室(通称ブンピカ)」など。とても自由でそれを許す大学の懐の深さに驚く。さらには、学内の使わなくなった建物を学生が占拠してフリースペースとして使おうとした「きんじハウス」、建築用パイプでやぐらを建てて大学の一角を占拠しながら百万遍の石垣撤去に反対する「石垣★カフェ」や時間雇用職員の雇い止めに反対する「くびくびカフェ」といった、「迷惑を考えろ」とか「常識がない」と批判されそうな試みもあった。
自治とは「自分たちで決めてやっていい」こと
ルールと自由は往々にして対立すると思われがちだ。しかし、京大では大学の構成員と大学という場を必要とする“当事者”が、その場に必要なルールを共につくりあげることによって自由な試みを可能にしてきたのではないかと杉本さんは言う。学生は常識にとらわれずにまずはやってみよう問いかけたし、教員にはそれを面白がる度量の広さがあったし、大学当局は力で排除するのではなくあの手この手を使ってなんとか双方の合意を図ろうとしていた。本書に収められた元総長の尾池和夫さんの文章からは、大学に学生と教職員という立場をこえて、十分議論して双方が納得するまで時間をかけて対話で物事を決めていた自治の雰囲気があったことがわかる。京大の自由の学風はこの雰囲気にこそ支えられたものだった。
自治と言うと堅苦しいが、要は「自分たちで決めてやっていい」ということ。杉本さんが学生だった1990年代にはまだ全国の大学にもそんな雰囲気が残っていた。当時杉本さんが住んでいた同志社大学の自治寮・アーモスト寮(2006年廃寮、寮舎となっていたアーモスト館は主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設として使用)もそんな場だった。
「24時間出入りが自由で、寮の運営や入退寮についても寮生で話し合って決めていて。寮に関するすべてを寮の主体である自分たちで決めていることに驚きました。同時になんで今までそうしてこなかったんやろ、なんで誰かの決めたことに従うのが当たり前だと思ってきたんやろって問い直しました」。さらに遊びに行った吉田寮の学生たちがなんでもDIYで作る様子を見て、「お金やモノがないとできないと思い込んでいたことも工夫すればできるんだ気づきました。すでにあるものを消費することしか知らないで生きてきたけど、今この世に認められていない発想でも、みんなはどう思う?と問いかけたり、話し合ったりしてみよう」と、「どんどん世界が自由になっていく感じ」を味わった。
そんな雰囲気の中で学生時代を過ごせた杉本さんや当時の京大生が羨ましくなってくる。しかし、タイトルに『京大的文化事典』と「的」を入れたのは「京大だけに可能なことだけじゃなくて、こういう発想で世界中どこでもできる意味を込めたんです」というように、社会の中にも見つけ出せるものだという。
自治の場は特別な人だけが作るものではない
杉本さんにとってそれは、現在取材テーマとして追っているお寺や社会的に弱い立場の人に寄り添うNPO、先進的なまちづくりで知られる徳島県神山町がそうだ。そこは「世の中や世界の常識とか規範からちょっと距離を置いて、肩書きや役割を離れた素の自分として人に出会える場。今の社会とは違う理屈で成立しているので、世の中を見つめ直すことのできるアジール(自由領域)」。杉本さんが大学を卒業してもそのような場を世界の中に見つけようとするのは、「そんな場所がこの世に必要だと強く思っているんです。だって生きづらいじゃないですか、今ある社会の理屈のなかでしか生きられないとしたら」という思いがあるからだ。
また杉本さんは、自治の場は特別な人だけが作れるものではないということも強調する。
「なんで自分が働いている会社のことを自分の場として、自分たちで決められる感覚がないのかなとか、何で自分のことを自分で決めちゃいけないって思ってたんだろうとか。自分がどういう風に人や場所と関わるかを考えたり、こんなこともできるかなと思ったら、そこに何かが発芽すると思うんです。ぽって芽が出てきてそこから次につながったら、2人3人の間でもちょっと自由が出てくることもあるんじゃないかな。本に書いたような京大の文化がなくなったらどうするのって聞かれることがありますが、それがなくて困るんやったら、自分で作ればいい。あなたはどうするんですか、私はこうしたいって話をみんなでしたらいい。まずは自分が生きている足下にあるものについてみんなが考え始めたら、世の中が本書で描いた京大のようになるかもしれなくて。そうなるともっと楽しいかもねっていうことだと思います。」
最初はここに描かれているような文化が失われたと惜しんだり、昔は良かったと懐かしがるような気持ちで読んでいたが、それは「京大的」からいちばんかけ離れていた態度だったということに気づいた。もちろんそれを許してくれる大学と京都のまちがあったからこそ学生たちは自由に振る舞えたわけだが。それでも、学生たちが自分の主張をタテカンでしていたように、疑問があれば問いかけるところから始めればいいし、お金がないならなんでも拾って作ったように、なくて困っているなら作る方法を考えるところから始めればいいのだと思える。そしてそれは、とても小さなことから始まるのだと杉本さんは言う。
「特別な活動じゃなくていいと思うんですよね。(自治は)それぞれがそれぞれにお互いの存在を認め合っていくということから始まることやと思っていて。京大の人たちは延々と無駄な議論と飲み会と対話によって結果的にお互いを認め合うということをしてきたのかなと思います」。
コロナ禍ではルールや規則が増えて息苦しいと嘆いていたけど、この本は自分の生活を作るのは自分で、その一歩は考えること、問いかけること、自分が共にいる人たちを一緒に自治を作る相手と互いに認めあうことから始まると教えてくれる。今、不特定多数が集まったり、対面でのおしゃべりは難しくなっても、新しい対話の形だってこれから自分たちで作っていけるかもしれないし、息ができる場所は自分たちで作ることができるのだと信じることができる。自分がどんなふうに暮らしたいか考えるための手引きとしても読んでもらいたい一冊だ。