三島由紀夫は生涯、6本の歌舞伎劇を書いた。そこには古典の本質を見極め、現代に活路を探った作家の思考の跡が読み取れる。
1970年、三島は国立劇場の理事として、歌舞伎俳優養成所で特別講義を行った。10~20代に耽溺(たんでき)した歌舞伎を「くさやの干物」に例え「非常に臭いんだけれども、美味(おい)しい妙な味がある」と評した。この感覚が、三島の歌舞伎世界を貫く。
第1作「地獄変」は53年に上演された。芥川龍之介の小説を劇化するにあたり採用したのは、江戸時代以来の義太夫狂言の様式。人物の激しい感情を表す、三味線のリズムにのった演技やセリフ術が特徴だ。三島は豊富な知識を生かし、物語を進める義太夫節の詞章も自ら執筆した。
当時の歌舞伎は、古典の封建性が批判された占領期を経て、セリフは現代語、心理描写もリアルな新作が主流。児玉竜一・早稲田大教授(歌舞伎研究)は「擬古典様式は当時の新作へのアンチテーゼ。近代化で失われゆく古い日本の体現者として、その夢を定着させようとした」。
この作品で娘役を演じた女形、六代目中村歌右衛門をパートナーに、三島は続く5年、歌舞伎座の舞台に夢を花開かせていく。
元禄期のおおらかな芝居を目指した「鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)」(54年)。大仕掛けの舞台転換も話題を呼んだ「むすめごのみ帯取池」(58年)。美の完成に命を捨てる「地獄変」の娘のように、古典にはない人物を描きつつ、様式面で常に過去に回帰した点に特色があった。
ただ、成果には必ずしも満足できなかったようだ。ある座談会で「新作に対する解釈になると、もう現代人になっちゃう」と、俳優への愚痴をこぼしている。
一度は歌舞伎から離れた三島は死の前年、国立劇場に「椿説弓張月」を書き下ろし、自ら演出した。原作は、滝沢馬琴の長編小説。やはり歌舞伎脚本を手がけていた作家大佛次郎との、新作のあり方を巡る議論が再度筆を執らせたらしい。
当時、劇場の制作室にいた織田紘二さんによると、三島は、スタッフとの創造に全精力を傾けた。紙粘土で装置模型を作り、衣装選びにも参加。「見せる」ことへの強いこだわりに「三島さんは『目』の人だと思いました」と織田さんは言う。
ただ、現在もよく上演されるのは、中村勘三郎家のお家芸化した「鰯賣」のみ。再演がない演目もある。児玉教授は「心情重視に傾き、様式に基づく激しい感情表現を体現できる俳優が減ったことが、一番の問題ではないか」と指摘する。
一方、梨園(りえん)の外で再評価の動きがある。古典歌舞伎を現代劇の手法も交え上演する劇団・花組芝居。来年1月、「地獄変」に挑む。
「第1作の勢いがある。でも定式を好むあまり、人物は類型に納まっている気がします」と演出の加納幸和さん。義太夫節は残しつつ、登場人物の強い個性に見合うポップで誇張した表現で、三島が本当に描きたかったイメージを探るという。「若い歌舞伎俳優が、彼らなりのやり方で採り上げる動機になったらうれしいですね」(増田愛子)=朝日新聞2020年11月25日掲載