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新鋭・井上宮の初長編「じょかい」書評 小気味よいほど直球の、グロテスクな怪物ホラー

文:朝宮運河

 「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」。SFホラー映画「エイリアン」の公開時に作られた名コピーである。これをもじって井上宮の新作『じょかい』(光文社)にコピーを付けるなら、「この家では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」ということになるだろう。閑静な住宅街を舞台にした本作では、ありふれた新築の一戸建てが、異様きわまる世界へと変貌する。そこではどんなに泣いても叫んでも、救いはやってこない。

 主人公・安東健次は33歳。新卒で就職したゲーム制作会社を退職した後は、派遣会社に紹介されるアルバイトで細々と食いつないでいる。再就職先を探してハローワークに通っているが、年齢がネックになり仕事が決まらない。そんなある日、10年以上音信不通だった母親から電話がかかってくる。健次の兄・雄貴がこのところ実家に顔を出さないので、様子を見にいってほしいというのだ。といっても、たかだか2週間程度のことなのだが、長男を溺愛する母親は心配でならないらしい。

 次の土曜日、兄夫婦の暮らす家に出かけていった健次は、黒いマスクで顔の下半分を覆った奇妙な男の子と出会う。兄はその子を、自分の息子・祥太だと紹介するのだが、結婚したばかりの兄に5、6歳の子どもがいるわけがない。しかもスマートだった兄は、いつの間にかでっぷりと肥え太り、シャツがはち切れそうになっている。兄の様子はどう見てもおかしかった。

 戸惑う健次の前にさらにもう一人、見知らぬ人物が現れる。ぼろぼろのワンピースを着て、土まみれの足で歩きまわっている、黒いマスク姿の女だ。兄はこの女こそ自分の妻だといい、女が運んできたどろどろの液体を、音を立てて啜り出す。「健次も遠慮せずに食べてくれ」と勧めてくるバケツには、小バエがたかっている。後ずさりした健次に、一瞬だけ正気に戻った兄は「助けてくれ」と口にする。
 その直後、家の外で祥太と再会した健次は、さまざまな驚くべき事実を知らされた。あの女は祥太の母親ではないこと、兄の雄貴はすでに女に脳みそを吸われてしまっていること、女が「じょかい」と呼ばれていること……。

 後日、兄の家を再訪した健次は、マスクで覆われていた女の素顔を目の当たりにし、悲鳴をあげそうになるのだった。

 女の口が裂けていたのだ。そうとしか言いようがなかった。女は口をあけているのだが、下顎が信じられないほど落ち、それはまるで文楽の人形が物の怪の正体を現すときの、下顎がガクンと落ちるさまそのものだった。
 そしてそのとんでもなく開いた口に、女がせっせとつめこんでいるのは、生の肉だ。豚肉や鶏肉、薄切りや塊や骨付き、すき焼き用の霜降りの見るからに高級そうな牛肉も。(『じょかい』52~53ページ)

 その直後、兄の雄貴と女は目を覆いたくなるような行為に耽りはじめる。生理的嫌悪感の極致ともいうべき、なんともおぞましいシーンだ。それなのについ凝視したくなる不思議な魅力も、井上作品のグロテスク描写にはある。読者はヘビに魅入られたカエルのように、エイリアンに追いつめられた宇宙飛行士のように、神々しくも恐ろしいじょかいの姿を見守るしかないのだ。

 健次は一連の出来事について、学生時代からの友人・悟朗に相談する。しかし怪物がいるという健次の言葉は、カルト宗教説をとる悟朗に一蹴されてしまう。彼のことを信じてくれたのは、じょかいを数十年にわたって追いかけている、宇田川という老人だけ。物語後半は健次と悟朗と宇田川、そして健次の元恋人で兄・雄貴の結婚相手でもある知奈美の4人が、闇に閉ざされた一軒家でじょかいと対峙することになる。

 作者の井上宮はデビュー短編集『ぞぞのむこ』でホラーファンに注目された新鋭。2冊目の著作となる本書では、前作にも見られたぐちゃぐちゃどろどろのグロテスク志向をさらに推し進めつつ、物語作家としてもぐんと成長している。タイトルに見られる特異な言語感覚、ウエットなのに透明感のあるエロティシズムの要素も健在だ。小気味よいほどに直球の怪物ホラーなので、この手の小説が好きな人は必読だろう。

 ちなみにこの作品が舞台としているのは、コロナ禍以前の社会。祥太やじょかいの付けている大きな黒マスクが、奇異なものとして描かれているが、今日それは当たり前の光景となっている。この微妙な価値観のズレをどう処理するのだろう、と思いながら読んでいくと、見事にコロナ禍以降の現実に繋がっていった。この効果は、多くの人がマスクで顔を覆っている今日でしか味わえないもの。時代が生んだ〝マスクホラー〟としても、広く読まれるべき作品なのだ。