辻村深月作品が好きだー! ずっと好きだー! 今までいろんなところでそう言ってきたけれど、こうして自分の好きな小説についてじっくりと書く機会を頂いたのは初めてかもしれない。
私が辻村深月さんの小説と出会ったのは高校生の頃だった。辻村さんのデビュー作である『冷たい校舎の時は止まる』が学校の図書室の「今月のオススメコーナー」に置かれていたのだ。講談社文庫の本で、表紙の絵は白い粘土で描かれていた。普段の私ならあまり手に取らない装丁だったが、司書の先生のオススメというならば信じてみるかと読み始め、その数週間後には本屋に駆け込んで当時出版されていた辻村さんの本を片っ端から購入する羽目になっていた。なんせ、どの本も面白いのだ。そして――これは自分の中で最大級の称讃なのだけれど、どの本もちょっと意地が悪い。
物心ついた頃には、私は自分の世界の見方があまりに意地悪なことに気が付いていた。やたらと気合を入れて化粧をしていた保育園の先生が可愛い子にだけ優しいことも、統率力のない小学校の先生がやんちゃな生徒に媚びを売ることを生存戦略としていたことも、幼い私は知っていた。そういうことに敏感な子供ほど、愛されなきゃと思って空回りしたり、あるいは逆に大人が好きな子供を演じてあげて、「大人って馬鹿だなぁ」と内心で舌を出すようになる。私は元々前者だったのだが、早々にめんどくさくなって努力を諦めた。愛される子供の才能を、私は持っていなかった。
でも、中学生、高校生になるうちに、大人は私を子供ではなく、一人の自我を持った人間として扱ってくれるようになった。そうなると今度は、いい人でありたいと思うようになった。人の揚げ足を取らないようにしよう。そもそもなんで自分はこんなに皮肉っぽい見方ばかりしてしまうんだ? さっさと性格を直せ! そう戒め続けていたところに、辻村さんの本が登場したわけである。私は心の底からビックリした。「えー! 自分以外にもこんな風に考えている人がいるの!?」と。そしてそのままそれは、十代の私にとっての救いになった。
『凍りのくじら』は数ある辻村さんの作品の中で、私が最も好きな本だ。傑作小説なので、読んだことがない人は今すぐ本屋さんに駆け込んで欲しい。
主人公である理帆子の父は、藤子・F・不二雄を「先生」と呼び、作品を愛していた。そんな父が失踪してから五年、高校生になった理帆子は図書室で「写真を撮らせて欲しい」という一人の青年と出会う――。
この本の何が凄いって、ドラえもんの道具がキーアイテムとしてバンバン登場するところだ。文章から溢れるドラえもんへの愛、そしてそれをものの見事に作品へと昇華させる素晴らしい手腕。「好き」という気持ちって、こんな風に作品作りに活かせるんだ! と高校生の私は衝撃を受けた。今でもふとした時に読み返すが、何度読んでも終盤の展開で大泣きしてしまう。
思春期という多感な時期に触れた作品というのは人格形成にガッツリ食い込むため、一度好きになった作品は大人になっても心の特別な場所に位置している。『凍りのくじら』という本はまさしくそれで、自分の中にある「好き」と「意地悪さ」を肯定してくれる存在だ。どんな時でも自分の味方になって心に寄り添ってくれる本、そういうものに巡り合えた十代の私はとても幸運だったと思う。