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「生物はなぜ死ぬのか」著者が語る、人類の生き残りに「個性の尊重」が不可欠な理由

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死はヒトだけの感覚

 少し残酷な感じがしますが、多くの生き物は、食われるか、食えなくなって餓死します。これをずっと自然のこととして繰り返しており、なんの問題もありませんでした。つまりざっくり言うと、個々の生物は死んではいますが、たとえ食べられて死んだ場合でも、自分が食べられることで捕食者の命を長らえさせ、生き物全体としては、地球上で繁栄してきました。

 寿命で死ぬ場合も基本的には同じで、子孫を残していれば自分の分身が生きていることになり、やはり「命の総量」はあまり変わっていません。食う、食われる、そして世代交代による生と死の繰り返しは、生物の多様化を促し、生物界のロバストネス(頑強性、安定性)を増しています。つまり生き物にとっての「死」は、子供を産むことと同じくらい自然な、しかも必然的なものなのです。

 事実、自身の命と引き換えに子孫を残す生き物、例えばサケは産卵とともに死に、死骸は他の生き物の餌となり、巡り巡って稚魚の餌となります。もっと直接的な例ではクモの一種であるムレイワガネグモの母グモは、生きているときに自らの内臓を吐き出し、生まれたばかりの子に与え、それがなくなると自らの体そのものを餌として与えます。まさに、「死」と引き換えに「生」が存在しているのです。

 一方、ヒトの場合は少し複雑です。死に対する恐れは非常に強く、特に身内の死には大変なショックを受けます。私事で恐縮ですが、私の母は、夫(つまり私の父)が突然心不全で亡くなったときに、あまりのショックで「自分が違う世界にきてしまったように、全てのものが以前とは違って感じられる」と言っていました。配偶者や近親者の死は、間違いなくヒトが受ける最大級のストレスです。

 このように、死に対してショックを受けるのは、言うまでもなく、ヒトが強い感情を持つ生き物であるためです。喜んだり悲しんだりもそうですが、相手に同情したり共感する感情は、霊長類や大型哺乳類、鳥の一部にも見られますが、ヒトのそれは他の生き物より抜きん出て強いです。

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 この同情・共感する感情は「優しさ」と言ってもいいのかもしれません。死を怖がる気持ちは、自分が死んだら周りの人が悲しむだろうな、苦労するだろうなという想像からもきています。この同情心(人に対する優しさ)、徳(全体に対する優しさ)などの人間らしい感情・行動は、やはり変化と選択の進化の過程で獲得したものです。つまり、自分だけが生き残ればいいという利己的な能力よりも、集団や全体を考える能力のほうが重要であり、選択されてきたのです。そこから来る死に対する悲しみや恐れは、もっとも人間らしい感情と言ってもいいかもしれません。

 このような感情豊かに発達した脳とは裏腹に、体の構造は他の動物とあまり変わりません。容赦なく死は訪れます。発達したヒトの脳は、当然それから逃れる方法はないかなどと考えます。なんとか老化を免れる方法はないだろうか―つまりアンチエイジングという考えが生まれます。

現代の日本人が直面する「生存の危機」

 生き物が死ななければいけないのは、主に2つの理由が考えられます。その一つは、すぐに思いつくことですが、食料や生活空間などの不足です。天敵が少ない、つまり「食われない」環境で生きている生物でも、逆に数が増えすぎて「食えなくなる」ことはあるでしょう。この場合、絶滅するくらいの勢いで個体数の減少が起こり、その後、周期的に増えたり減ったりを繰り返すか、あるいは少子化が進み、個体数としては少ない状態で安定し、やがてバランスが取れていきます。

 少し脱線しますが、この生物学をヒトに当てはめてみます。たとえば現在の日本人は、食料や生活空間の不足はほとんどないのですが、保育所や教育環境、親の労働環境など、いくつかの子育てに必要な要素が不足しています。それにより、子供を作れなくなる少子化圧力が強まり、出生数は減り続けています。死亡率が上がるのも、出生率が下がるのも、人口が減るという意味では同じです。

 この減少が、日本人の絶滅的な減少に繫がるか、あるいは出生数が低い状態で安定するのかは、今後これらの少子化圧力要因がどのくらい改善されるかにかかっています。不足は衣食住の物質面だけでなく、精神面においてもあります。子供を作りたくなくなるという将来の不安要素は、当たり前ですが確実に少子化を誘導します。私は、何も対策を取らなければ、残念ですが日本などの先進国の人口減少が引き金となり、人類は今から100年ももたないと思っています。非常に近い将来、絶滅的な危機を迎える可能性はあると思います。未来への投資は簡単ではありませんが、手遅れにならないうちに真剣に取り組むべきです。

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多様性のために死ぬということ

 さて、話を元に戻します。生き物が死ななければいけないもう一つの理由は、「多様性」のためです。こちらのほうが、生物学的には大きな理由です。

 というのは、先に述べた「食料や生活空間の不足」は結果論で、しかも限られた空間で生活している生き物の話であって、一般的な「死ななければならない理由」ではありません。不足が生じた場合、どこか新しい場所に移動したり、新しく食べられるものを探し出したりすればいいのです。本当の死ななければならない理由は、これよりも、もっと根本的なことです。

 生物は、激しく変化する環境の中で存在し続けられる「もの」として、誕生し進化してきました。その生き残りの仕組みは、「変化と選択」です。変化は文字通り、変わりやすいこと、つまり多様性を確保するように、プログラムされた「もの」であることです。その性質のおかげで、現在の私たちも含めた多種多様な生物にたどり着いたわけです。

 具体的には遺伝情報(ゲノム)が激しく変化し、多様な「試作品」を作る戦略です。変わりゆく環境下で生きられる個体や種が必ずいて、それらのおかげで「生命の連続性」が途絶えることなく繫がってきたのです。

 そのたくさんの「試作品を作る」ためにもっとも重要となるのは、材料の確保と多様性を生み出す仕組みです。材料の確保については手っ取り早いのは、古いタイプを壊してその材料を再利用することです。つまり、「ターンオーバー」です。ここにも「死」の理由があります。

 次に、多様性を生み出す仕組みについてですが、体の構造が複雑になると、生命誕生時に行われていたような、偶然に任せてバラバラにして組み直すようなフルモデルチェンジは、マイナス面のほうが大きくなりました。もっと巧みな方法で、ある程度変化を抑えつつ多様性を確保するマイナーなチェンジが必要です。そこで登場したのが、オスとメスがいる「性」という仕組みです。

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子供のほうが親より「優秀」である理由

 さて本題に戻り、この性による多様性の獲得と死ななければいけない理由の関係です。

 ここからは私の考えですが、生物の成り立ちは「変化と選択」による進化の賜物であるとお話ししてきました。性に関しては、卵・精子・胞子などの配偶子の形成および接合や受精が「変化」を生み出します。

 一方「選択」は、もちろん有性生殖の結果生み出される多様な子孫に対して起こりますが、実は子孫だけではなく、その選択される対象に、それらを生み出した「親」も含まれているのです。つまり親は、死ぬという選択によってより一族の変化を加速するというわけです。
 当然ですが、子供のほうが親よりも多様性に満ちており、生物界においてはより価値がある、つまり生き残る可能性が高い「優秀な」存在なのです。言い換えれば、親は死んで子供が生き残ったほうが、種を維持する戦略として正しく、生物はそのような多様性重視のコンセプトで生き抜いてきたのです。

多様性の実現に重要なコミュニティによる教育

 となると、極端な話、子孫を残したら親はとっとと死んだほうがいいということにもなります。親は進化の過程で、子より早く死ぬべくプログラムされているわけです。

 ご存じのように、確かにそのような生き物はたくさんいます。前にお話ししたサケなどはまさにそうですね。サケは川の最上流まで頑張って行って、そこで卵さえ産めば「親はすぐ死ぬ」でいいのです。昆虫などの多くの小動物は、サケ同様、子孫に命をバトンタッチして「あとはお任せします」といった具合に死んでいきます。

 しかし、例えばヒトのような、子供を産みっぱなしにできない生き物の親は、そう単純ではありません。自分たちよりも(多様性に富んでいるという意味で)優秀な子孫が独り立ちできるようになるまでは、しっかり世話をする必要があります。つまり子育ては、遺伝的多様性と同程度に重要ということになります。

 ヒトのような高度な社会を持つ生き物は、単なる保護的な子育てに加えて社会の中で生き残るための教育が重要です。そのために、親は元気に長生きしないといけません。親だけではなく、祖父母や社会(コミュニティ)も教育、子育てに関わります。ですのでヒトの場合は、親や祖父母の元気さ、加えて周りのサポートが大切になってきます。ヒトのみならず、大型の哺乳類は成長して自活するまで親やコミュニティの保護が必要なので、基本的には同じです。そして重要となってくるのは、親の存在のみならず「子育て(教育)の質」です。これは「社会の質」と言ってもいいかもしれません。

 生物は、常に多様性を生み出すことで生き残ってきました。有性生殖はそのための手段として有効です。親は子孫より多様性の点で劣っているので、子より先に死ぬようにプログラムされています。ただ、死ぬ時期は生物種によって異なります。大型の哺乳動物は大人になるまで時間がかかるため、その間、親の長期の保護が必要となります。ヒト以外の大型哺乳動物、例えばゾウなども、生きる知恵を、親を含めた集団(コミュニティ)から学びます。

 このような生物学の死の意味から考えると、ヒトの場合、親や学校なども含めたコミュニティが、子供に何を教えるべきか自ずと見えてきます。まず、必要最小限の生きていくための知恵と技術を伝えるのは当然です。昔で言うところの「読み・書き・そろばん」で、現代の義務教育の教科になります。これは社会のルールを理解し、協調して生活するための最低限必要な教育です。

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コミュニティが作る個性

 ここからが重要ですが、次に子供たちに教えないといけないのは、せっかく有性生殖で作った遺伝的な多様性を損なわない教育です。ヒトの場合には、多様性を「個性」と言い換えてもいいと思います。親や社会は、既存の枠に囚われないようにできるだけ多様な選択肢を与えること、つまりは単一的な尺度で評価をしないことです。

 加えて、この個性を伸ばすためには親以外の大人の存在が、非常に重要になってきます。自分の子供がいなくても、自分の子供でなくても。社会の一員として教育に積極的に関わることは、親にはできない個性の実現に必須です。特に日本は、伝統的に「家」を重んじ、しつけや教育をそこで完結させる文化があります。子供が小さいときには、基本はそれでいいのですが、個性が伸び始める中学・高校生くらいからは積極的にたくさんの「家の外のいい大人」と関わらせるべきです。私は、少子化が進む日本にとって社会全体で多様性を認め、個性を伸ばす教育ができるかどうかが、この国の命運を分けると思っています。

 他人と違うこと、違う考えを持つことをまず認めてあげないといけませんね。残念なことに日本の教育は、戦後の画一化したものに比べて良くはなっていますが、まだそこまで若者の個性に寛容ではありません。若者が自由な発想で将来のビジョンを描ける社会が、本当の意味で強い社会になります。

 正直に言って、個性を伸ばす教育というものは、ともすれば型にはまらないことを良しとする教育なので難しいです。それを達成するための一番簡単で効率的な方法は、「本人に感じさせること」でしょう。親やコミュニティが自ら見本を見せることです。また、親の世代も含めた社会全体で多様性(個性)を認め合うことが大切です。「君は君らしく生きればいいよ、私がやってきたみたいにね」という感じです。子供の個性の実現を見て、親はその使命を終えることができるのです。

 補足ですが、個性的であることを強要するのは、違います。何が個性か、何が正解かは、誰も答えを知らないのです。それが多様性の一番の強みであり、予測不可能な未来を生きる力なのです。