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朝倉宏景さんが考えるホラー映画「ミスト」の現代的な意義

「ミスト」

 幽霊よりも、本当に怖いのは生きている人間のほうだ、という言葉をよく聞く。ホラー映画も、個人的には、幽霊ものよりも、「人間怖い」系のほうが好きだ。だって、幽霊は見たことないけれど、人間はそこかしこにあふれているし、普段接している人たちが、本当は怖い本性を隠しているともかぎらないからだ。

 「ミスト」は「人間怖い」系のホラーを好んで見るようになったきっかけの映画だったと思う。ある日、街中にたちこめた霧の中から、得体の知れない怪物が主人公たちを襲う。一見すると「エイリアン」のような、いわゆる「クリーチャー」系の映画かと思いきや、本当に怖いのは、恐慌と疑心暗鬼にかられた人間たちなのだった。

 主人公たちは、スーパーマーケットに籠城し、生き残りをはかるが、おぞましい怪物は明かりに吸いよせられるように、次々襲い来る。スーパーには食料が潤沢にあるわけだから、ふつうに考えればそこで救助を待ちながら、全員で助けあって危機を乗り切るのが賢明な判断のように思える。しかし、この霧がいつ晴れるのか、どこまで広がっているのか、助けが本当に来るのかまったくわからない混沌とした状況のなかで、一致団結をはばむのは人間同士の猜疑心なのだ。この出来事を天罰、神の審判と声高に説く狂信的な女性が現れ、最終的には人間同士で殺しあう悪夢のような事態に発展する。

 ここにとどまるべきか、脱出するべきか――すべては己の選択にかかっている。判断材料はほとんどないから、何が正解かもわからない。あの時点で出ていった、あの人の行動が正しかったのではないかと絶えず迷うから、疑心暗鬼にもなるし、他人の言動を逐一監視してしまう。そして、衝撃のバッドエンドであるラストを私は忘れることができない。判断をあやまったと気がついたときには、すでにすべてが手おくれなのだ。

 あらためて観なおしてみると、なんだか今の世の中の状況と似ているなぁと思ってしまうのは、牽強付会だろうか。変異をつづける「見えない」ウイルスと、いつ終わるとも知れない自粛生活のなか、それぞれの行動と判断によって、ときにはみずからの生命までもが危機におちいってしまう。コロナワクチンの接種を見送った人が、感染し、亡くなってしまうというケースもあれば、少数ではあるが、ワクチンによって命を落としたのではないかと思われる事例も報告されている。ワクチン接種だけでなく、イベント自粛か、開催か。旅行をキャンセルするのか、強行か。人流抑制か、経済優先か。自分の身を守るために下す一つ一つの判断と選択によって、周囲の人たちの命まで危ぶまれかねない。正解が見えてこないからこそ、分断も、いがみあいも、憎しみも深くなっていく。                                

 本来なら、スポーツや音楽が人々を結びつける役割を担うはずなのだが、オリンピックやフジロックフェスティバルなどで交わされた賛否の声を見るにつけ、人の心は本当に難しいと思ってしまう。コロナウイルスとスポーツというテーマで書いた、私の新作『エール 名もなき人たちのうた』では、社会人野球選手の主人公も常に迷いのただなかにいる。書いている私も、果たして何が「正解」なのか、最後までわからないままだった。ただ、いちばん意識したのは、我々の平和な日常生活のすぐそばに――あるいは自分の心の内側にこそ、「ミスト」で描かれたような「ホラー」が紙一重で存在していることを、主人公に自覚させることだった。現在の社会をとりまいている、深く、よどんだ「霧」が少しでも晴れ、見通しが良くなることを願ってやまない。