「俺」の生きづらさ、被害と加害と
「ハッピーエンドじゃないというのは、私の小説の中で、もしかしたら唯一かもしれない」
5年ぶりの長編小説『夜が明ける』(新潮社)について、カナダで暮らす西さんはオンラインでそう語る。
高校生の「俺」と、「アキ」こと深沢暁(あきら)は同級生だった。身長191センチ、吃音(きつおん)のあるアキとの出会いに始まり、30歳を過ぎるまで、2人の男性それぞれの人生が、「俺」の視点で語られる。
貧困、虐待、過酷な労働環境。ロストジェネレーションと呼ばれる世代の彼らにとって、社会生活は決して順調ではない。劇団に入ったアキは、〈心が強くなったら自分の思う通りの発声ができる〉と言われ、文字通りぞうきんがけの日々を送る。アルバイトに明け暮れ、〈負けちゃダメだ〉と自分に言い聞かせる「俺」は制作会社に就職、テレビ業界の下積みは苦しい。
「男性の一人称が『僕』から『俺』になる瞬間ってありますよね。そこには『俺』を選び取らないといけない社会の圧みたいなものがあって、しんどいんちゃうかなと思ったんです。もしかしたらこの主人公は無理しているんじゃないかと。そこからどんどんできあがっていきました」
社会を覆うマッチョな価値観に同化し、時に人を傷つけ、自分も傷つく男性の生きづらさが描かれる。だが、痛切に心に響くのは、2人の人生に登場する女性たちの置かれた環境や過去だ。直接の描写はなくても、言葉の端々から様々な連想が働く。
「『俺』やアキは一応、屈強な男性なわけです。もちろん屈強な男性だからといって、苦しいことがないわけではない。でも、じゃあそのとき女性は、セクシュアルマイノリティーの方は、ということを念頭に置いて書きました。見えにくい存在についてどれだけ考えたか、が大切だと思っている。なので今回はすっごく時間がかかりました」
単純な被害者、加害者はどこにも登場しない。「人間って、多面的ですよね」と西さんはいう。
「自分の被害は、100%認めていい。その被害はあなただけの、ほんとうに苦しい、そしてたった一つの被害やから。だからといって、その被害が自身の加害性を相殺することはない。それは分けて考えないといけない。逆ももちろんしかり。被害と加害は矛盾せず併存する、ということをここ数年できちんと自覚できた」
傷つき疲弊した「俺」の震えを止めたのは、後輩の言葉だった。
「自分の加害性にも気づけるし、被害についても、私たちの世代よりは声をあげられる。すごく軽やかで、かっこよく見えて。もちろん若い世代にすべてを任せてはいけないけれど、でも私たちロストジェネレーションから見たまぶしさみたいなものを『俺』の目を通して書いたという感じです」
「人間は変われる、ということを(登場人物たちに)託したかった」。ハッピーエンドではなくても、そこへつながる祈りが小説には込められている。
裏にある、さらなる差別 気づきの3冊
(1)上間陽子 『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)
(2)オーシャン・ヴオン 『地上で僕らはつかの間きらめく』(木原善彦訳、新潮クレスト・ブックス)
(3)ミッキ・ケンダル 『二重に差別される女たち』(川村まゆみ訳、DU BOOKS)
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米国の作家ジョン・アーヴィングに触発されて、西さんはこう考えているという。
「明らかな可視化される差別があるときに、その裏には可視化されない、もっとより弱い立場の人への差別や加害がある」。それに気づかせてくれる3冊を選んでもらった。
(1)はルポルタージュ。沖縄で貧困状態にいる若い女性たちが、どう暮らさざるを得ないかを丹念なインタビューで聞き取った。「読んでいて胸が苦しくなるんですけど、上間さんの彼女たちへの寄り添い方がほんとうに誠実で品がある。こういう人が一人でも増えたら世界は変わるんじゃないか、という本です」
(2)はベトナム系アメリカ人の詩人による自伝的長編。アメリカへ渡った祖母、母、息子の家族を描く。「彼らの歴史がそのままベトナム戦争の被害の話なんです。この主人公はゲイで、アメリカにおいて二重にマイノリティー。生きること自体が痛みなわけで、それをどう生きてきたか、その痛みをどう美しさに変えてきたのか、という小説です」
(3)は英米各紙で人気の女性ブロガーによるエッセー集。「いわゆるインターセクショナリティー(交差性)の話です。男性でも白人でもない、二重の被差別の構造の真ん中にいる黒人女性の立場について書かれている。私はフェミニズムのムーブメントをほんとうに素晴らしいと思っているけれど、そういう美しいムーブメントですら取りこぼす存在がある、ということに気づかされます」=朝日新聞2021年10月30日掲載