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坂口安吾「堕落論」 懊悩自体をポジティブにとらえる

さかぐち・あんご(1906~55)。小説家

平田オリザが読む

 先回の太宰治の項で、かつての文学少年・少女たちは必ず太宰治にはまったものだと書いた。そしてまた一定数の若者たちは、「太宰なんて偽物だ。俺はアンゴだ」と嘯(うそぶ)いたものだった。かく言う私も、そのような文学少年の一人だった。

 「半年のうちに世相は変(かわ)った」「若者達(たち)は花と散ったが、同じ彼等(ら)が生き残って闇屋となる」「けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ」

 本作の発表は一九四六年四月。敗戦後、それまでのモラルが崩壊していくことに呆然(ぼうぜん)とする日本人たちに「戦争に負けたから堕(お)ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」と喝破した。同年発表の小説「白痴」と併せて安吾は一躍人気作家となり、太宰、織田作之助らと戦後無頼派の象徴ともなった。

 私自身は、このあとに立て続けに発表された「いずこへ」「風と光と二十の私と」といった自伝的な短編が好きだった。かつて角川文庫に「暗い青春・魔の退屈」というすぐれたアンソロジーがあって、自分が何者であるか迷っていた十代の私は、その文庫本をすり切れるまで読み返した。

 北村透谷の自死以来、日本の近代文学は自我の懊悩(おうのう)を最重要課題としてきた。人生に悩む自分、文学に悩む自分、自分とは何かに悩む自分を描くことを得意とし、そこに様々な名作も生まれた。太宰はその懊悩をもっとも純化した形で小説にした。しかし戦争、敗戦という極限状態において、その懊悩をポジティブに捉える、もう一つの新しい文学が誕生した。

 安吾は言う。「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」=朝日新聞2021年12月18日掲載