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プルースト「失われた時を求めて」 無意志的記憶を介し真実へ

Marcel Proust(1871~1922)。フランスの小説家

大澤真幸が読む

 約百年前に出版された大長篇(へん)小説で、フランス文学、いや世界文学を代表する傑作。読んだことがない人でも、紅茶に浸したマドレーヌの味から過去がよみがえるシーンは知っているだろう。全体は、「私」の人生の回想という形式をとっている。

 少年時代の思い出から始まって晩年へと至る。社交界での会話、恋愛の苦しみ、倒錯的な性……人生のすべてがここにある。こう説明すると、十九世紀的な教養小説(ビルドゥングスロマン)を連想するかもしれないが、違う。『失われた時を求めて』は、教養小説的なものを拒否している。教養小説とは、主人公が経験を重ねながら成長し、理想の人格へと発展していく過程を描いた小説だ。「私」も経験を通じて多くを学ぶが、人格的に成長するわけではない。

 小説のタイトルから、過去をノスタルジックに思い起こす話だと想像するかもしれないが、これも全然違う。記憶は重視されるが、それは無意志的記憶である。無意志的記憶とは、たまたま口にしたマドレーヌの味覚のような、偶然の感覚的な出会いを通じて、意識することなく現れる記憶のことである。この記憶が歓(よろこ)びをもたらすのは、記憶を通じて、過去と現在を貫く本質が、時間を超越した永遠性をわれわれのうちに創造するのが感じられるからだ。プラトンのイデアのようなものが、現出するのである。

 だが、真実がそのようなものだとするならば、哲学的な思索や知性によって直接アプローチすべきではないか。が、それは不可能だ、というのがこの小説を貫く洞察である。時間を超えたものは、無意志的記憶や、あるいは感覚的な印象を媒介にしなくては現れない。

 最後に「私」は、人間の有限性を超えた精神的な真実への道として、芸術を、とりわけ文学を見いだす。「芸術の残酷な法則」は、人間が死ぬことによって「永遠の生命をやどす草、豊穣(ほうじょう)な作品という草が生い茂ること」だ。そして「私」は、自分の過去を素材とした長い物語を書こうと決意する。=朝日新聞2022年2月19日掲載