平田オリザが読む
長く続いた連載も私の寄稿は最終回。半年ほど前から残りの回で取り上げる作家は決めていた。ところが担当者との行き違いがあって、掲載が一回減ってしまった。本当は大岡昇平、三島由紀夫、高橋和巳で連載を終える予定だったのだが、三島か高橋のどちらかを選ばなければならなくなった。これは私にとって、象徴的な出来事だった。
三島文学は、近代日本文学が西洋に追いつき追い越せと苦心惨憺(さんたん)した末の結晶のような作品だ。その論理性、その豊かな叙情性は、内容と形式のいずれもが国際標準であり、実際、三島は西洋の一般読者に読まれる最初の日本文学になった。
高橋は六○年代、全共闘世代の間でもっとも人気のある作家の一人だった。知識人の抱える呻吟(しんぎん)や矛盾を描き「苦悩教の教祖」とも呼ばれた彼の作風は、理想と現実の間で惑う当時の若者たちの気持ちに鋭く合致した。
だが彼を教祖、まして始祖と呼ぶのには、いささか違和感がある。振り返ってみれば日本文学は北村透谷、二葉亭四迷以来、ずっと苦悩してきた。漱石も芥川も太宰も、思い浮かぶのは、しわの寄った額に手をあててうつむく姿だ。日本の文学者は皆、苦悩を繰り返し、その苦悩自体を文学としてきた。それは端的に言えば、近代西洋の文学を知ってしまった先覚者たちが、どうやって日本語で人間の内面を表現するかという苦悩だった。三島と比すなら、高橋の文学はその苦悩の歴史の結晶だ。
『悲の器』は高橋のデビュー作にして代表作。読者は「これが第一作か」と、その圧倒的な筆力に驚くだろう。すでに中国文学の研究者としても一部で注目されていた高橋に賞を取らせるために、河出書房新社は第一回文芸賞の締め切りを待ったという伝説もある。
七○年、三島は自衛隊市ケ谷駐屯地で自決。その翌年、高橋は結腸がんのため三九歳の若さで早世する。戦後も、戦後文学も、いや近代日本文学自体がこの時期、一つの大きな峠を越えた。=朝日新聞2022年3月5日掲載