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「春のこわいもの」書評 制御できない本能が不意を打つ

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2022年04月16日
春のこわいもの 著者:川上 未映子 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784103256267
発売⽇: 2022/02/28
サイズ: 20cm/201p

「春のこわいもの」 [著]川上未映子

 『ヘヴン』が英ブッカー国際賞の最終候補となり、世界的評価も高まる著者の最新刊は、コロナ禍が迫りくる東京を描いた六つの短編から成る。いずれも日常が崩壊する直前の不穏さが兆しているが、パンデミックはあくまでも後景にあり、登場人物たちは個別の気がかりにとらわれる。直視せず否認してきたものに、不意打ちされるのだ。
 「あなたの鼻がもう少し高ければ」は、美容整形の資金のため「ギャラ飲み」を志願する女子学生が、容姿に見合わないその目論(もくろ)みを徹底的に嘲罵される。反ルッキズムの理念とは対照的に、美醜をめぐる文化的価値観から逃れられない人の欲望と現実。無意識にまで刷り込まれた檻(おり)の存在を一編は浮かび上がらせる。
 「ブルー・インク」では、プラトニックな関係の女子生徒からの大事な手紙をなくした男子高校生が、彼女と夜の学校に忍びこむ。真空のような非日常性が立ち上がるなか、「僕」が覚える性衝動はリアルか幻想か。他者との距離感が軋(きし)むように変化した、感染症蔓延(まんえん)初期の感覚が甦(よみがえ)る。
 なかでも出色は「娘について」の一編だ。女性小説家にかつての友人から突然、電話がある。一時同居もし、青春時代をともに過ごした相手だが、親がかりで女優を目指す裕福な友にはつねに彼我の経済格差を感じていた。予想外の電話は記憶の深層へ意識を向かわせる。嫉妬と虚栄心からあのとき自分は彼女に何をしたのだろう。何者にもなれないことの絶望を、彼女とその母親にぶつけて憂さを晴らしたのではなかったか。
 「それは全身に鳥肌が立って、危うく身悶(みもだ)えしてしまうほどの快感だった」。こうして過去の愚かな自身の亡霊が立ち現れ、現在の実存を脅かすのである。
 著者は本書で、個人の強迫観念と不安感を鮮明に描き出した。収束の見えない感染症も怖いが、本当に怖いのは制御できない人間の野性の本能なのだと、読者にずどんと突きつける。
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かわかみ・みえこ 1976年生まれ。作家。著書に『乳と卵』『愛の夢とか』『あこがれ』『夏物語』など。