1. HOME
  2. コラム
  3. 書評家・杉江松恋が読む第167回直木賞候補作 胸を打ち、現実に力を与える「絞め殺しの樹」

書評家・杉江松恋が読む第167回直木賞候補作 胸を打ち、現実に力を与える「絞め殺しの樹」

杉江松恋さん=撮影・川口宗道

揺れ続ける直木賞

 直木賞は日本のエンターテインメントの看板となる文学賞であってもらいたい。

 それが出版界に関わる者の総意だろう。今回で第167回を迎えた直木賞だが、純文学を対象とする芥川賞と比べると、選考基準にわかりにくい部分がある。直木賞は作家の旬を逃す、と言われた時期がある。作家が最高水準に達したと見なされる作品に授賞しそびれることがよくあったからだ。エンターテインメントを大衆小説と言い換えていいのならば、多くの読者から支持を集めている作品になぜ授賞しないのか、という疑問も当然湧いてくる。もちろん賞は人気投票とは違うのだから、内容を充分に吟味した上で受賞作は決められている。それにしても基準は見えにくい。おおざっぱに言ってしまえば、芥川賞とは小説の技巧が優れた作品に贈られるものだろう。では直木賞は何なのか、と問われても、はっきりとした答えを返すことが難しいのである。それゆえ、直木賞はいつも揺れ続けているように見える。

 第167回直木賞は以下の5作が候補作となった。

・河﨑秋子『絞め殺しの樹』(小学館)
・窪美澄『夜に星を放つ』(文藝春秋)
・呉勝浩『爆弾』(講談社)
・永井紗耶子『女人入眼』(中央公論新社)
・深緑野分『スタッフロール』(文藝春秋)

 候補になるのは窪、呉、深緑が3回目で、河崎と永井が初である。狭義の歴史小説が1作、短篇集が1作それぞれ入り、バランスがとれたラインアップになった。後述するが、どの作品が候補に挙がるか私は自分なりの予想を立てており、『絞め殺しの樹』『爆弾』『スタッフロール』はその中に入っていた。だから言うのではないが、今回最も受賞に近いのは『絞め殺しの樹』なのではないかと思う。

 よく知られているように、芥川・直木賞は作家や評論家ではなく、賞の主催者である文藝春秋の編集者が下選を勤めている。編集者が手分けをして読んだ中から候補作が選ばれる仕組みである。今回の候補作を読んで感じたのは、時代の鏡となる小説を評価する傾向が下選にあるということだった。今回選ばれたのはすべて、現実の似姿として世相を反映する、あるいは小説の中に織り込まれた要素から現実を照射する作品であった。

呉勝浩『爆弾』(講談社)

犯罪小説であると同時に諷刺小説 呉勝浩「爆弾」

 呉勝浩『爆弾』は、上半期のミステリー界でもっとも注目された作品である。本作は警察小説で、些細な暴力沙汰で一人の男が逮捕されることから話は始まる。スズキタゴサクという人を食った偽名を使うその男は取り調べられても言を左右にしている。やがて彼が口にした言葉のとおり、都内で爆発事件が起きるのだ。タゴサクはさらなる爆発が起きるだろうと予言してみせる。俄かに緊張が高まり、警視庁から派遣されてきた取調べの専門家とタゴサクとの間に駆け引きが始まるのである。口を割らせてテロの悲劇を未然に防ぐことはできるか。そもそも計画とはどのようなものなのか。取調室内でほぼ物語が展開するという密室劇であり、スズキタゴサク対取調官の心理闘争が読みどころになっている。

 ミステリーとしてはさらにお薦めしたいことがあるのだが、読んでのお楽しみとしていただき、現代小説としての優れた点を強調しておきたい。本作で描かれるのは、現代の日本において個人が直面している、生きづらい状況だ。新型コロナウイルス流行のため医療体制が逼迫した際に、命の選別という問題について取りざたされたことは記憶に新しい。作者はそこまで考えて物語を構想したわけではないと思うが、同様の状況が本作でも描かれるのである。階層間の格差が広がり、生きる望みを失う人が続出する状況、他罰志向の傾向、顔の無い誰かによる悪意の蔓延といった世の中のありようが事件を通じて見えてくる。犯罪小説であると同時に諷刺小説としても成立しているというのが『爆弾』の強さだろう。

窪美澄『夜に星を放つ』(文藝春秋)

現代の孤独を描く連作短編集 窪美澄「夜に星を放つ」

 唯一の連作短編集である『夜に星を放つ』は5篇から成っている。各篇で星座がモチーフとして使われていて、たとえば巻頭の「真夜中のアボカド」では語り手の綾という女性が、他界した一卵性双生児の妹・弓に双子座のカストルとボルックスを重ね合わせるのである。綾の中では婚活アプリで出会った麻生さんという男性の存在が日に日に大きくなっているが、彼の態度はどこかつれない。一方で綾は、亡くなった弓の恋人であった村瀬君と月命日に一時間だけ会うということを続けている。自分に弓の面影を重ねているのであろうことを察しつつも、そのつかず離れずの関係を変えるには至らない。麻生さん、村瀬君、いずれも綾にとっては近いようで他人のままの男性なのだ。彼女が感じる淋しさが読者にも痛いほど伝わってくる。人は基本的に孤独である。そのぽつんとした孤立のありようが、天の星座との対比で描かれる短篇集なのだ。

 この世に居場所がない人を優しく見守ることは窪にとって重要な創作テーマである。私が最も評価するのは「湿りの海」で、妻に去られた男性が隣室に越してきた母と娘の家族を見守る話である。二つの世帯の間は壁と扉で隔てられていて、隣室の二人に何か問題があると感じても語り手は深く踏み込むことができない。その隔絶されたありようは極めて現代的だ。巻末の「星の随に」も、両親の離婚と再婚という出来事によって揺れ動く少年の心を描いて、切ないものを残す。

永井紗耶子『女人入眼』(中央公論新社)

女性視点で鎌倉時代に新たな光 永井紗耶子「女人入眼」

 永井紗耶子『女人入眼』は歴史小説ではあるが、男性中心に描かれてきた歴史の、女性視点による再話が試みられているという点で、極めて現代的な視点を持つ。起点になるのは鎌倉開府から3年後の1195年である。戦火によって焼け落ちた東大寺大仏殿は、この年源頼朝の寄進によって再建が叶い、落慶法要が行われた。天台座主の慈円は、再鋳造された大仏の入眼には女性がふさわしいと言う。仏に入眼して魂を吹き込むという行為が、男たちが戦乱によって作り上げた体制の上に、新たな秩序を築きあげるのは女性である、ということの比喩として用いられているのだ。

 頼朝と北条政子の娘・大姫を後鳥羽天皇の内裏へ入れる計画が持ち上がり、そのために大江広元の娘であり六条殿の女房であった周子が鎌倉へ下る。その周子の視点から、政子・大姫母子の姿が物語られるのである。源頼朝を陰で支え、時に自らが決断をくだしたことで北条政子は知られる。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が人気を呼んでいるが、決してその話題に寄り掛かった作品ではなく、政子のありようを通じて女性による政治を描くことが主眼となっているのだ。政治の駒として同性を動かす政子のような女性がおり、一方で自身の感情を表に出すことができずに苦しむ大姫の悲劇がある。よく知られた歴史に、これまでとは異なる角度から光が当てられ、知的好奇心の尽きない作品だ。

深緑野分『スタッフロール』(文藝春秋)

映画史題材にキャラクターに強い力 深緑野分「スタッフロール」

 深緑野分『スタッフロール』は映画史の興味深い一幕を題材とする小説である。2部構成になっていて、第1部は1970〜80年代が中心、第2部は2010年代の物語になっている。ジョージ・ルーカス「スターウォーズ」などのSF映画をきっかけに特殊造形技術が注目されるようになったのが前者、CG技術の興隆によってなんでもありの世界が実現した現在が後者ということになる。核にあるのは、思い描いた夢を自分の手で形にしてみたい、映画として動かしてみたい、という技術者たちの情熱だ。二つの時代をつなぐのはマチルダ・セジウィックという女性の特殊造形技術者の存在で、彼女はキャリアの全盛期に突如失踪し、伝説の存在となってしまう。後半の主人公となるヴィヴィアン・メリルは、マチルダとの間に奇妙な縁が生まれ、彼女の業績に再び光を当てることに力を貸すことになる。

 裏方、技術者の名を字幕に形として残すこと。そこに題名の意味がある。ましてマチルダの時代は、現在より女性の地位が低かった。そのことにも意味があり、本作は働く女性の物語にもなっている。創作への尽きない情熱と、働く者にとっての公平さが主題なのだ。これまでの深緑作品は主題先行の感があり、キャラクターもプロットのために造形されたような弱さがあった。それを克服し、マチルダやヴィヴィアンたちが物語を牽引する役割をこなしている。キャラクターに強い力のある小説だ。

河﨑秋子『絞め殺しの樹』(小学館)

女性の幸せが厳しい時代の現実に向き合う 河﨑秋子「絞め殺しの樹」

 女性作家がもう一人。河﨑秋子『絞め殺しの樹』は作者の故郷である北海道の地を舞台にした物語である。根室生まれの橋宮ミサエには両親がなく、新潟で遠縁の者に厄介になって暮らしていた。そこに根室の吉岡という家から彼女を引き取りたいという話があり、ミサエは生地に戻る。だが、そこで待ち受けていたのは牛馬のように労働を強いられる辛い毎日であった。学校に行かせてもらうこともなく、ただ生きるためだけに働き続ける。それでもなんとか先行きに光が見えたとき、ミサエは吉岡の家が自分を女郎屋に売り飛ばそうと考えていることを知ってしまう。

 昭和初年に生まれた女性の一生を描いた小説である。ミサエはやがて教育を受けて助産婦として働き始める。恩義ある者から頼まれたために、辛い記憶のある根室に戻るが、そこで結婚をして家庭を持つことになった。だが、母となってもミサエの人生には逆風が吹くのである。題名の『絞め殺しの樹』が指すのは菩提樹のことで、彼女の人生に絡みついて締め上げ、息の根を止めようとしてくる辛い運命の象徴である。今よりも人権に関する意識が薄かった時代、女性が自分だけの幸せを手に入れることが難しかった状況を、ミサエという主人公を通じて河﨑はしっかりと描いている。この小説の最も素晴らしい点は、橋宮ミサエの人物像である。作者は彼女に安易な救済を与えようとはしない。つまり偶然や運命のいたずらによって現実を超えた奇跡が起きるような小説ではないのである。ミサエの眼前にあるのはあくまで厳しい現実であり、彼女はそれをひたすら受け入れるしかない。何度も打ちのめされながらも、生きることを選んで淡々とその日を送っていく彼女の姿に、読者は胸を打たれるはずだ。物語は虚構であるが、その中に書かれたことには現実を賦活するような力が備わる。橋宮ミサエとはそうした登場人物なのである。

佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』(角川書店)

候補作にならなくて残念なのは 佐藤亜紀「喜べ、幸いなる魂よ」

 以上5作について紹介した。どの作品にも美点はあるが『絞め殺しの樹』が頭抜けていると私は感じる。その判断がどうであったかは、7月20日の選考会でわかるだろう。

 先に自分なりの候補作予想をしていたと書いたので、蛇足かもしれないが書いておきたい。『爆弾』『絞め殺しの樹』『スタッフロール』に加えて私が候補作にふさわしいと考えていたのは、佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』(KADOKAWA)、清水裕貴『花盛りの椅子』(集英社)、柚月麻子『ついでにジェントルメン』(文藝春秋)の3作だった。『花盛りの椅子』の主人公は新米の家具修復業者で、椅子やベッドなどを手がけることで、それらに宿った過去の記憶を見るという内容である。幻想小説であり、家具の幻影を通じて東日本大震災の記憶が描かれる。震災文学についての評価を直木賞が下す機会であったので、同作が候補にならなかったのはもったいないと思う。『ついでにジェントルメン』はコミカルな短篇小説集だが、男性の思い込みが女性側の視点によって覆されるという逆転の構図がどの作品にもあり、フェミニズム小説としてもいい。柚月のこうしたユーモア路線が評価される日がくるといいのだが。

 候補作にならなくて最も残念だったのは佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』である。日本のエンターテインメントが到達しえた最高水準がここにあり、最も読むべき小説である。歴史小説で、舞台は16世紀フランドル地方に設定されている。亜麻糸商の娘ヤネケ・ファン・デールは、自らが求める生き方、知的でかつ誰からも制約を受けない暮らしを守るために、女性のみによって組織された互助団体ベキン会に身を投じる。その毅然とした生き方を、ヤネケに恋心を抱く快男子ヤンの視点も交えながら描いた物語だ。とにかくヤネケの人物像が素晴らしく、簡にして要を得た語り口もあって快適にすらすらと読める。物語を読むという快感を味わいたければ、まず本書を読むべきだ。本書のみならず、佐藤作品はこれまで一度も直木賞候補に挙がったことがない。それはおかしい、と思うのである。『喜べ、幸いなる魂よ』のような作品を候補に挙げ、どう評価するかを示すことで直木賞はさらに強く、逞しくなれるはずである。今後の下選・選考に期待したい。

第167回芥川賞・直木賞候補作はこちら