怪談は日々のつらさを忘れさせてくれる
――『アナベル・リイ』は2020年初頭から21年秋まで雑誌「小説 野性時代」に連載された作品です。ホラーの長編を、というのは編集部からのオーダーだったのでしょうか。
「小説 野性時代」で連載をというお話は何年か前からいただいてました。内容は何でも構わないということだったんです。どうしようかなと考えていた矢先に、藤田(宜永氏。作家で小池さんの夫)の肺に癌が見つかって、とても恋愛小説やサスペンス小説が書ける心境ではなくなってしまって。でも、幻想怪奇小説なら日常を離れて、恐怖の世界に遊ぶことができる。本当に怖い小説を読んだり、怖い映画を観たりしている時って、抱えこんでいる人生のつらいことを束の間、忘れてしまえる、という利点があると思います。読むだけじゃなくて、書いている時も同じ。だから、今回は幻想怪奇作品にしようと決めました。
――恐怖を扱ったフィクションは、なぜか癒やしや安らぎを与えてくれることがありますね。
そうなんです。苦手な方には理解できないかもしれませんけど(笑)。それに恐怖ものが好きな方って、私の知る限り、皆さん優しくて穏やか。「怖かった」「トイレに行けなくなった」という感覚を理屈ではなく、素直に楽しんでいる方が多くて、その作品の文学的価値が高いか低いかという議論をしようとする人はいません。趣味に合わないものを高圧的になって批判したりもしない。あくまでも内輪の、個人的な楽しみとして受け入れられています。
だから書く側も純粋に楽しんで書ける。いいものを書いたんだから文壇的に評価されたい、という野心のようなものとも無縁でいられる。そこも幻想怪奇小説というジャンルのもつ、特殊性だと思います。
作品の成否を分ける、千佳代のキャラクター
――物語は主人公・久保田悦子の手記という体裁をとっています。「霊的な現象には懐疑的だった」彼女が、死者の姿に怯えて暮らすようになったのはどうしてか。その秘密が少しずつ明かされていくという構成ですね。
悦子は霊の存在なんて信じない、人は死んだらそれで終わりという、現代人に比較的よく見られるドライな死生観の持ち主です。怪談も作り話としてなら楽しめるけど、本気で震え上がるような思いはしたことがない。作中に「女の軍人」みたいだという比喩が出てきますけど、そういう合理的な世界で生きてきた主人公が、霊的な出来事に遭遇し、それまで持っていた価値観を大きく変えられてしまう。悦子の性格や家庭環境は、その怖さが効果的に表れるように決めていきました。
――1978年、都内のバーでアルバイトをしていた悦子は、女優の卵・千佳代と知り合います。この千佳代のキャラクターが絶妙ですね。感受性が強くて、好奇心旺盛。悦子への親愛の情を隠しませんが、どこか危うさを感じさせるところもあります。
千佳代のキャラクター造型にはかなり苦労しました。ありふれた通俗的な価値観で作りあげた女性だと、物語がすごく安っぽくなって、底の浅いものになってしまう。千佳代は人なつこくて可愛くて、思わず助けてあげたくなるような女性。だけどどこかおかしい。理屈では説明できない部分で、どことなく変わっているということが伝われば、この小説は成功するだろうと思っていました。
――タイトルの『アナベル・リイ』とはエドガー・アラン・ポオが亡き妻をモチーフに書いた詩です。作中には千佳代が演じたアングラ芝居の演目としても登場します。
ポオという作家の核心にあるのは、小説にしても詩にしても死ですよね。それも忌まわしいだけでなく、死イコール美という感覚が常にある。ポオの死後発表された「アナベル・リイ」で描かれているのもまさに死の世界であり、死んだ女性との途切れることのない繋がりです。
アナベルのモデルになっているのは若くして肺病で死んだポオの妻ヴァージニアで、ポオがあまりに貧しかったので、彼女の遺体は暖房もない冷たい部屋に横たえられていたといいます。そうした背景も含め、書こうとしている物語の世界に触れてくるものがあったので、今回タイトルに使用しました。
生者と死者は近いところにいる、という感覚
――年上の恋人・飯沼と結婚して間もなく、千佳代は病に倒れ、そのまま他界してしまいます。以来、悦子の周囲で奇妙な出来事が起こるようになる。日常の中にさりげなく死者が入り込んでくる……というこの感覚は、小池さんの怪奇小説に共通しているものです。
母がとても霊感の強い人で、わたしは子どもの頃から不思議な話をたくさん聞かされて育ちました。「そういえば昨日、寝室に死んだお祖母ちゃんがきたのよ。何か言いたそうにしていたから、今度聞いてみなくちゃね」というようなことを日常会話の中で話してくる。夏の日の午後、近所のスーパーまで歩いて買い物に行く途中、路上に一台の車が停まっていて、運転席に男の幽霊が座っているのが見えたとか、数えきれないほど奇妙な話を聞きました。
母から聞いたエピソードは、これまで何度か短編の中に書いてきましたが、そんな母の影響で、生者と死者はそれほど遠くないんじゃないか、ふだん、どこかですれ違っていてもおかしくないんじゃないか、という感覚が幼い頃からわたしの中に染みついていたような気がします。
――それにしても本書の幽霊出現シーンには、並々ならぬリアリティがあります。悦子の家の応接間に人影が現れるくだりや、バーの席に俯いた千佳代が座っているくだりなど、背筋が凍るほど怖ろしいです。
そのあたりは今言ったような環境で育ったので(笑)、自然なかたちで情景が浮かんでくることが多いですね。たとえば悦子たちが千佳代の亡霊を目撃して、恐怖のあまりバーのオーナーの部屋に逃げ込む。テレビを付けると漫才師が二人、賑やかにしゃべっているお笑い番組が流れてくる。観客の笑い声も聞こえる。でも、漫才師が何の話をしているのか、わからない。わからないままに、観客はずっと笑い続けていて、延々と同じ映像が流れてくる。ああいうシーンは個人的にすごく好きで、あまり悩まずに書けます。
ただし文章には細心の注意を払っています。こういう言い方をすると自画自賛みたいですが、幻想怪奇小説は何よりも文章が優れていないといけない。このジャンルの出来を左右するのは、一にも二も文章だと思うんです。書く側も好きなジャンルだからお手軽に書いている、という意識はまったくなくて、むしろ厳しい修行をしているような感じがあります。
――なぜ千佳代が悦子の周囲に出現し続けるのか。因縁話のような分かりやすい理屈はありません。悦子が飯沼と恋愛関係になったことが関係していそうですが、そこもはっきりとは描かれませんね。
ええ。あくまで悦子がそう解釈しているというだけで、本当のところは分かりません。海外のホラー映画なんかだと、こういう曰く因縁があって幽霊が出るんだとはっきり描かれることが多いですけど、わたしは説明がつかない話の方が好きなんです。怨みがあって化けて出られるより、なぜかまったく分からないけど幽霊がさまよっているという方が、はるかに怖ろしいと思う。だから、わたしの書く怪談はどうも苦手だという読者も少なくありません。もっと理由を書いてほしい、曖昧でよく分からないから、ちっとも怖くない、とか。怖さの感覚は人それぞれなので構わないんですけど、わたし自身は因果関係のない話、説明のつかないものにこそ恐怖を感じますね。
――ここまで純粋に幽霊の怖さを描いた長編は、わが国でも珍しいと思います。現代ホラー小説のひとつの到達点だなと感じました。
わたしがこれまで読んできた中で一番怖かったゴースト・ストーリーは、イギリスの女性作家、スーザン・ヒルが書いた『黒衣の女 ある亡霊の物語』なんです。老婦人が亡くなり、誰もいなくなった大きな屋敷に、遺産整理の仕事で滞在することになった若い弁護士が幽霊に遭遇する、という物語ですけど、あの怖さは尋常ではない。目に見える形のはっきりした怖さではなく、読んでいる間中、背中のあたりに絶えず冷たい風が吹きつけてくるような、得体の知れない怖さがある。長編ゴースト・ストーリーのお手本のようなもので、ああいう怖い作品が書けたらいいなと思いながら、今回、挑戦してみました。
世代を超えて読まれ続ける幻想怪奇小説を
――小池さんはホラー小説の先駆者ですよね。1988年刊行の長編『墓地を見おろす家』は、国産モダンホラーの先駆けとして高い評価を獲得しています。
『墓地を見おろす家』はスティーヴン・キングに影響を受けて書いたんですけど、当時はまだ日本でキングは今ほど知られていませんでした。キングのような作品を書きたい、書かせてほしい、と頼んでも、なかなか許してもらえなかったんです。
唯一、角川書店だけが出しましょうといってくれたんだけど、単行本は難しいから、というので文庫書き下ろしになりました。それでも書かせてもらえただけで嬉しかったです。とはいえ、案の定、刊行当時はほとんど反応がなくて、鳴かず飛ばずでした(笑)。それが30年以上も静かなブームを維持し続けて、携帯電話もパソコンも出てこない昭和の恐怖物語が、今の若い人たちに読み継がれている。執筆当時、私はまだ35歳でした。それほど昔に書いたものが、今も読まれているのは本当にありがたく、不思議でもあります。
――それは小池さんのお書きになっている恐怖が、普遍的だからではないでしょうか。
だといいんですけど。幻想怪奇って昔から、三島由紀夫をはじめとする日本の文豪が手がけてきた分野でもあります。その脈々と続く流れを受け継いでいる、という意識はあります。一時期の流行を追うのではなく、世代を超えて読み継がれるようなものを書いていきたい。
だからわたしは「ホラー小説」っていう呼び方には抵抗がある。ホラーというとどうしても現代人の恐怖を描いた物語という印象が強くなるので。「怪談」でも「幻想怪奇」でもいいんですけど、自分が書いたものに関しては、できれば別の呼び方をしたいなと思っています。
――近年は幻想怪奇系の作品を集めたアンソロジー「小池真理子怪奇譚傑作選」が刊行されるなど、〝怪奇小説の名手・小池真理子〟にあらためてスポットが当たっているように思います。
ありがたいことに読者の広がりは感じますね。幻想怪奇もののファンが、一方でわたしの恋愛小説や一般文芸を読んでくれているとは限らない。逆に怖いものが本当に苦手で、恋愛ものやサスペンスは読むけど、怪談だけは避けているという方もいます。でも書く側にとっては、興味のある複数のジャンルを手がけるのは、ごく自然なことです。そして、どのジャンルの作品にも、わたしという作家にしか書けない世界が共通して存在する、と思っています。
喪失に向き合う日々に書かれた『アナベル・リイ』と『月夜の森の梟』
――『アナベル・リイ』の中盤以降は大反響を呼んだエッセイ『月夜の森の梟』と連載時期が重なっています。両者は〝亡き人に思いを寄せる〟というテーマが共通しているようにも感じました。
『アナベル・リイ』は、事前に詳しいプロットも作ってあったので、夫との死別の影響を直接、小説の中に描く、ということはありませんでした。2020年初頭、藤田が死の床についてから亡くなって少したつまで、2回休載させていただきましたが、それ以外は甘えることなく、粛々と書き継ぐことができたと思います。ただ彼がもし生きていたら、『アナベル・リイ』もまた違った形になったのかもしれません。
もっとも身近だった伴侶を看取る、という初めての経験をしながら執筆した作品だったので、生と死に関して、それまでとは違う感覚に襲われていたのは間違いありません。そんな中で、恐怖の世界に遊ぶことはつかの間の安らぎでもありました。井戸の中に落ち込んでいくような精神状態から、わたしを救ってくれていたのもこの小説だった気がします。
――死者との度重なる遭遇を通して、悦子の合理主義は揺らいでいきます。小池さんご自身は、霊の存在についてどうお考えになっていますか。
完全に信じていますね。人間が考えたり感じたりしたことは、肉体がこの世から消えても、何らかの形で残り続けるんじゃないでしょうか。だから死後の世界があるという単純な話ではないし、わたし自身、死後の具体的なイメージはわかないのですが、人が何十年も生きてきた証である精神が、肉体と共に消滅するとは、とても思えないんです。そうあってほしいという気持ちもあるのかもしれない。だとしても100パーセント、わたしは霊魂の存在を信じています。